森のレクイエム

長月京子

文字の大きさ
上 下
20 / 22
二:森に眠る

20:繰り返し

しおりを挟む
 仕事部屋の窓から、藍色の闇が森の彼方へと広がっている。朝日がまだ顔を出さず、辺りには淡い闇が立ち込めていた。 

「どうしたんだ、こんな早くに」 

 部屋に入って来た小夜子に声をかけると、彼女は物語を綴った紙片を手にした。 

「悠。この話はハッピーエンドになるの」 
「分からない」 
「悠の絵は優しい。物語も。あなたの心がそのまま出てる。大好きよ、どの作品も。……もう、ハッピーエンドは書かないの?」 
「書けないよ」 

 小夜子は微かに首を振り、俯いた。長い髪に触れると、哀しみに沈んだ瞳が上目使いに俺を見る。迷い、哀しむ瞳。森の闇と同じ漆黒がある。 

「今日の夕方、おじいちゃんが来るわ。悠に目を醒ませって。――悠もよく考えて、何が一番幸せか」 
「ずっと考えていたよ、答えは一つしかない」 

 お前が側にいる事だ。そう告げると彼女は否定する。淋しさを宿した瞳には、俺が映っていた。

「先の事は誰にも分からない。こんなに才能だってあるのに。絶対に後悔しないって言える?」 
「ああ」 
「嘘よ」 
「嘘じゃない」 

 小夜子の手がそっと俺の頬に触れた。冷たく白い、細い指。失う事など考えられない。耐え切れず、思わず彼女を引き寄せた。 

「一人で逝くな」 
「私には、決められない」 

 涙に濡れた声が、はっきりそう告げた。 

「悠の未来を否定する事なんてできない」 
「未来なんて、あの時に全て無くした」 

 あの時。暗い森で眠る小夜子に全て託した。この森で、未来を手放した。 

「――お前が消えた時に。だから、ずっと探していた」 
「この森で……。そう。――ずっと、呼んでいたわ」 

「知ってる」 
「違う。あの日、ずっとあなたを呼んでいた。自分の声が木霊して、森が悲鳴をあげているようだった」 

「小夜子」 
「あなたは約束を守らなかった」 

 約束。あの日、小夜子を一人で行かせるべきではなかった。 

「でも、悠は抱きしめてくれたわ、ボロボロの私を。――嬉しかった」 
「あれは小夜子じゃない。偽物だ。お前はここにいるんだから」 
「違う。ここにいるのは偽物。本物は、もうどこにもいない」 

 長い沈黙が訪れた。抱きしめた体は幻。それでも、小夜子に変わりはないのに。 

「私には決められない。だから、貴史君に聞くわ」 
「貴史に?」 

「そう。悠にとって何が一番幸せか、彼の方が良く知ってる」 
「どうして?」 

「一緒に、夢を見てくれたから」 

 だから、見たまま、感じたまま。彼だけが真実を教えてくれる。 

「……何も失いたくない」 
「もう失ってるの。でも、私も悠を失いたくない。いいえ、貴方の幸せを壊したくない」 

 小夜子が身を離した。 
 窓の向こうで朝日が顔を出した。手の届く距離にいる彼女にも、光が降り注ぐ。 
 三年前の今日、小夜子の時計が止まった。
しおりを挟む

処理中です...