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生贄令嬢は赤き血にまみれる

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「お父さまァァァァァァッ! お母さまァァァァァァッ!」

 叫ぶ自分の声が遠い。

 飛び散る赤。
 悲鳴。
 殺戮の臭い。

「サニアッ! 隠れていなさいっ!」

 お父さまの声が響く。

「サニアッ! あなただけでも……グウゥ……」

 お母さまの声が響いて、最後の方はくぐもった声で消えた。

 ここはレイン伯爵家の屋敷。八歳の私が両親と共に先ほどまで楽しく食事をしていた部屋が炎の中に浮かび上がる。

 蝋燭の灯りが明るく照らしていた夕食の時間は、突然の殺戮に赤く染まった。

「イヤァァァァァァ! お父さまァァァァァァッ! アァァァァ! お母さまァァァァァァッ!」

 蝋燭の灯りの一部は倒されて消え、一部は予期せぬ方向へと伸びていく炎となった。

 火が部屋の中の物を伝って赤く燃え広がっていく。

 とても現実の事とは思えない。

 恐怖、悲しみ、怒り。

 私の中では色んな感情が踊るけれど、どれ一つとしてピタリと当てはまるものはない。

 とても現実とは思えない。

 その思いだけがカラカラと私の中で空回りしている。

「グルルルル」

「ふふふ。魔族の襲撃とは、かくあらねば」

 黒い魔獣を従えた青白い髪の魔族が部屋のなかを見回して満足気な表情を浮かべた。

 宙に浮かび天井近くから見下ろしている魔族の冷たく光る赤い瞳には興奮の色が浮かんでいた。

 妙に整った顔に背筋が凍るほどの冷酷さを隠しもしないで笑みを浮かべている。

 歪んだ快楽の表情を浮かべている魔族は、何の前触れもなく襲ってきた。

「お父さまァァァァァァッ! お母さまァァァァァァッ!」

 私は叫んだが、両親からの反応はない。

 涙は勝手に流れるし、体は震えているし、どうにかしなければいけないと思いつつも何も出来ないと分かっていた。

 暗闇に沈んだ両親の体を燃え上がる炎が浮かび上がらせるが、身じろぎひとつする様子はない。

「人間とは潰し甲斐すらない生き物だな」

 宙に浮く魔族の足元で、大きな影がゆらりと揺れて立ち上がる。

 ソレは二本脚で立ってはいたものの、真っ黒な毛皮で覆われた魔族だった。

 その周囲では犬型の魔獣が興奮した様子で背を低くしながら唸り声をあげている。

「ふふ。仕方ないよ。それが人間だもの」

 天井近くに浮きながら魔族が声を立てて笑う。

 予想もしなかった魔族の襲撃を前にして伯爵家の警備などひとたまりもない。

 燃え上がるテーブルクロスやカーテンが作る灯りが、幼いサニアの青い瞳に残酷な風景をまざさまと焼き付けた。
 
「お嬢さま、こちらへ!」

「アッ、イヤッ!」

 侍女が私の小さな手を掴んで引き寄せようとする。

 隠し扉から逃がそうとしているのは分かったけれど、私は両親のもとに行きたかった。

 引き寄せる力に抵抗して両親のもとに駆け寄ろうとするけれど、それが危険で無駄なことなのは理解していた。

 頭では分かっていても、心がいうことを聞かない。

「イヤァァァァァァ! お父さまァァァァァァッ! アァッ! お母さまァァァァァァッ!」

 体を揺すぶりながら叫ぶ私の手を侍女が離すことはなかった。

「さぁ、レイン伯爵家の令嬢。私たちのもとにいらっしゃい。なぁに、怖い事などない」

 背の高い魔族の男が、わざとらしく部屋をグルリと見回す。

 爪や牙をかたどった金属の飾りがついたグロテスクな黒い衣装をまとった体は、長く伸びた影のようにヒョロリとして見えた。

 弱々しい体をグロテスクな衣装の下に隠しているようにも見えるが、足元を飾るように散らばる屍たちがそうではないことを証明している。

(あぁ、我が家の衛兵たちが……)

