【本編完結済み】朝を待っている

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それからの二人

太一が発情期になる話1

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「……はぁ……」

 洗面台の鏡の前に立つ太一から溢れる、重苦しいため息。
 それから太一は無意味に鏡に映る自身の顔を見つめたあと、またしてもため息を吐いた。



 太一が亮と暮らし始めて、早一ヶ月。順風満帆に二人は同棲生活を楽しんでいる。
 しかし太一は今苦々しい気持ちを抱えており、今一度鏡に映る自分を睨みつけるよう、見つめた。

 ──太一が今、自分に腹を立てている事。
 それは、三月を過ぎ四月が終わりそうな時期になっているというのに、未だ発情期が来ない。という事である。
 今まで一度もこんなにも発情期がずれた事はなく、それでも始めは、長年薬を使用していたが前回から突然止めたせいで体に何らかの影響があり数日ずれているだけだろうと、さほど気にもしていなかった。
 しかし、さすがに一ヶ月以上も遅れていると不安は募っていくばかりで、太一は不安に呑まれたまま、何度目か分からないため息をついた。

 常日頃から、淫らに抱き合っている最中、首を晒し、噛んで。とグズグズ泣くほどには、この発情期で正式な番いになる事を、太一はずっと待ち望んでいる。
 そしてそんな太一に亮はいつも望み通り首に綺麗な歯形を付け、「太一の発情期がきたら消えない痕を付けてあげるからね」となだめてくれるのだ。
 勿論それだけでなく、毎晩寝る前に太一の首筋に顔を埋め、「愛してる」と囁きながら太一の首を噛めるのは自分だけだと主張するよう舐めたり吸ったりして、体にも心にも亮が溢れんばかりの愛と安心を与えてくれるからこそ、太一は生まれて初めて、発情期が来るのを待ち遠しく思っていた。
 それだというのに、もう予定より大分過ぎ、そして何の予兆すらない事に太一はここ最近ずっと暗い顔をしては、今のようにため息をつくばかりだった。

 ……このまま一生、発情期がこなかったらどうしよう。

 そう不安に駆られた太一が悲しげに瞳を曇らせ、しかしそれを引き起こしてしまったのはきっと自分のせいなのだろう。と唇を噛み締める。
 “熱に犯され、誰かの肌を欲し、惨めに自分を慰めながら泣く、悪夢のような辛い数日間。”
 それが太一の今までの発情期の全てであり、まるで自分が繁殖する事しか頭にないモンスターのように感じる嫌悪感と、そしてそのたった唯一の繁殖という事すら出来ないかもしれない屈辱さは、生きる価値などないとまで思えてしまうほど、太一にとっては苦痛でしかない日々だった。
 だからこそ、子どもを産めないかもしれないと宣告された日から何よりも太一が望んでいたのは、普通の人のように生活したい。ということで。
 しかし、それを渇望しすぎていたせいで今現在体がおかしくなってしまったのだろうか。と太一は今にも泣き出しそうな顔で洗面台の排水溝をぼんやりと眺めた。

 自身の存在意義を見出だせず、ひっそりと死ぬ事だけを望んでいた、紛れもない過去。
 だが、今の太一にはもう、亮が居る。
 人生を共に歩んでくれる、運命の番い。
 太一をまるで世界で唯一の宝物のようにいつも大事に大切に触れ、愛してると微笑み、太一の全てが綺麗で尊いのだと伝えてくれる、たった一人の運命の番い。
 そんな亮に出会えたからこそ太一は生きる価値を見つけられ、亮が与えてくれる全ての事に感謝し、愛し、そして同じように亮に自分を全て捧げたい、亮の全てを欲しいと、今は痛切に願っている。
 だからこそ、番いとしての証、揺るぎない絆の証が欲しい。と初めて望んでいるにも関わらず、今現在自身の体に何の予兆も見られないことが、ひどく悲しくて。

 ……どうしていつも自分はこうなのだろう。どうしていつも自分の体は意思を裏切り、人生は望むものの反対側へと転がってゆくのだろう。

 だなんて惨めさと不安に押し潰されそうになった太一だったが、しかしその時ズボンの後ろポケットに入れていた携帯が振動したのに気付き、顔をあげすぐさま携帯を取り出し着信履歴を見た太一の瞳が、微かに甘く揺らいだ。


「……もしもし」
『あ、もしもし太一? これからバイトだと思うけど、お昼ごはんちゃんと食べた?』

 携帯を耳に当てれば、聞こえてくる亮の心地よい声。
 それに太一は詰めていた息を小さく吐き出し、へにゃりと眉を下げ、一人微笑んだ。

「ちゃんと食べたよ」
『そっか。良かった』
「毎回確認しなくてもちゃんと食べるよ。亮の方こそ、ちゃんと飯食べた?」
『俺は今から食べてくるよ』
「そっか」

 もう大学が始まっている亮は忙しいにも関わらず、毎回いつもこうして講義の合間にメールをくれたり電話をかけてきては、太一を気に掛けてくれている。
 その事に太一は胸に込み上げる愛しさに途端に暗い感情など忘れ、嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。

 それから二、三話したあと、もうバイトに行く準備をしないといけないからと電話を切った太一だったが、『愛してるよ』と言って電話を切った亮の言葉にやはり一人はにかんだあと、顔を両手でパンパンと叩いては、ぐだぐだ考えていてもどうしようもないだろう。と気持ちを切り替え、バイトへと行く準備を始めたのだった。




