フンペの海

鈴木 了馬

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 久しぶりのフンペの出現をオペに説明するのは、簡単なことではなかった。
 初めは、身振り手振りで伝えようとしたイソンだったが、そのうちに、木の枝で地面に絵を描いての説明となった。
 オペは、何度も詳細について知りたがり、一つ一つ検証するように訊ねるのだった。
 イソンは、最初、オペに咎められるとばかり思っていて、気が気ではなかった。
 しかし、オペは怒ったり残念がることはなく、ただただ興奮して話を聞いた。
 それでも、自らの責任を感じずにはいられないイソンの気持ちを察して、オペはイソンの肩を叩き、慰めるのだった。
 僅かに窪んだだけの石鍋で煮ているのは、フンペの干し肉だった。
 堅い肉を煮ることで、柔らかくし、食べやすくするのだった。
 味付けは海水の塩味と、干した生姜。
 普段は滅多に食べることのない特別食であった。
 これも、オペの心遣いなのだろう。
 彼はイソンに食べるように促した。
 オペは火を弱くするために、炭を竈の外にかき出している。
 炭火に照らされて、オペの顔が闇夜に赤く浮かび上がった。
 イソンは、そんなオペの横顔を見つめた。
 フンペの肉は解れているが、筋ばっていて堅く、血と脂の味がした。
 木々の間からは、無数の星が見えた。
 二人は、空を見上げながら、しばらく無言で肉を食べた。
 そのうち、オペは唄い始めた。
 イソンには聞きなれた歌だった。
 神々、伝説に残っている先人の名や、山川、動物など、彼らにとって欠くことのできない万物を称える歌だった。
 彼らは自分たちがどこから流れ着いたかについて、まったく興味を示さなかった。
 ただただ伝え聞いたことを行い、自然の恵みをいただく。
 陽が昇れば起きて、日々の営みを繰り返し、陽が落ちれば横になって眠った。
 誰もが、無条件で喜ぶべきことがあれば、唄い、踊った。
 その日はハレの日となり、繰り返し毎年祝うこともあった。
 大切なものを失えば、厳かに弔った。
 涙はなく、思い出に浸ることはない。
 理由はない。
 ずっとそうしてきたのた。
 彼らが執着し、後人に残すのは、生きていくために欠くことのできないことだけだった。
 そうして永らえることができれば、残っていくのだし、消えてなくなるのも自然の定めと言ってよかった。
 「河の熊」の集落が、まさにその「定め」に直面していた。
 夕餉のあと、囲炉裏の火を整えると、オペとイソンは眠りについた。
 イソンは急に「河の熊」のことが気がかりになり、寝付けなかった。
 「河の熊」の集落は、十数人の小所帯の村だったが、その身軽さがゆえに存続してきたと言っていい。
 心配事は、男子が産まれないということぐらいだった。
 実は、イソンの母も「河の熊」の集落から嫁いだ女だった。
 娘を嫁に出し、男子が生まれれば、もらい受ける。
 村々は、そうして子孫を繋いできた。
 ところがである。
 一昨年の終わり頃のことだった。
 「河の熊」が突然オペを訪ねてきたのだ。
 それ自体は、これまでにもよくあることだった。
 しかし、その時は事情が違った。
 オペもイソンも、「河の熊」の窮状をその時初めて知った。
 その前の年は、夏ごろから長雨続きだった。それはオペもイソンも知るところだった。
 そこへ来て、冬には大雪が降った。
 それでも、それだけだったなら重大な事態には発展しなかっただろう。
 新しい年が明けたある日、大山が突然火を噴いた。
 大山とは、「河の熊」の集落がある谷川の遥か西方にそびえる山だった。
 これまでも、小さな噴火は度々あったから、噴火の規模が少し大きいぐらいで、それが「河の熊」の領域にまで影響を及ぼすとは、誰も予想し得なかった。
 事実、噴火の影響がすぐに出たわけではない。