 命を失くした瞳はドロリとして焦点を結ぶことはなく、皆の体は一部がバラバラの所へと飛び散っていた。

 強さを誇り、大らかに笑う彼らですら敵わなかった敵に、小さな体をした八歳の少女に何ができるというのか。

 守られるしか術のない私は、淡いブルーのドレスを生々しい血の赤で汚して怯えながらも、せめて両親のもとへ行きたいと強請る我儘な子どもだった。

「それにしても小さいな。魔王さまの贄となるには幼さすぎる」

 獣のようにとがった赤い口元を歪めながら、黒い獣の魔族が言った。

「ふふ。人族の成長は早い。十年もすれば大人だよ。心配はいらない。大きくなるまでなど、ほんの一瞬。あっという間だ」

 宙に浮く魔族が笑いながら言えば、黒い獣は大きく頷く。

「ならば魔王さまにも満足していただけるだろう」

 黒い獣は狼のような尖った口を歪め、牙を見せつけるようにして笑った。

「ああ、そうだよ。金の髪に青い瞳と凡庸な容姿だが……なんといってもレイン伯爵家の令嬢だ。魔王さまも満足されることでしょう」

 宙に浮いていた男はゆらりと揺らめくと、音もなくスッとサニアに近付いた。

「お嬢さまっ!」

 咄嗟に私を後ろに隠した侍女の首が赤い筋を引きながら飛んでいく。

「イヤァァァァァァ!」

 悲鳴を上げながら侍女に掴まれていた手を引き抜くと、首を失くした体がゴロンと転がった。

「イヤァァァァァァ!」

 再び私は悲鳴を上げる。

 真正面に青い髪の魔族の顔があった。

「ふふ。ご令嬢。私と共に来てもらおうか」

 青白い髪の魔族は赤い唇を歪めるようにして笑みを浮かべた。

「そう怯えるな。お前もきっと魔王さまのことが好きになる」

 黒い獣は牙を剥きだしにして笑顔を作った。

 どちらの魔族を見ても恐怖心しかわかない。私は震えながら首を横に振った。

「ああ。魅力的なお方だからね。心配は必要ない。さぁ、私たちと共に魔王さまのもとへ……」

 宙に浮いた魔族の血にまみれた長い爪が品よく丁寧に私の前に差し出される。

 その爪から滴り落ちる赤い血。

「イヤァァァァァァ!」

 自分の声で何も聞こえなくなればいい。そう思いながら叫ぶ。

 魔族たちの嘲るような笑い声。

 突然、それを切り裂くように響く、バリィィインと窓が破られた音。

 瞬時に緊張が走った。

「誰だっ⁈」
 
 黒い魔族が後ろに飛び退きながら叫ぶ。

「何者⁈」

 真正面にいた魔族は青白い髪をヒュンとなびかせて斜め後方に飛びあがる。

 私を守るように立ち塞がる広い背中。

「彼女は連れて行かせないっ!」

 凛と響く力強い声。

 なびく体毛の下にある盛り上がった筋肉。

 ピンと立ちあがった耳。

 気付けば銀色に光る白い体毛に包まれた獣人が、私と魔族との間に割って入っていた。

「小賢しいですねぇ」

 鋭い叫び声と共に長い爪が上から獣人を襲う。

 彼は素早く避けると右腕を爪の主にめり込ませた。

 大量の赤い血が噴き出る。

「ウオッ⁈」

 黒い魔族が間の抜けた声を上げる。

 噴き出た血で獣人の白い毛が赤く染まっていくのを、

(魔族の血も赤いのね)

 と、思いながら眺めていた。

 青白い髪の魔族は、ガハッと血を吐くと腹に開けられた穴から二つに千切れて床に落ちていった。

 異常な状況に感情も思考もついていかない。

 八歳の私に、冷静な判断など無理だった。

「キッ、貴様! 獣人如きが生意気なっ!」

 鋭い牙と爪とを見せながら黒い魔族が獣人に襲い掛かる。

 黒い魔族の体を獣人が筋肉で膨らんだ太い腕でガシッと受け止めたが、大きく開いた口が白い毛で覆われた首筋へガブリとめり込んだ。

「キャー―――ッ⁈」

 叫ぶことしかできない無能な少女の前で、白い獣人は力強く宣言する。

「彼女はオレが守るっ!」

 噛まれた首筋から獣人自身の赤い血が流れて白い毛を染めていく。

「グッ⁈」

 獣人の腕が黒い毛で覆われた魔族の腹をえぐる。

 飛び散る血に異変を察知したのか、犬型の魔獣が怯えたような鳴き声を上げた。

(あなたは……誰?)

 声にならなかった疑問に答えてくれる者はなく。

 赤くまだらに染まっていく白い体毛を見ながら私は意識を手放した。
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