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四
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洞窟の入り口から差す光が届かなくなるところまできて、イソンは左の壁面を手で探りながら右に折れる。
そこからしばらく進むと、祭壇に火が灯っているのが見えた。
魚油を灯しているのだ。
氷をかく音も歩みを進めるごとに近くなってくる。
オペが雪室を開けているのだ。
祭壇のある横穴は、奥行きが四間近くあった。
穴の突き当たりと、祭壇の中間点付近の天井には、直径二尺ほどの穴が開いていた。
その穴は当初、石や土などが詰まっていたため、穴とは分からなかった。
本当の偶然から、その穴をオペが見つけた。
その穴の下の地面だけがいつも濡れている理由は、天井からの水滴だった。
オペは、洞窟の裏山を何日もかけて探索した。
そして定めた地点を掘った。
まだ漁の男たちが生きている頃の話だった。
山肌の土を取り除くと、岩肌に到達した。
その周辺を探って行くうちに、岩がくぼんでいる所を見つけ、そこに詰まった石や葉っぱや土をかき出した。
そこから、三尺ほど掘り進めたころ、穴は突然貫通した。
なぜオペが穴を掘り出したのか。
男たちには分からなかった。
何の役に立つのか。
それでも、オペが言うなら、手伝うよりほかない。
男たちは、とにかく洞窟へ穴を到達させる、貫通させる、その一心で作業を進めた。
オペは夢に見たのだ。
洞窟の明かり取り。
そして、雪を取り込める。
ガラガラ、と残りの詰め物が崩れていき、洞窟の暗闇が見えた瞬間、歓声が上がった。
雪どけの季節だった。
次にオペは、穴の周囲で溶け残っている雪を、穴から洞窟に投げ込み始めた。
その作業からは、二手に分かれた。
オペは洞窟の中。
男たちが雪を穴に放り込む。
投げ込まれた雪を、オペが横穴の突き当たりに運んで積み上げる。
その作業を連携して、三日ほどやると、横穴の奥に、厚さ四尺ほどの雪の壁ができた。
その雪壁をくり抜いて、オペは雪室にした。
雪が溶け切るころ、天井の穴は、外側から丸太と石で塞がれる。
そして雪が降る前にまた開放され、それが積雪で自然に塞がれるに任せる。
夏の間、雪室は溶け、小さくなり、完全に氷の塊と化す。
それでも、食物の冷蔵には十分役にたった。
室は平らな火山石で蓋をしてある。
石蓋の外側は、ザラメ雪で覆っていく。
食物を取り出す際は、その蓋を取り除く作業が必要だ。
ザラメは溶け、洞窟の奥から吹く風で冷やされ、固まる。
オペは、その氷を砕く作業をしていた。
「河の熊」
そうイソンが言うと、オペは氷を砕く作業を一旦止めて、顔を上げ頷いた。
そして残りの作業をイソンも手伝った。
傍らには、縄を編んだ背負い籠があり、籠の底には大ぶりの木の葉が敷き詰められている。
蓋が開くと、まず、背負い籠の底に砕かれた氷を敷く。
その上に、干し肉や魚貝の干物など入れる。
最後に、氷と葉っぱで蓋をした。
それが終わると、二人はすぐに出発した。
「河の熊」の谷に下りる尾根の頂上についたのは、ちょうど、太陽が真上に上った頃だった。
いつも下りる小さな枝沢の谷を二人は下り始めた。
沢の状態は以前と変わらなかった。
だから二人は、自分たちの予感が、単なる取り越し苦労か、とわずかな希望を持った。
しかし、その期待は一瞬うちに崩れ落ちた。
中腹から沢は土砂に埋もれ、流れは仕方なく、その土砂の下に潜り込んでいた。
二人は、本流の流れを探した。
それは間も無く見つかったが、想像を遥かに下回る水量だった。
しかも水は、茶色く泥で濁っていた。
これでは、漁どころではなかった。
