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二:森に眠る
12:森の家
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蝉の鳴き声に囲まれて、坂道を上る。彼方に見える樹々が深緑に揺れていた。この土地の住人は、その緑の地帯を森と呼ぶ。
「貴坊。ジュースでも飲むか」
「うん」
「ほら、何にするんだ」
甥の貴史が、自動販売機のオレンジジュースを指差した。出て来た缶を頬に当てて、彼は深い息をつく。
目の眩みそうな強い日差しが照りつけ、蝉は煽られたように賑やかに鳴き交わす。今年中学に上がった貴史が、まだ幼さの残る顔で俺を見た。
「悠兄」
「ん。何だ、貴史」
「今年はお姉ちゃんは?」
「先に山荘へ行っているよ。着けば会えるさ」
坂の上の緑の地帯。森の外れに山荘がある。夏には仕事と避暑を兼ねて、この地を訪れていた。
「悠兄。今度はどんな物語を書くの?」
「んー。まだ、考えてない」
本当は決まっていた。未完となる物語。心なしか画材の入ったケースを重く感じる。
坂を上りきり、小道を歩くと涼風が頬をかすめて行く。風は、時折樹々の囁きを集め、歌声を奏でる。この地は歌うのだ。高音の歌声は澄み渡り、哀しい。なぜ歌うのかは、分かっていた。
慰めているのだ。この避暑地は、今回の絵本のモデルとなる。
『森のレクイエム』
今なら、描くことができるだろう。
「あ、山荘だよ。悠兄」
「ああ」
樹々の向こうに、苔蒸した緑に馴染んだ山荘が見えて来た。玄関へ回り、一年ぶりに鍵を解く。
「おかしいな。先に小夜子が来ている筈なのに」
部屋の中は静かだった。煩わしい蝉の声だけが聞こえる。ソファの片隅に掃除機が転がっていた。
「貴坊。荷物をあっちの部屋へ持って行け」
「お姉ちゃんは?」
「一応、先に来てはいるらしいけど」
とりあえず、画材を奥の仕事部屋へ運んだ。窓を開けると風が吹き込み、高音の歌声が届く。久しぶりに聞く森の歌だ。
悼み、哀しみ、呼んでいる。それなのに、森はその奥地へ踏み込むことを拒む。窓際から離れ溜め息をつくと、近くで新たな歌声が重なった。
人を包みこむ、聖母のソプラノ。通徹した高音の響きは硬質で、俺を引き込む。初めて聞いた時から魅せられた歌声。小夜子だ。
隣の部屋へ顔を出すと、貴史の隣で彼女が歌っていた。窓からの光線が、彼女を輝かせる。
貴史は純粋に聞き入っていた。まだ幻に酔える子供なのだろう。
「さーよーこー。この掃除機は何かなー」
足元を指差してにこやかに声をかけると、彼女はすぐに振り向いた。
「やだ、悠。大失敗」
眩しい笑顔が返って来た。だから俺も、幻に酔うふりができる。
「何が?」
「悠の事もびっくりさせてやろうと思ってたのに。森に誘われて歌っちゃったわ」
「馬鹿」
軽く小突くふりをして、彼女に触れた。
「掃除はもう終わってるの」
「遅れてしまって、悪かったな」
哀しげな瞳が、何か言いた気に歪んだ。そのまま背中を向けた彼女に、口走りそうになる。傍らに貴史がいなければ、口走っていたに違いない。
落ち着くために、深く息をついた。
「なぁに、ニヤニヤしてんだ。貴史」
「一人で寂しかったんだよ、お姉ちゃん。悠兄ってば、愛されてるよね」
「お前は年々、生意気度が高くなるな」
ふざけてプロレス技をかけると、貴史はすぐに降参した。
「別に、私は寂しくなんてありませんでしたよー」
小夜子が貴史を抱いて舌を出す。貴史の顔が、真っ赤にのぼせ上がった。
「顔が赤いよ、貴史ちゃん」
からかうと、彼はすごい勢いで小夜子から離れた。その様子が楽しく、更にからかうと、貴史は怒ったように悪態をつく。
