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第6章 松下尊塾

2 村塾の講義

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 雲浜が坪井と長州上方間の交易について話しあっていた頃、寅次郎の松下村塾では、若い塾生達を集めて講義が開かれていた。 
 寅次郎は正式に村塾の講主となって以降、『孟子』や『日本外史』、『孝経』、『唐鑑』、『経世要録』など学派や和漢を問わず、様々な学問を塾生たちに日々教えていた。 
 この日も寅次郎は自身の幽室で、塾生の久坂玄瑞や松浦亀太郎、中谷正亮、そして一月前に入塾したばかりの吉田栄太郎達を相手に『武教全書』の講義に勤しんでいた。
「『論語』において、門を出れば大賓を見るが如くせよとゆうんは、敬を説くことに該当します。『呉子』において、門を出たときより敵を見るが如くせよとゆうんは、備を説くことに該当します。是等は皆覚悟の道を示しちょり、油断を意味する怠とは真逆の事を意味するのであります」 
 寅次郎は穏やかな口調で本の内容を解説しており、塾生たちはそれを真剣な表情で聴いている。
「武士たる者は、行住坐臥、つまり日常の立ち居振舞いからして、常に覚悟を持たなければならんけぇ、油断などもっての外なのであります。かつて我が先師である山鹿素行先生は、主君の北条氏長から赤穂蟄居を命じられたときに、言い置かれたきことがあれば書付られよとて硯箱を渡されました。じゃが先師は、ひと度外に出たら私情は忘れるべき覚悟をしちょるけぇ、今さら言い置くことなどないとゆわれてこれを拒みました。これぞ武士道の模範ともゆうべきものであり、是程の覚悟がなければ武士など到底勤まらないのであります」 
 寅次郎は一旦「ふぅー」と息を落ち着けた。塾生たちは依然真剣な表情のままだ。
「思うに名君賢将と暗君愚将も、平生の内に定まるものであるけぇ、平生の言行こそ其の遺命とゆえるのであります。じゃけぇ太閤秀吉が死ぬ間際に重々と遺命しても、平生の教戒を疎かにしちょったために、その遺命が守られることはなく、遂には五老奉行達の争いへと発展したのであります。細行を矜まざれば遂には大徳を累はずとは、正にこねーな事を指すとゆうても過言ではないのであります」 
 寅次郎の話はどんどん進んでゆく。
「そもそも敬、備、覚悟は、ただ一武士の身を守ることだけに留まらず、古の名君賢将が是を以てその身を守り、またその親臣大臣を戒め、またその諸士を戒め、またその庶民を戒めたほどの大事な教えなのであります。この教えが徹底されたときにはじめて一人の心は千万人の心となり、君将の心は臣民にまで及び、命令告諭を待つ必要がなくなるのであります。そしてこの教えを忘れなければ、例え器械軍卒が未だ備わらずとも思いは已に半ばに過ぎ、逆に忘れるようなことがあれば、器械軍卒がどれ程備わっていても、かつて斉の威王の臣であった阿の大夫が趙や衛に攻められて領土を取られても放置していたのと同義で、国を守ることはできないのであります。故に身を守るには人に寝首をかかれぬよう心掛けるべきであり、国を守るには敵に寝城を抜かれぬよう心掛けるべきなのであります」 
 寅次郎はきりのいいところで講義を締めくくると塾生たちに対して、
「君達は今日の講義を聴いて、何か思うところはありますか?」 
 と丁寧な口調で問いかけた。
「よろしいですか? 先生!」 
 松浦亀太郎が威勢よく言うと、寅次郎は「よろしい」と返答した。
「先生は先程、門を出れば大賓を見るが如くせよっちゅう敬の教えと、門を出たときより敵を見るが如くせよっちゅう備の教えについて説かれちょりましたが、是等の教えは矛盾しちょりはせんでしょうか?」
 亀太郎は寅次郎に質問を投げ掛けると続けて、
「そもそも大賓は大事な来客っちゅう意味の言葉であり、敵とは意味が正反対なのであります!   にも関わらず、是等の教えが並立して語られちょるのが、私にはどうも腑に落ちないのであります!  この事に関してぜひ先生のご意見をお伺いしたく存じちょります」 
 と言って師の考えを聞き出そうとした。