事態が日に日に悪化しているのか、変わらないのか、二人には分からなかった。
とにかく、「河の熊」を探さないといけなかった。
オペは、方角と記憶を頼りに、本流を対岸に渡った。
対岸の谷が、「河の熊」の村になっていた。
しばらくして、「河の熊」たちの住居となっていた横穴があった辺りにたどり着いたが、横穴は全て土砂に埋まっていた。
斜面の木々がなぎ倒され、部分的には、地層ごと削り取られ流されたところも散見された。
二人は、土砂を迂回して、何とか尾根へ上がっていった。
そして、しばらく林の中を探してみた。
しかし、村人たちの形跡はなかった。
オペは足を止めた。
上流に向かうべきか、下流に行くべきか。
イソンが本流の方を指差した。
下流に降るくらいだったら、オペのところに来るはずだ、と直感的に思ったからだ。
二人はまた、斜面を降りていった。
見れば、土砂は新しかった。
湿って、乾ききっていないのだ。
それは、土石流が最近流れたことを意味する。
しかも、土砂の流れは、幾筋かに分かれていた。
何度か繰り返して土砂が流れたことを意味していた。
「河の熊」が、オペのところに来た、あの後、何度かの土石流に見舞われたのかもしれなかった。
イソンは、オペを振り返った。
その表情には、失望が宿っていた。
二人はしばらく立ち尽くした。
絶望的な光景が広がっていた。
それでもオペはしばらくして、突然上流に歩き出した。
イソンも後を付いて行く。
オペは、「熊の沢」というところに行くつもりだった。
そこは以前、「河の熊」が、特別な場所として、案内してくれた沢であった。
ほんの思いつきであったが、そこに行けば、何が分かるような気がしたのだった。
「熊の沢」は、「河の熊」の村から上流に半時ほど歩いた対岸に流れ込む沢だった。
はたして、「熊の沢」の入口も土砂が遮断していた。
二人は、土砂を越えて行き、沢の上流を目指して歩いて行った。
やがて、沢の流れを確認できる所まで来た。
それを見て、二人は愕然とした。
水量が極端に少なく、川底は薄黄色に変色していたからだ。
オペもイソンも土砂を越える時に嗅いだ臭いの意味がそこで分かった。
オペは沢まで下りて行き、間近で状況を確かめると、上流に目をやって立ち尽くした。
これ以上、その沢を上る意味は無かった。
生命を宿さない鉱物が流れる沢に、「河の熊」をはじめ集落の人間が移動してきていることはないからだ。
オペはイソンを見遣って、首を横に振った。
「河の熊」の人々は完全に姿を消してしまった。
二人の悪い予感はついに現実となった。
荒涼とした風景が二人をさらに心細くさせた。
二人は、仕方なく下流に向かって歩き始めた。
土砂が運んできた堆積物が二人の歩みを邪魔して、思うように歩けなかったが、先を急ぐ必要がなくなった二人には差し支えなかった。
やっと、最初降りてきた沢に着いた頃には、陽はすっかり傾き、日没は間もなくだった。
二人は、沢を上がっていった。
気が付けば、朝降りてきた山道の入口に二人は辿り着いていた。
もう、太陽は山の向こうに落ち始めた。
何はともあれ、火を起こす必要があり、二人は無意識に役割を分担し、野宿の準備をした。
できるだけ乾燥している倒木や小枝を集めた。
それでも、いざ火口を落とすと白煙がモクモク出て、炎をあげるまでにはそれなりに時間がかかった。
相当歩いたことだし、空腹のはずだったが、二人はやっとついた火を長いこと見つめていた。
そうしているうちに、かき乱され、傷ついた心は少しずつ癒やされていく。
運命は冷酷だが、受け入れるしか無かった。
そうして生きてきたのだ。
「イソン」
オペがふと呼びかけ、笑いながらイソンの方を向いた。
胸板をボリボリと掻いて見せた。
「河の熊」のしぐさを真似しているのだ。