 ***



「──うん、バイトが終わる時間に迎えに行くね。気を付けて。じゃあまたあとでね。太一、愛してる」

 今日も今日とていつもの日課になっている電話をすれば、電話の向こうからは少しだけ恥ずかしそうに声を潜め、それでも俺もと返してくれる太一の声。
 それを聞いた亮は、幸せの余韻を噛み締めながら一人ニコニコと微笑んでいた。

 同棲を始めたものの、大学や新しく始めたバイトで忙しい毎日を過ごしている亮。
 けれども、太一と暮らし始めてからの毎日は今までの人生のなかで一番幸せと言っても過言ではなく、亮は毎日天にも昇る気持ちで日々を過ごしていた。
 しかし、ここ最近太一が発情期が来ない事に悩んでいる事を、亮も勿論知っていて。その度に、こうして二人が一緒に居られるだけで幸せすぎて何も要らない。と思いながらも、太一の気持ちに寄り添えるよう、そして太一だけでなく自分も同じよう正式な番いになれる事を待ち望み、焦がれているという事も、亮はきちんと伝えるようにしている。
 そうすれば同じ気持ちだということが安心するのか、太一はいつもホッとした顔をしては甘え、抱きついてくるのだ。
 それがとても愛おしくて堪らない気持ちになる亮は、そんな太一を思い出しやはり一人ニコニコと微笑んでいたのだが、不意に声をかけられ顔を上にあげた。

「近衛君、だよね?」
「……うん」

 太一との電話のお陰でガヤガヤとうるさい講義室の騒音が少しはマシになったというのに、見知らぬ人に突然声をかけられた亮が一瞬だけ真顔になり、しかし即座に作り笑いへと表情を変える。
 けれどもそんな亮の態度に気付かなかったのか、声をかけてきた女性は嬉しげに隣に座ろうとしてきたので、亮はピクリと眉を寄せた。

「私、ずっと近衛君と話してみたくて」
「そうなんだ。でも、」

 ごめん、俺もうパートナーが居るからあんまり近寄られるのは困るんだ。
 そう亮が言おうとした、その瞬間。プルルルッと携帯が鳴り響いた。

 その音にまだ手にしていた携帯をチラリと見れば、太一からで。
 普段太一から掛けてきてくれる事はあまりなく、そして今さっき切ったばかりだというのに何かあったのだろうか。と亮はもう隣に座る女性の事など忘れ、パッと笑顔になりながらすぐさま携帯を耳に当てた。

「もしもし、太一?」
『……』
「え? 太一? どうしたの?」
『……た』
「太一!?」

 電話口から聞こえる、太一の弱々しい呼吸音。
 それに亮が途端に顔を青ざめさせ、太一の名前を焦った声で呼びながら立ち上がった、その時。

『亮っ……、はつじょ、き、今っ、やっと、来た、かもっ……』

 ハァ。と漏れる吐息と共に、必死の声で呟かれた、言葉。
 その言葉に亮が息を飲んで目を見開き、今しがた言われた言葉に自身の体が震えたのが分かった。

「た、たいち……」
『……ふ、っ、』
「……太一、今すぐ帰るから、もう少しだけ待っててね。ごめんね」
『んっ……、』
「今どこ? まさか外に出てるとかじゃないよね?」
『だ、じょうぶ……、いま、玄関……、出ようとしたら、なった、から……』
「そっか……。良かった。しんどいと思うけど、ゆっくりで良いから玄関から移動して、寝室で待っててね」

 ──二人が待ちに待った、太一の発情期。

 それがまさかこんなにもいきなりくるとは思ってもいなかったが、太一とようやく番いになれると高鳴る鼓動のまま亮は頬を紅潮させ、しかし今現在一人で苦しんでいる太一を思えば自身の不甲斐なさが悔しく、一刻でも早く帰らなければ。と亮は机の上に置いていた鞄を乱暴に掴んだ。

 抑えきれず、体からアルファフェロモンを溢れ出させる亮に、突然なんだと周りの人々がざわざわとざわつく。

 しかしそんな事すら気にもならない亮が名残惜しげに一旦電話を切り、足早に教室を出て行こうとすれば、隣に座っていた女性が行く手を阻むよう立ち上がり、声をかけてきた。

「こっ、近衛くん、どこ行くの!? そろそろ講義始まっちゃうよ!?」

 亮から漏れるアルファフェロモンに体を震わせつつ、このチャンスを逃してなるものか。と言わんばかりに食いついてくる女性。
 その姿に、普段ならば上手く立ち回る筈の亮は怒りを顕にし、冷たい眼差しで女性を一瞥しては、口を開いた。

「どけ」

 そう吐き捨てるよう言い放つ亮の声は、一切の優しさはなく。
 そんな身がすくむほどの冷たさに、女性が声も出せず恐怖でへなへなとその場にへたり込むも、やはり亮は見向きもせずに足早に講義室を出ていくだけで。
 そのやり取りを緊張した面持ちで見ていた他の人々も、亮のあまりのオーラに冷や汗を掻き、講義室は先程とは全く逆に水を打ったかのような静けさに包まれるばかりだった。




 
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