「確かに是等の教えは、一見矛盾しちょるように見えるじゃろうが、実は全く矛盾はしておらず、互いに互いの教えを補完しあっているのであります。家の門を出て人と接するときは大賓に会うが如くせねばならぬのは、先程申し上げた通りでありますが、全ての人が善人っちゅうわけではなく、中には人から盗みを働いたり、また人を欺いたりする卑劣漢がおるのも事実なのであります。そねーな奴らに不覚を取られんようにするには、常日頃から信のおける人物か否かを判断する目を養う必要があるのであります。じゃけぇ会ったばかりの人は最初敵と見定め、そして信をおくに値する人物であるかどうかをしかと見極めて、もし値するのであれば、その時に初めて大賓に会ったような心持ちで接するのが妥当なのであります」
 寅次郎が亀太郎の質問に答えると、目から鱗が落ちたのか、亀太郎は「なるほど」と満足げな様子で呟く。
「私もよろしいでしょうか? 先生」 
 亀太郎に引き続いて栄太郎が寅次郎に問いかける。
「先生はこの講義で、武士はいつ如何なる時も覚悟を忘れてはならないこと、また人の価値は日頃の行いで決まるものであることを仰られちょりますが、果たして是等の教えを本当の意味で理解して、そしてそれを実行できちょる武士はどれほどおりますでしょうか? 私の目には是等の教えを少しでも理解して、なおかつそれを行動に移せちょる者は一人もおらんように見受けられます。もし私の目が節穴でただ何も見えていないだけなのであれば、ぜひ先生の教えで見えるようにして頂きたく存じます」 
 栄太郎は真剣な眼差しで寅次郎を見据えながら言った。
「僕は今年で二十七になるが、是等の教えを真の意味で理解し、そしてそれを実行しちょる者に出会ったことは、片手で数える程しかないっちゃ。もしこの神州の人間に是等の教えが徹底されちょったなら、癸丑・甲寅の黒船騒ぎの時に、異人共からあねーな恥辱を受けることもなかったじゃろう。じゃけぇ君達が是等の教えを本当の意味で理解して、そして他の人々に広め伝えてゆくことを僕は切に願うのであります」
 寅次郎は優しげな口調で栄太郎の質問に答える。
「もちろんそのつもりで御座います! 私達がこの松下村塾で先生の教えを日々受けちょるのは、真の意味で世に役立つ知識知恵を身に着け、そしてそれを実践していくためであり、決して無用な知識ばかりを詰め込んで、空位空論ばかりを振りかざす学者になるためではないのであります!」 
 明倫館の居寮生で、寅次郎より二つ年上の中谷正亮が豪語した。
「お前もそねー思うじゃろう? 久坂!」 
 中谷はまだ一度も口を開いていない玄瑞に意見するよう促す。
「私も中谷さんと同じ心持であります。私は以前メリケン使節を斬ることが如何に妥当であるかを先生に主張するために、無礼な文を書いて先生の事を詰ったことがございます。じゃが先生はそねーな私を見限ることなく、大言壮語を吐くな、今置かれちょる自分の立場でできることは何かを考えることが大事じゃと繰り返し説かれました。入塾して僅か四月ばかりではありますが、こねーにして先生の教えを受けちょるうちに、如何に自分の考えが浅慮で愚かであったかをますます痛感させられちょる次第であります。私はもっと先生からいろいろな事を学びたく存じちょります」
 久坂が自身の意見を言い終えると、その他の門人達もその通りだと言って、うんうんとうなづいている。
 自身を褒めちぎった久坂の意見に対して寅次郎が何かを言いかけたが、それとほぼ同時ぐらいに梅太郎が幽室に姿を現して、
「寅次郎、梅田殿がお前に会うためにお見えになったが如何するつもりなのじゃ?」 
 と雲浜の訪問を知らせたためにそっちの方に気を取られた。
「もちろんお会いするつもりで御座いますが、僕の予想よりも随分早くお見えになられましたな」
 寅次郎は雲浜本人から十二月ごろに萩に来訪する予定である旨の文をもらってはいたが、自身の所に来るのは年明けごろになるだろうと考えていたため、驚きを隠せずにいる。
「こうしてはおれん。本日の講義はこれで終いじゃ。明日はまた『孟子』の講義を昼九つ時から行うつもりじゃけぇ、気が向いたらぜひ来んさい。待っちょるけぇのう」 
 寅次郎は慌てて塾生たちを帰らせて、雲浜を迎える準備をそそくさと始めた。
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