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二:森に眠る
18:記憶の坂道
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坂の下の町まで画材を買いに行くと告げると、小夜子に買い物を頼まれた。貴史がついて行くときかないので、二人で山荘を出る。
下り坂に差しかかると、照りつける太陽が肌を焼く。彼方に広がる水平線が、空との境界に青いインクを零したように緩い曲線を描いていた。
澄み切った空には、見事な入道雲。魂が集まり、上って行くように神々しい。天へと続くあの雲の中では、何が見えるだろう。一面の純白は、夢を見せてくれるのだろうか。苦しみも哀しみもない、至高の世界。引き換え、この下界は全てをどうでもよくさせる程暑い。
至る所で鳴き交わす蝉。吹き出す汗。目も眩むほど全てが焼けている。
「ところでさ、悠兄。……昨夜、良かったね」
貴史が一歩前へ飛び出し、振り返って笑う。
「お前、覗き見していたな」
「だって、応援してるし。――気になってたしさ」
「でも、まだ返事をもらってない」
「ほとんどイエスだよ、あれは」
「あー、もう、うるさい。お前は」
軽く貴史の頭を掻き回すと、彼は小走りに坂を駆け下って、俺の手から逃げた。
貴史が全てを思い出してしまえば、小夜子の存在は消え去ってしまうだろう。夢は現にならず、醒めてしまう。それ位、儚いものでしかない。
森が見せる、或いは小夜子が見せる夏の夢。
まだ、醒めるわけにはいかない。彼女が迷っているうちは。
一人だけで逝かせはしない。けれど、それを決めるのは小夜子なのだ。
「でもさ、悠兄。大人ってよく分からない。変なの」
坂の途中で振り返って、貴史はわずかに顔を歪める。
彼の無邪気さは救いだった。あの時も今も。
「貴坊もそのうち分かるようになるさ。まだまだ子供でいなさい、お前は」
「ちぇっ」
夏が来るたびに、ずっと貴史が羨ましかった。
小夜子が生きていると、演じなければならない自分。
小夜子が生きていると、心から信じている彼。
無邪気な思いで向き合える彼が、羨ましかった。
「おい。あれ、じいちゃんじゃないか」
坂の下を歩いて来る人影があった。見覚えのある浴衣で誰か分かった。彼もこちらに気付き、手を上げる。
「やっぱり今年も来とったのか」
その一言で、背筋が凍りついた。貴史はひたすら不思議そうな顔をしている。
「何を言ってるんだよ。この前、じいちゃん桃を持って来てくれたじゃないか」
「この前?」
おそらく貴史の中で、この三年の出来事は混沌としているのだろう。
「なぁ、じいちゃん。一週間前にうちの山荘に来てくれただろう?」
貴史の言葉は、三年前と繋がっている。幸せな頃のままなのだ。けれど、小夜子の組み立てた幻影は完全ではない。
貴史の夢を壊さない為に、三年前のじいちゃんの口癖を持ち出した。
「じいちゃん、俺に早く結婚しろって言っていたじゃないか」
皺の中にある細い目が、微妙に歪んだ。
「まぁ、ちょっと待て。貴史も悠も。お前達の言っとる事はさっぱり分からん。わしはお前達に会うのは一年ぶりじゃ」
「じいちゃん」
「去年の事は覚えとるよ。悠に早く小夜子を忘れるように話した」
厳しい瞳が真っすぐに俺を貫く。老いた瞳は全てを見抜いたかもしれない。
「小夜子を忘れろって。じいちゃん、この前は身をかためろって……」
声が震えた。動悸が激しく、自分の顔色の悪さも容易に想像できる。
「去年、確かに言ったぞ。早くいい人を見付けて身をかためろと」
もう、やめてほしかった。蝉の声も煩わしく、耳をふさぎたくなる。精一杯演じて見たが、じいちゃんには効果がないだろう。焼けるような日差しのせいか、目眩がした。
「ねぇ、じいちゃん。じゃあ、悠兄にお姉ちゃんとさっさと結婚しろって言ったのはいつだった。言ったよね、じいちゃん」
「今日のお前達は、どうかしとる。久しぶりにここに来て、昔を思い出したか」
「え?」
「三年前じゃ。わしが悠に小夜子と結婚しろと言ったのは。あの年は町に変な輩が徘徊しとった。覚えているか、悠。お前は忘れる筈がないだろう」
忘れる筈がない。けれど、事実だけを突きつけるのはやめてほしいのだ。彼には分からない、真実がどこにあるのか。
「ちょっと待ってくれよ、じいちゃん。それ、この前聞いた」
俺と貴史の夢を破る資格は、誰にもない。
「この前……。変だよ、悠兄。僕、頭が混乱して来た。だってじいちゃんの言ってる事も正しい」
「悠」
二人の視線が突き刺さるようだ。小夜子を幻にするのは、まだ早い。
「お前は今年も去年と同じ瞳をしているな。あの時から、ずっと同じじゃ。本当は、もうここには来ない方がいいのかもしれん。……ちゃんと、心の整理がつくまで」
「じいちゃの言っている事は、理解できないよ」
理解できない。分かりたくもない。けれど、痛いほど認めてしまう。
目眩と耳鳴りがひどく、蝉の鳴き声が遠くなった。耐え切れなくなって、じいちゃんから踵を返す。