イソンは、微笑みを返した。
「河の熊」は、二人の心の中に宿り続ける。
それでいい、と思える。
オペは立っていって、運んできた荷物から選んで、フンペの干し肉を持ってきた。
命の肉だった。
この次、獲れるのはいつになるだろうか。
「河の熊」は、フンペの肉をことのほか珍重し、喜んだものであった。
オペは、木の棒で火中から焼けた平らな石を掻きだした。
イソンは山側に立って行って、蕗の葉を採ってきた。
オペは干し肉を何枚かの蕗の葉っぱにくるむと、焼けた石の上に起き、その上に炭をいくつか置いた。
葉っぱが焼ける音がした。
水蒸気を含んだ白煙が上がった。
その時だった。
山道の方から動く影が近付いた。
オペは一瞬のうちに、自らの不覚を呪った。
しかし、それが杞憂だということは、次の瞬間に明らかになった。
酷くやつれてはいたが、それはまだ年若い女だった。
オペは立って行って女の顔を検めた。
「河の熊」の四番目の娘だった。
「河の熊」
オペは確かめるつもりでそう言った。
娘は頷き、さらに力なく首を横に振った。
それで十分だった。
集落は全滅したのだ。
その一人の娘を残して。
改めてつきつけられた現実に、オペもイソンも再び肩を落とした。
しかし、何よりもまず、その娘の状態が心配だった。
オペは、娘の肩を抱き寄せて、焚火に近くに座らせ、焼けたばかりのフンペの干し肉を与えた。
娘は、やおらそれにかぶりつき、無心に食べ始めた。
何日もまともな物を口にしていなかったのだろう。
オペは、もう一つの焼けた肉をイソンに渡して、追加の肉を焼いた。
すっかり落胆していたオペにすれば、食べてくれる人がいるだけで救いだった。
遥々食料を運んできた甲斐があるというものだ。
四番目の娘は、イソンよりも一つ二つは歳下だったか、とオペは肉を焼きながら考えていた。
腹が落ち付くと、娘は逆に元気が無くなったようだった。
生命をつなぐことができたからこそ、考える力が出てきて、そして思い出したくないことを考え始めたのだった。
「ヤイ」
力を出せ、という掛け声だ。
オペは娘の不安を察したのだった。
オペはそう言うと、空を指差して見るように促した。
夏の空は珍しく澄んでいて、無数の星がに輝いていた。
「河の熊」
そう言うと、オペは、娘、イソン、自分と、順番に指差して、最後に天を指差した。
そして、両手を天に向けて押し上げるような形で挙げた。
我々は皆、死ねば、星になる、そう言っているのだ。
それは、単純な例えのように聞こえるかもしれないが、宇宙の真実だ。
誰もが等しく自然に召される。
それは、宇宙の偉大な力であり、畏れ多くも、敬い。
そして、その偉大なる力を受け入れることを誰もが許されている。
娘とイソンは、星を見続けていたが、オペは一人立って行き、芒や雑草の類を石鏃で刈ってきて、 焚火から少し離れた山側に敷き始めた。
それを寝床にするらしい。
陽が昇れば動き出す。
沈めば眠る。
それが生きるということだった。
オペはすぐに寝息を立てた。
イソンは、焚火の火を整え、種火だけにした。
娘は、その一連のやり方を興味深げに見ていた。
獣が襲ってきた場合を考えて、腕の長さほどの乾いた木の枝を探してきて、先を焚火の中に差し入れておく。
イソンはそこまでして、娘に微笑んだ。
作業は全て終わった、という合図のつもりだった。
イソンは顎をしゃくって、娘を寝床へ促した。自分は、焚火の横に寝るつもりだった。
風はほとんどなく、静かな夜だった。
陽が昇る前に、出発するはずだった。
それぞれ、どんな夢を見たのだろうか。
イソンは「河の熊」の夢を見たような気がした。
「河の熊」と、川舟で漁をした。
それに、いつもは居ないはずの四番目の娘も漁を手伝っていて、手慣れたものだった。