「何だよ。笑ってる暇があるなら二人はさっさと結婚しろよな」
こんな夏が、永遠に続けば良かった。
「貴坊。ジュースでも飲むか」
「うん」
「ほら、何にするんだ」
甥の貴史が、自動販売機のオレンジジュースを指差した。出て来た缶を頬に当てて、彼は深い息をつく。
目の眩みそうな強い日差しが照りつけ、蝉は煽られたように賑やかに鳴き交わす。今年中学に上がった貴史が、まだ幼さの残る顔で俺を見た。
「悠兄」
「ん。何だ、貴史」
「今年はお姉ちゃんは?」
「先に山荘へ行っているよ。着けば会えるさ」
坂の上の緑の地帯。森の外れに山荘がある。夏には仕事と避暑を兼ねて、この地を訪れていた。
「悠兄。今度はどんな物語を書くの?」
「んー。まだ、考えてない」
本当は決まっていた。未完となる物語。心なしか画材の入ったケースを重く感じる。
坂を上りきり、小道を歩くと涼風が頬をかすめて行く。風は、時折樹々の囁きを集め、歌声を奏でる。この地は歌うのだ。高音の歌声は澄み渡り、哀しい。なぜ歌うのかは、分かっていた。
慰めているのだ。この避暑地は、今回の絵本のモデルとなる。
『森のレクイエム』
今なら、描くことができるだろう。
「あ、山荘だよ。悠兄」
「ああ」
樹々の向こうに、苔蒸した緑に馴染んだ山荘が見えて来た。玄関へ回り、一年ぶりに鍵を解く。
「おかしいな。先に小夜子が来ている筈なのに」
部屋の中は静かだった。煩わしい蝉の声だけが聞こえる。ソファの片隅に掃除機が転がっていた。
「貴坊。荷物をあっちの部屋へ持って行け」
「お姉ちゃんは?」
「一応、先に来てはいるらしいけど」
とりあえず、画材を奥の仕事部屋へ運んだ。窓を開けると風が吹き込み、高音の歌声が届く。久しぶりに聞く森の歌だ。
悼み、哀しみ、呼んでいる。それなのに、森はその奥地へ踏み込むことを拒む。窓際から離れ溜め息をつくと、近くで新たな歌声が重なった。
人を包みこむ、聖母のソプラノ。通徹した高音の響きは硬質で、俺を引き込む。初めて聞いた時から魅せられた歌声。小夜子だ。
隣の部屋へ顔を出すと、貴史の隣で彼女が歌っていた。窓からの光線が、彼女を輝かせる。
貴史は純粋に聞き入っていた。まだ幻に酔える子供なのだろう。
「さーよーこー。この掃除機は何かなー」
足元を指差してにこやかに声をかけると、彼女はすぐに振り向いた。
「やだ、悠。大失敗」
眩しい笑顔が返って来た。だから俺も、幻に酔うふりができる。
「何が?」
「悠の事もびっくりさせてやろうと思ってたのに。森に誘われて歌っちゃったわ」
「馬鹿」
軽く小突くふりをして、彼女に触れた。
「掃除はもう終わってるの」
「遅れてしまって、悪かったな」
哀しげな瞳が、何か言いた気に歪んだ。そのまま背中を向けた彼女に、口走りそうになる。傍らに貴史がいなければ、口走っていたに違いない。
落ち着くために、深く息をついた。
「なぁに、ニヤニヤしてんだ。貴史」
「一人で寂しかったんだよ、お姉ちゃん。悠兄ってば、愛されてるよね」
「お前は年々、生意気度が高くなるな」
ふざけてプロレス技をかけると、貴史はすぐに降参した。
「別に、私は寂しくなんてありませんでしたよー」
小夜子が貴史を抱いて舌を出す。貴史の顔が、真っ赤にのぼせ上がった。
「顔が赤いよ、貴史ちゃん」
からかうと、彼はすごい勢いで小夜子から離れた。その様子が楽しく、更にからかうと、貴史は怒ったように悪態をつく。
「何だよ。笑ってる暇があるなら二人はさっさと結婚しろよな」
こんな夏が、永遠に続けば良かった。
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