森のレクイエム

長月京子

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一:森は歌う

3:桃

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 袋一杯の桃をさげて、今年もじいちゃんが訪れた。桃は完熟していて、柔らかい。皮にはえた産毛が、手の平に優しく刺さる。 

「一体いつになったら彼女と一緒になるんじゃ、お前は」 

 じいちゃんは坂の下の町に住んでいる。初めてここを訪れた時、困っていた彼を助けたのが出会いだ。 

「じいちゃん……」 

 悠兄は痛いところを突かれたように、頭をたれた。僕はキッチンにいる小夜子さんのところへ桃を持って走る。切ってもらい、皿に並べたそれを手に、再び二人のいるリビングへ戻った。 

 皮をむかれた果実からは、小夜子さんと同じ香りがする。甘くけだるい、心を和ませる匂いだ。

「ええかー、悠。ぐずぐずしとると、トンビがやって来てさらっていかれるぞ」 

 悠兄はうんざりしながらじいちゃんの言葉を聞いていた。じいちゃんは、毎年訪れるたびに彼に同じことを繰りかえしている。 

「なぁ、貴史。お前も言え。悠にさっさと結婚しろと」 

 僕はうなずいて悠兄にわざとらしく笑みを向けた。 

「うるさいなぁ、二人とも。俺だって考えてないわけじゃないよ」 
「だったら、さっさとせんか」 

「はいはい」 
「なんじゃ、その気のない返事は」 

 さすがの悠兄も、じいちゃんにかかっては赤子同然だった。 

「それはそうと、最近町に変な輩が徘徊しとるらしいからな。ここも気をつけんといかんぞ」 
「変な輩。変質者とか?」 

 話の矛先が変わって、悠兄はやっと真っすぐじいちゃんを見る。僕が桃にかぶりついていると、じいちゃんはシワの顔で不気味に笑った。 

「まぁ、そんなようなもんよ。小夜子なんぞは美人じゃから気をつけんと。なぁ、悠」 
「じいちゃん、その意味ありげな流し目はやめてくれよ」 

「ふふ。しかし、最近は月が綺麗じゃろう」 
「月?」 

「月のある晩は良くないことが起きるぞぅ」 

 じいちゃんの言い方が不気味で、僕は思わず肩をすくめてしまう。彼は年に似合わない豪快さで笑った。 

「冗談じゃよ、貴史。怖いか」 
「別に」 

「男はそうでなくてはいかん。じゃ、そろそろ失礼しようか。戸締まりはしっかりとな」 
「ああ、分かった。ありがとう、じいちゃん」 

 悠兄が玄関先まで彼を見送って、戻ってくる。 

「やれやれ」 
「桃、美味しいよ、悠兄」 

 歯を入れると、甘い密が染み出してくる。 

「あら。もう帰っちゃったの? おじいちゃん」 

 小夜子さんがキッチンから顔をだして、残念そうな声をあげる。悠兄は桃を頬張りながら、さりげなく話した。 

「ああ。さっさと身をかためろって、そればっかり連発してた」 

 次の瞬間、二人のあいだに妙な空気が流れた。思わず吹きだしてしまう。 

「何笑ってるのよ、貴史君」 

 小夜子さんが軽く僕の頭をたたく。悠兄の深い溜め息が聞こえてきた。
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