いっぱい獲れて、皆ご機嫌だった。
いい夢だった。
しかし、起きたら、どんな夢だったか、忘れてしまっていた。
そこからしばらく進むと、祭壇に火が灯っているのが見えた。
魚油を灯しているのだ。
氷をかく音も歩みを進めるごとに近くなってくる。
オペが雪室を開けているのだ。
祭壇のある横穴は、奥行きが四間近くあった。
穴の突き当たりと、祭壇の中間点付近の天井には、直径二尺ほどの穴が開いていた。
その穴は当初、石や土などが詰まっていたため、穴とは分からなかった。
本当の偶然から、その穴をオペが見つけた。
その穴の下の地面だけがいつも濡れている理由は、天井からの水滴だった。
オペは、洞窟の裏山を何日もかけて探索した。
そして定めた地点を掘った。
まだ漁の男たちが生きている頃の話だった。
山肌の土を取り除くと、岩肌に到達した。
その周辺を探って行くうちに、岩がくぼんでいる所を見つけ、そこに詰まった石や葉っぱや土をかき出した。
そこから、三尺ほど掘り進めたころ、穴は突然貫通した。
なぜオペが穴を掘り出したのか。
男たちには分からなかった。
何の役に立つのか。
それでも、オペが言うなら、手伝うよりほかない。
男たちは、とにかく洞窟へ穴を到達させる、貫通させる、その一心で作業を進めた。
オペは夢に見たのだ。
洞窟の明かり取り。
そして、雪を取り込める。
ガラガラ、と残りの詰め物が崩れていき、洞窟の暗闇が見えた瞬間、歓声が上がった。
雪どけの季節だった。
次にオペは、穴の周囲で溶け残っている雪を、穴から洞窟に投げ込み始めた。
その作業からは、二手に分かれた。
オペは洞窟の中。
男たちが雪を穴に放り込む。
投げ込まれた雪を、オペが横穴の突き当たりに運んで積み上げる。
その作業を連携して、三日ほどやると、横穴の奥に、厚さ四尺ほどの雪の壁ができた。
その雪壁をくり抜いて、オペは雪室にした。
雪が溶け切るころ、天井の穴は、外側から丸太と石で塞がれる。
そして雪が降る前にまた開放され、それが積雪で自然に塞がれるに任せる。
夏の間、雪室は溶け、小さくなり、完全に氷の塊と化す。
それでも、食物の冷蔵には十分役にたった。
室は平らな火山石で蓋をしてある。
石蓋の外側は、ザラメ雪で覆っていく。
食物を取り出す際は、その蓋を取り除く作業が必要だ。
ザラメは溶け、洞窟の奥から吹く風で冷やされ、固まる。
オペは、その氷を砕く作業をしていた。
「河の熊」
そうイソンが言うと、オペは氷を砕く作業を一旦止めて、顔を上げ頷いた。
そして残りの作業をイソンも手伝った。
傍らには、縄を編んだ背負い籠があり、籠の底には大ぶりの木の葉が敷き詰められている。
蓋が開くと、まず、背負い籠の底に砕かれた氷を敷く。
その上に、干し肉や魚貝の干物など入れる。
最後に、氷と葉っぱで蓋をした。
それが終わると、二人はすぐに出発した。
「河の熊」の谷に下りる尾根の頂上についたのは、ちょうど、太陽が真上に上った頃だった。
いつも下りる小さな枝沢の谷を二人は下り始めた。
沢の状態は以前と変わらなかった。
だから二人は、自分たちの予感が、単なる取り越し苦労か、とわずかな希望を持った。
しかし、その期待は一瞬うちに崩れ落ちた。
中腹から沢は土砂に埋もれ、流れは仕方なく、その土砂の下に潜り込んでいた。
二人は、本流の流れを探した。
それは間も無く見つかったが、想像を遥かに下回る水量だった。
しかも水は、茶色く泥で濁っていた。
これでは、漁どころではなかった。
事態が日に日に悪化しているのか、変わらないのか、二人には分からなかった。
とにかく、「河の熊」を探さないといけなかった。
オペは、方角と記憶を頼りに、本流を対岸に渡った。
対岸の谷が、「河の熊」の村になっていた。