 誰もが噴火のことなど忘れかけた雪解け間近の、穏やかな小春日和の昼日中、平和をぶち破るように谷川を土石流が襲った
 川原近くで、野草を採っていた村人たちは、「河の熊」の直感的な判断と、迅速な指揮のもと、谷上に避難したおかげで皆無事であった。
 しかし、集落が住処とする、谷の複数の横穴は全て水に浸かり、土砂に埋まった。
 壊滅的な打撃だった。
 何がどうなって、このような事態になったのか、確かなところは「河の熊」にも分からなかった。
 「河の熊」は、すぐに先頭に立って、林を切り開き、とりあえずの住処を確保した。
 問題は食料だ。
 残雪も多く、当てにできるのは野草ぐらいなものだった。
 気がかりなことがもう一つあった。
 その谷で、「河の熊」が漁場にしているのは、本流の川と、その支流である枝沢二つだった。
 他にも小さな枝沢がいくつかあったが、安定して収獲できるだけの魚が生息していなかった。
 普段は枝沢は、本流の濁りが収まらなかったりした場合の予備的な漁場に過ぎなかった。
 しかし、本流がこうなってしまった今となっては、枝沢を頼るしかなかった。
 それが、この噴火で枝沢にも異変が起きた。
 その二本の枝沢のうちの右側の一本が、噴火以来、川底が黄白色に変色し始め、生き物が生息できる状態ではなくなってしまったのだ。
 「河の熊」は、ほどなくして、オペを訪ねることを決めたのだった。
 オペはいつものように「河の熊」の訪問を喜んだ。
 しかし、事情を聞くと、驚き、嘆き、そして言葉を失った。
 「河の熊」の集落が生き残るためには、村の移動が最善かもしれない、と思ったが、オペは何も言わなかった。
 決めるのは「河の熊」だからだ。
 翌朝、「河の熊」は帰って行った。
 十分な量には程遠かったが、オペは可能な限りの保存食を持たせた。
 フンペの干し肉、炙って乾燥した魚や貝、などだった。
 それは、大切に食しても、一カ月ももたないだろう量だったが、「河の熊」にとっては、これ以上ない援助であり、涙を流して感謝の意を表していた。
 オペは、今生の別れという思いで、「河の熊」を峠まで同道して見送った。
 仮に食料が尽きても、「河の熊」が再びオペに支援を求めることがないことを、オペは知っていた。
 交流が全くない村同士であれば、こういう事態は「戦い」に発展する。
 そういうことは珍しいことではなかったのだ。
 自然の摂理には抗えないのだ。
 それからふた月経っているが、イソンが見る限り、オペの頭の中からは、もはや「河の熊」や彼の村のことは、すっかり無くなってしまったように思えた。
 それは当然のこととは言え、イソンにはすっきりしない気持ちだった。
 オペのように振舞うべきことを分かっていても、どうしても「河の熊」のことを、ふとした時に想ってしまうのだった。
 それは、ただただ感情的な話ではないのだ。
 言ってみれば、悪い予感だ。
 その良くない想いを断ち切るために、イソンは「河の熊」の漁場である、かの川を想像してみた。
 しかし、明るい映像は何一つ、イソンの脳裏に浮かんでこなかった。
 大量の土砂と、木々の残骸、岩、渇水した僅かな流れは、濁っていた。
 イソンは寝返りを打って、オペに背を向けた。その時だった。
「河の熊」
 オペがそう言った。
 イソンは最初、オペの寝言だと思った。
 「イソン、河の熊」
 オペが繰り返した。
 オペも起きていた。
 そして、彼もまた、河の熊のことを考えていたのだった。
 「オペ、河の熊」
 イソンがそれに応じる。
「河の熊、河の熊」
 オペは二回言った。
 どうやら、オペは明くる日、出発することを決めたらしかった。「河の熊」の集落へ。
「河の熊、河の熊」
 イソンは、それに応じ、そして目を閉じた。
 オオカミの遠吠えが、分厚い森を越えて、イソンの耳まで届いた。 
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