小夜子を忘れる事などできない。その死を認める事はできない。
彼女が、未来の道標だったのだ。
下り坂に差しかかると、照りつける太陽が肌を焼く。彼方に広がる水平線が、空との境界に青いインクを零したように緩い曲線を描いていた。
澄み切った空には、見事な入道雲。魂が集まり、上って行くように神々しい。天へと続くあの雲の中では、何が見えるだろう。一面の純白は、夢を見せてくれるのだろうか。苦しみも哀しみもない、至高の世界。引き換え、この下界は全てをどうでもよくさせる程暑い。
至る所で鳴き交わす蝉。吹き出す汗。目も眩むほど全てが焼けている。
「ところでさ、悠兄。……昨夜、良かったね」
貴史が一歩前へ飛び出し、振り返って笑う。
「お前、覗き見していたな」
「だって、応援してるし。――気になってたしさ」
「でも、まだ返事をもらってない」
「ほとんどイエスだよ、あれは」
「あー、もう、うるさい。お前は」
軽く貴史の頭を掻き回すと、彼は小走りに坂を駆け下って、俺の手から逃げた。
貴史が全てを思い出してしまえば、小夜子の存在は消え去ってしまうだろう。夢は現にならず、醒めてしまう。それ位、儚いものでしかない。
森が見せる、或いは小夜子が見せる夏の夢。
まだ、醒めるわけにはいかない。彼女が迷っているうちは。
一人だけで逝かせはしない。けれど、それを決めるのは小夜子なのだ。
「でもさ、悠兄。大人ってよく分からない。変なの」
坂の途中で振り返って、貴史はわずかに顔を歪める。
彼の無邪気さは救いだった。あの時も今も。
「貴坊もそのうち分かるようになるさ。まだまだ子供でいなさい、お前は」
「ちぇっ」
夏が来るたびに、ずっと貴史が羨ましかった。
小夜子が生きていると、演じなければならない自分。
小夜子が生きていると、心から信じている彼。
無邪気な思いで向き合える彼が、羨ましかった。
「おい。あれ、じいちゃんじゃないか」
坂の下を歩いて来る人影があった。見覚えのある浴衣で誰か分かった。彼もこちらに気付き、手を上げる。
「やっぱり今年も来とったのか」
その一言で、背筋が凍りついた。貴史はひたすら不思議そうな顔をしている。
「何を言ってるんだよ。この前、じいちゃん桃を持って来てくれたじゃないか」
「この前?」
おそらく貴史の中で、この三年の出来事は混沌としているのだろう。
「なぁ、じいちゃん。一週間前にうちの山荘に来てくれただろう?」
貴史の言葉は、三年前と繋がっている。幸せな頃のままなのだ。けれど、小夜子の組み立てた幻影は完全ではない。
貴史の夢を壊さない為に、三年前のじいちゃんの口癖を持ち出した。
「じいちゃん、俺に早く結婚しろって言っていたじゃないか」
皺の中にある細い目が、微妙に歪んだ。
「まぁ、ちょっと待て。貴史も悠も。お前達の言っとる事はさっぱり分からん。わしはお前達に会うのは一年ぶりじゃ」
「じいちゃん」
「去年の事は覚えとるよ。悠に早く小夜子を忘れるように話した」
厳しい瞳が真っすぐに俺を貫く。老いた瞳は全てを見抜いたかもしれない。
「小夜子を忘れろって。じいちゃん、この前は身をかためろって……」
声が震えた。動悸が激しく、自分の顔色の悪さも容易に想像できる。
「去年、確かに言ったぞ。早くいい人を見付けて身をかためろと」
もう、やめてほしかった。蝉の声も煩わしく、耳をふさぎたくなる。精一杯演じて見たが、じいちゃんには効果がないだろう。焼けるような日差しのせいか、目眩がした。
「ねぇ、じいちゃん。じゃあ、悠兄にお姉ちゃんとさっさと結婚しろって言ったのはいつだった。言ったよね、じいちゃん」
「今日のお前達は、どうかしとる。久しぶりにここに来て、昔を思い出したか」
「え?」
「三年前じゃ。わしが悠に小夜子と結婚しろと言ったのは。あの年は町に変な輩が徘徊しとった。覚えているか、悠。お前は忘れる筈がないだろう」
忘れる筈がない。けれど、事実だけを突きつけるのはやめてほしいのだ。彼には分からない、真実がどこにあるのか。
「ちょっと待ってくれよ、じいちゃん。それ、この前聞いた」
俺と貴史の夢を破る資格は、誰にもない。
「この前……。変だよ、悠兄。僕、頭が混乱して来た。だってじいちゃんの言ってる事も正しい」
「悠」
二人の視線が突き刺さるようだ。小夜子を幻にするのは、まだ早い。
「お前は今年も去年と同じ瞳をしているな。あの時から、ずっと同じじゃ。本当は、もうここには来ない方がいいのかもしれん。……ちゃんと、心の整理がつくまで」
「じいちゃの言っている事は、理解できないよ」
理解できない。分かりたくもない。けれど、痛いほど認めてしまう。
目眩と耳鳴りがひどく、蝉の鳴き声が遠くなった。耐え切れなくなって、じいちゃんから踵を返す。
小夜子を忘れる事などできない。その死を認める事はできない。
彼女が、未来の道標だったのだ。
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