しばらくして、「河の熊」たちの住居となっていた横穴があった辺りにたどり着いたが、横穴は全て土砂に埋まっていた。
斜面の木々がなぎ倒され、部分的には、地層ごと削り取られ流されたところも散見された。
二人は、土砂を迂回して、何とか尾根へ上がっていった。
そして、しばらく林の中を探してみた。
しかし、村人たちの形跡はなかった。
オペは足を止めた。
上流に向かうべきか、下流に行くべきか。
イソンが本流の方を指差した。
下流に降るくらいだったら、オペのところに来るはずだ、と直感的に思ったからだ。
二人はまた、斜面を降りていった。
見れば、土砂は新しかった。
湿って、乾ききっていないのだ。
それは、土石流が最近流れたことを意味する。
しかも、土砂の流れは、幾筋かに分かれていた。
何度か繰り返して土砂が流れたことを意味していた。
「河の熊」が、オペのところに来た、あの後、何度かの土石流に見舞われたのかもしれなかった。
イソンは、オペを振り返った。
その表情には、失望が宿っていた。
二人はしばらく立ち尽くした。
絶望的な光景が広がっていた。
それでもオペはしばらくして、突然上流に歩き出した。
イソンも後を付いて行く。
オペは、「熊の沢」というところに行くつもりだった。
そこは以前、「河の熊」が、特別な場所として、案内してくれた沢であった。
ほんの思いつきであったが、そこに行けば、何が分かるような気がしたのだった。
「熊の沢」は、「河の熊」の村から上流に半時ほど歩いた対岸に流れ込む沢だった。
はたして、「熊の沢」の入口も土砂が遮断していた。
二人は、土砂を越えて行き、沢の上流を目指して歩いて行った。
やがて、沢の流れを確認できる所まで来た。
それを見て、二人は愕然とした。
水量が極端に少なく、川底は薄黄色に変色していたからだ。
オペもイソンも土砂を越える時に嗅いだ臭いの意味がそこで分かった。
オペは沢まで下りて行き、間近で状況を確かめると、上流に目をやって立ち尽くした。
これ以上、その沢を上る意味は無かった。
生命を宿さない鉱物が流れる沢に、「河の熊」をはじめ集落の人間が移動してきていることはないからだ。
オペはイソンを見遣って、首を横に振った。
「河の熊」の人々は完全に姿を消してしまった。
二人の悪い予感はついに現実となった。
荒涼とした風景が二人をさらに心細くさせた。
二人は、仕方なく下流に向かって歩き始めた。
土砂が運んできた堆積物が二人の歩みを邪魔して、思うように歩けなかったが、先を急ぐ必要がなくなった二人には差し支えなかった。
やっと、最初降りてきた沢に着いた頃には、陽はすっかり傾き、日没は間もなくだった。
二人は、沢を上がっていった。
気が付けば、朝降りてきた山道の入口に二人は辿り着いていた。
もう、太陽は山の向こうに落ち始めた。
何はともあれ、火を起こす必要があり、二人は無意識に役割を分担し、野宿の準備をした。
できるだけ乾燥している倒木や小枝を集めた。
それでも、いざ火口を落とすと白煙がモクモク出て、炎をあげるまでにはそれなりに時間がかかった。
相当歩いたことだし、空腹のはずだったが、二人はやっとついた火を長いこと見つめていた。
そうしているうちに、かき乱され、傷ついた心は少しずつ癒やされていく。
運命は冷酷だが、受け入れるしか無かった。
そうして生きてきたのだ。
「イソン」
オペがふと呼びかけ、笑いながらイソンの方を向いた。
胸板をボリボリと掻いて見せた。
「河の熊」のしぐさを真似しているのだ。
イソンは、微笑みを返した。
「河の熊」は、二人の心の中に宿り続ける。
それでいい、と思える。
オペは立っていって、運んできた荷物から選んで、フンペの干し肉を持ってきた。
命の肉だった。
この次、獲れるのはいつになるだろうか。
