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サニア・レイン伯爵令嬢

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「もうすぐ私、十八歳になるのね」

 執務机に向かっていた私は、書類に誕生日を書き込みながら呟いた。

 独りきり書斎にこもって仕事に励む私の言葉に反応する者はいない。

 気付けば窓から入ってくる光は茜色に染まっていた。

 もうそろそろ今日の仕事は終わりだ。

 処理の終わった書類の束を両手で持って天板の上でトンッと揃える。

 レイン伯爵家襲撃事件。あれから十年の時が流れた。

 跡取り娘である私は、悲しみに暮れる間もなく忙しい日々を過ごしている。

 貴族女性としての嗜みはもちろん学業にも勤しみ、伯爵家の仕事もこなす日々。

 それもこの春、学園を卒業したことで一区切りついた。

「もう成人なんて……早いものね」

 忙しいのは悪いことではない。

 やるべきことがあれば、悲しみだけに浸るわけにはいかなくなる。

 レイン伯爵家は財力に恵まれた豊かな家だ。

 それだけに義務もある。

 私にとって、忙しさは救いでもあった。

「悲しんでばかりいても事態は変わらないもの」

 あの日、私は気付くと屋敷の外に寝かされていて叔父たち家族に囲まれていた。

 襲撃により私たちが暮らしていた本館は消失し、生き残ったのは私一人。

 あの騒ぎで私は両親を亡くしてしまった。

 貴族女性にとって後ろ盾となる男親を失うことは人生への影響が大きい。

 私にとっても、その影響は大きかった。

 しかし、魔族の襲撃によって私が失ったものは他にも多くある。

 目の前で衛兵や侍女を殺されたことで、私は使用人を側に置くことに恐怖を覚えるようになった。

 自分のせいで誰かが殺されるのではないか、という漠然とした不安。

 それが使用人を側に置きたくない理由だ。

「貴族なのに……馬鹿な話だわ」

 私は自分で自分を笑った。

 本来であれば貴族女性は、自分のせいで使用人が傷付くことに慣れる必要すらあるのだ。

 他人に対する甘さが徒となる場面は山ほどある。

 貴族社会で生き残りたいのなら、使用人ではなく自分を守るべきなのだ。

 私はそんな当たり前の処世術すら、あの騒ぎのせいで持てなくなってしまった。

 自分のせいで誰かが傷付くことが恐い。

 そんな甘さを抱えていてはいけないのに、その恐怖を自分の中から拭い去ることができない。

 私は必要最低限の使用人しか身の回りに置かなくなった。

 レイン伯爵家は経済的に恵まれた家だ。

 その分、伯爵家にしては使用人も多い。

 家令を身近に置く程度のことはしたが、使用人とは距離をとった。

 信頼できる侍女の一人さえ作ることはできなかった。

 それが失敗であると私自身気付いていたが、変えるのは難しい。

 使用人には支配者が必要だ。

 その立場に私は立てなかった。

 当然のように、私の放棄した立場には別の者たちが居座っている。

 叔父一家だ。

 使用人たちは、叔父一家の支配下に置かれていると言っていい。

 今となっては、叔父夫婦の娘であるジュリアンに傅く使用人の方が多いくらいだ。

 家督を継ぐのは私であるし、いずれ実権を握るのも私であるべきだが。

 本当にそれが叶うのか?

 少々の疑問がある。

 苦々しく思う気持ちはあるが、私は使用人の命を盾にして生き残るような選択はしたくない。

 それに女が家督を継ぐなら伴侶が必要だ。

 だが私の心はあの日から、真っ白な毛皮を赤く染めながら守ってくれた獣人のもとにある。

 おぼつかない記憶のなかでは、私は彼に抱きしめられていた。

 幼い日の記憶は夢と混ざり合い、正確な事など分からない。

 それでも、血を流しながら守ってくれた人に気持ちが向いてしまうのは仕方ないことだろう。

 あの獣人が何者で、どんな意図があって私を守ってくれたのかは分からない。

 それでも、あの日から私の心は、あの方のものなのだ。

 仕方ない。

 だから、伴侶を迎えたいと思っても、私が相手を受け入れられるかどうかは不明だ。

 仕方ない。

 伯爵家を正当に引き継ぐ権利を私は持っているが、それが叶わなかった時のことも考えておかなければならないだろう。

 叔父一家のことは気に入らないが、今となっては血縁はあの家族だけだ。

 ジュリアンの性根が腐っているとしても、私がダメなのであれば彼女の血で伯爵家を繋いでいくしかない。

 レイン伯爵家は経済的に豊かな家だ。その分、責任がある。

 魔族の襲撃を受けたあの日。

 本館は焼け落ちたが、別館は無事だった。

 敷地内には複数の別館があり、その一つに叔父家族は住んでいた。

 だから、襲撃のあった夜も騒ぎに気付いて駆けつけてきたのだ。

 もっとも彼らは何の役にも立たなかったが。

 私の介抱は使用人たちがしてくれたし、興味本位でニヤニヤしながら眺められたら良い気分になれるはずがない。

 しかし両親という後ろ盾を同時に失った私に選択肢はなかった。

 焼け落ちた本館に代わって亡き祖父が隠居した後で使っていた別館を住まいとした時、そこに叔父家族も押しかけてきて一緒に暮らすことになってしまった。
 
 私たちは家族だ、と叔父に言われたときには寒気がした。

 叔父たち家族のことは両親も嫌っていたし、私自身も同じ気持ちだ。

 叔父もその家族も、卑怯な癖に臆病でずる賢い。

 隙があれば私の財産を奪うつもりなのだろう。

 実際、危険な場面は度々あった。

 祖父に付いていた家令であるレイノルドが私のもとに来てくれなかったら、どうなっていたか分からない。

 両親に代わって私を教育してくれたのは彼だ。

 祖父が亡くなり、引退していたレイノルドが復帰してサポートしてくれたからこそ今の私がある。

 しかし、その家令も既に高齢。この先は一人でやっていくしかない。

「十八歳にもなれば、私も大人。自分でどうにかするしかないわ」 

 私は椅子から立ち上がりると窓越しに茜色の空を一瞬だけ見上げ、外と内の境界線を強化するような重たいカーテンを閉めた。
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