森のレクイエム

長月京子

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一:森は歌う

7:きおくの坂道

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 次の日、悠兄と一緒に坂の下の町までおりた。画材を買うためだ。ついでに小夜子さんに買い物をたのまれた。坂道には影がなく、日光がまともに肌を焼く。蝉はここについた頃と変わらず賑やかだ。 

「できれば、あの種類のパステルがあればいいんだけど。失敗したな」 

 坂を下りながら、悠兄は困った顔をしていた。彼の話によると、例えば同じ色鉛筆の緑でも、種類によって微妙に違いがあるそうだ。 

「ところでさ、悠兄。……昨夜、良かったね」 

 一歩前に踏みだしてから、振りむいて笑みを送る。彼は少し眉をあげてから、軽くにらんだ。 

「お前、のぞき見していたな」 
「だって、応援してるし。――気になってたしさ」 

 吐息と共に表情をゆるめて、悠兄は優しく笑う。 

「でも、まだ返事をもらってない」 
「ほとんどイエスだよ。あれは」 
「あー、もう、うるさい。お前は」 

 ぐしゃっと力強く頭をかきまわされた。彼の腕から逃げだして坂を走る。遠くに目を向けると、わずかに水平線が見えた。空の青とまざり合いそうな境界が、優しい線になっている。その上空にいすわっている入道雲。 

 雲のつくる陰影が、空のうすい青と溶け合っていた。どこまでも高く、魂が形作った一本の白い樹のようだ。天へと突きあげる、純白の巨木。 

「でもさ、悠兄。大人ってよく分からない。変なの」 

 彼は追いついてきて、ポンと僕の背中をたたく。 

「貴坊もそのうち分かるようになるさ。まだまだ子供でいなさい、お前は」 
「ちぇっ」 

「おい。あれ、じいちゃんじゃないか?」 

 坂の下から、ゆっくりと歩いてくる人影があった。浴衣を着た彼も、こっちに気づく。駆け寄っていくと「大きくなったな」と肩を叩かれた。 

「今年もやっぱり来とったのか」 
「何を言ってるんだよ。この前、じいちゃん桃を持って来てくれたじゃないか」 
「この前?」 

 首をかしげるじいちゃんに、僕と悠兄は顔を見あわせる。 

「なぁ、じいちゃん。一週間位前にうちの山荘に来てくれただろ」 

 確認するように尋ねると、じいちゃんはますます不思議そうに僕達を見る。悠兄は深い吐息をついた。 

「じいちゃん、俺に早く結婚しろって言っていたじゃないか」 

 彼は小さな瞳で僕と悠兄を交互に見つめた。 

「まぁ、ちょっと待て。貴史も悠も。お前達の言っとることはさっぱり分からん。わしはお前達に会うのは一年ぶりじゃ」 
「じいちゃん」 
「去年のことは覚えとるよ。悠に早く小夜子を忘れるように話した」 

――小夜子を忘れるように。 

 この地では、森が歌う。あれは一体いつからだっただろう。 

「小夜子を忘れろって。じいちゃん、この前はさっさと身をかためろって……」 
「去年、確かに言ったぞ。早くいい人を見つけて身をかためろと」 

 悠兄は、眉を潜めてじっとじいちゃんの顔を見つめている。僕にはじいちゃんの言う場面が、なぜか頭の中にあった。 

「ねぇ、じいちゃん。じゃあ、悠兄にお姉ちゃんとさっさと結婚しろって言ったのはいつだった? 言ったよね、じいちゃん」 

 彼は悠兄を見てから息をついた。顔に刻まれたシワに、汗が光っている。肌をこがす太陽の光線が、ジリジリと痛かった。蝉の声がわずらわしく、思わず近くの樹々を振りかえった。目を凝らしても、ゆれる緑の影に隠れているのか、姿は見えない。 

「今日のお前達はどうかしとる。久しぶりにここに来て、昔を思いだしたか」 
「え?」 

「三年前じゃ。わしが悠に小夜子と結婚しろと言ったのは。あの年は町に変な輩が徘徊しとった。覚えているか、悠。お前は忘れるはずがないだろう」 
「ちょっと待ってくれよ、じいちゃん。それ、この前聞いた」 
「……この前」 

 色水がまざりあって濁るように、記憶の見通しがきかない。 

「変だよ、悠兄。僕、頭が混乱してきた。だってじいちゃんの言ってることも正しい」 
「悠」 

 じいちゃんが穏やかに呼びかけた。悠兄は蒼ざめた顔をあげる。 

「お前は今年も去年と同じ瞳をしているな。あの時から、ずっと同じじゃ。本当は、もうここには来ない方がいいのかもしれん。……ちゃんと、心の整理がつくまで」 
「じいちゃんの言ってることは、理解できないよ」 

 低く吐きすてて、悠兄は歩きはじめた。じいちゃんが僕を見る。瞳の色は鈍く、像を結んでいるのかどうか分からない。 

「貴史は大きくなったな。あれから、もう三年」 
「じいちゃん」 

 彼は寂しそうに笑い、そのまま歩きはじめた。 
 蝉が鳴いている。強くなったり弱くなったり、不規則な声だ。 
 しばらくじいちゃんの背中を見つめたあと、悠兄を追いかけて走った。
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