「河の熊」は、フンペの肉をことのほか珍重し、喜んだものであった。
オペは、木の棒で火中から焼けた平らな石を掻きだした。
イソンは山側に立って行って、蕗の葉を採ってきた。
オペは干し肉を何枚かの蕗の葉っぱにくるむと、焼けた石の上に起き、その上に炭をいくつか置いた。
葉っぱが焼ける音がした。
水蒸気を含んだ白煙が上がった。
その時だった。
山道の方から動く影が近付いた。
オペは一瞬のうちに、自らの不覚を呪った。
しかし、それが杞憂だということは、次の瞬間に明らかになった。
酷くやつれてはいたが、それはまだ年若い女だった。
オペは立って行って女の顔を検めた。
「河の熊」の四番目の娘だった。
「河の熊」
オペは確かめるつもりでそう言った。
娘は頷き、さらに力なく首を横に振った。
それで十分だった。
集落は全滅したのだ。
その一人の娘を残して。
改めてつきつけられた現実に、オペもイソンも再び肩を落とした。
しかし、何よりもまず、その娘の状態が心配だった。
オペは、娘の肩を抱き寄せて、焚火に近くに座らせ、焼けたばかりのフンペの干し肉を与えた。
娘は、やおらそれにかぶりつき、無心に食べ始めた。
何日もまともな物を口にしていなかったのだろう。
オペは、もう一つの焼けた肉をイソンに渡して、追加の肉を焼いた。
すっかり落胆していたオペにすれば、食べてくれる人がいるだけで救いだった。
遥々食料を運んできた甲斐があるというものだ。
四番目の娘は、イソンよりも一つ二つは歳下だったか、とオペは肉を焼きながら考えていた。
腹が落ち付くと、娘は逆に元気が無くなったようだった。
生命をつなぐことができたからこそ、考える力が出てきて、そして思い出したくないことを考え始めたのだった。
「ヤイ」
力を出せ、という掛け声だ。
オペは娘の不安を察したのだった。
オペはそう言うと、空を指差して見るように促した。
夏の空は珍しく澄んでいて、無数の星がに輝いていた。
「河の熊」
そう言うと、オペは、娘、イソン、自分と、順番に指差して、最後に天を指差した。
そして、両手を天に向けて押し上げるような形で挙げた。
我々は皆、死ねば、星になる、そう言っているのだ。
それは、単純な例えのように聞こえるかもしれないが、宇宙の真実だ。
誰もが等しく自然に召される。
それは、宇宙の偉大な力であり、畏れ多くも、敬い。
そして、その偉大なる力を受け入れることを誰もが許されている。
娘とイソンは、星を見続けていたが、オペは一人立って行き、芒や雑草の類を石鏃で刈ってきて、 焚火から少し離れた山側に敷き始めた。
それを寝床にするらしい。
陽が昇れば動き出す。
沈めば眠る。
それが生きるということだった。
オペはすぐに寝息を立てた。
イソンは、焚火の火を整え、種火だけにした。
娘は、その一連のやり方を興味深げに見ていた。
獣が襲ってきた場合を考えて、腕の長さほどの乾いた木の枝を探してきて、先を焚火の中に差し入れておく。
イソンはそこまでして、娘に微笑んだ。
作業は全て終わった、という合図のつもりだった。
イソンは顎をしゃくって、娘を寝床へ促した。自分は、焚火の横に寝るつもりだった。
風はほとんどなく、静かな夜だった。
陽が昇る前に、出発するはずだった。
それぞれ、どんな夢を見たのだろうか。
イソンは「河の熊」の夢を見たような気がした。
「河の熊」と、川舟で漁をした。
それに、いつもは居ないはずの四番目の娘も漁を手伝っていて、手慣れたものだった。
いっぱい獲れて、皆ご機嫌だった。
いい夢だった。
しかし、起きたら、どんな夢だったか、忘れてしまっていた。
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