森のレクイエム

長月京子

文字の大きさ
上 下
1 / 22
一:森は歌う

1:森の家

しおりを挟む
 長く続く坂道のむこうに、樹々が見えはじめた。僕が指でしめすと、彼はうなずいた。毎年、叔父の悠兄ゆうにぃと一緒に、夏休みの一カ月を避暑地ですごす。今年の夏は特に暑かった。都会を離れても、その暑さはついてきた。 

貴坊たかぼう。ジュースでも飲むか」  

 蝉の泣き声が、焼けたアスファルトに反響する。坂道の途中で、悠兄は足をとめた。 
 今年で二十七になる彼は、額に汗を光らせて笑った。鼻筋の通った顔が優しくゆがむ。 

「ほら、何にするんだ」 
「そのオレンジの奴」 

 重い音がして、自動販売機からそれがでてくる。缶はよく冷えていて気持ちが良かった。 

「悠兄」 
「ん。何だ、貴史たかし」 
「今年は、お姉ちゃんは?」 
「先に山荘へ行っているよ。着けば会えるさ」 

 悠兄は何かをごまかすように、画材の入った大きなケースを左手に持ちかえる。 
 前方には、地元の人が森とよぶ地帯がある。樹々がどこまでも茂り、野鳥が飛びかい、その木陰は夏でも涼しい。そんな森のはずれに、悠兄の小さな山荘がある。 
 僕と悠兄と、小夜子さよこさん。森の夏は、いつでも三人のものだ。 

「悠兄。今度はどんな物語を書くの?」 
「んー。まだ考えてない」 

 彼は絵本作家だ。優しくて、切なくて、いつでも大好きになれる作品ばかりだった。夏になると絵本を一冊書きあげるために、この土地へやってくるのだ。 

 坂を上りきり、小道を歩くと、ひっそりとたたずむ山荘が視界にはいった。白い壁がわずかに苔蒸している。 

「おかしいな。先に小夜子が来ている筈なのに」 

 悠兄は言いながら、一年ぶりに山荘の鍵をあけた。部屋の中は、窓からの陽射しで明るく照らしだされている。森から染みこんだ草の香りが、変わらず充満していた。 

 ソファの片隅には、小さな掃除機が転がっている。 

「貴坊。荷物をあっちの部屋へ持っていけ」 
「お姉ちゃんは?」 

「一応、先に来てはいるらしいけど」 

 彼は画材をいつもの部屋へ持って入った。僕は窓を開けて森の空気を胸一杯に吸いこんだ。清んだ空気は、都会の汚れを洗い流してくれそうだ。 

 風に流れて、歌が聞こえてきた。細いソプラノだ。樹々と風の関係で、ときおり森が歌うのだと、悠兄が教えてくれた。森の歌は、どこか切なく忘れることができない音色になる。儚く美しい、森の声。 

 どこまでも続く木立のむこう、緑にけぶる奥の方から、ここまで流れつく。 

「わっ」 
「うわぁ」 

 驚いて振りかえると、小夜子さんが笑顔で立っていた。長い髪が光に透けて、褐色に輝いている。 

「大成功。久しぶりね、貴史君」 
「びっくりした。気配もなく近づいてくるんだもん」 
「だって、驚かせたかったから。――森の歌ね」 

 窓からとぎれがちに響くソプラノを聞いて、小夜子さんは瞳を閉じた。 
 やがて彼女も声を重ねる。森に負けず、美しい調べだ。消え入りそうな弱い調子から、胸の芯を突き刺すような強さまでを歌い分ける。磨かれた珠のように艶を帯びた響き。 

「さーよーこー。この掃除機は何かなー」 
「やだ、悠(ゆう)。大失敗」 
「何が?」 

 奥の部屋から顔をだして、悠兄が笑っていた。 

「悠のこともびっくりさせてやろうと思っていたのに。森に誘われて歌っちゃったわ」 
「馬鹿」 

 コツンと彼に頭を小突かれてから、小夜子さんは掃除機を手にした。 

「掃除はもう終わってるの」 
「遅れてしまって、悪かったな」 

 彼が謝ると、小夜子さんは哀しげに彼をにらんで、手にした掃除機を片付ける。 
 悠兄は溜め息をついてから、ふと僕に気がついた。 

「なぁに、ニヤニヤしてんだ。貴史」 
「きっと一人で寂しかったんだよ、お姉ちゃん。悠兄ってば、愛されてるよね」 

「お前は年々、生意気度が高くなるな」 
「わ、悠兄。痛い、痛いってば」 

 プロレス技から逃げきると、戻ってきた小夜子さんが背中から僕を抱いて、彼にベーと舌をだす。 

「別に、私は寂しくなんてありませんでしたよー」 

 悪態をつく彼女からは、良い香りがした。悠兄は僕を見て面白そうに笑っている。 

「顔が赤いよ、貴史ちゃん」 
「なっ……」 

 咄嗟に小夜子さんから離れると、彼女は唖然としてから笑いだした。 

「やーだ、貴史君。もう色気づくお年頃なのね」 
「違う、お姉ちゃん」 

「まぁまぁ、貴史ちゃん。お兄さんがいろいろ教えてあげるからね」 
「悠兄っ!」 

 顔を真っ赤にして叫ぶ僕に、二人は寄り添って笑っている。小夜子さんは三年位前から、この山荘に顔を出すようになった。悠兄の大学の頃からの恋人だ。 

 僕は笑っている二人に反撃にでた。 

「何だよ。笑ってる暇があるなら二人はさっさと結婚しろよな」 

 その台詞は、二人にはかなり効果があった。
しおりを挟む

処理中です...