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一:森は歌う
1:森の家
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長く続く坂道のむこうに、樹々が見えはじめた。僕が指でしめすと、彼はうなずいた。毎年、叔父の悠兄と一緒に、夏休みの一カ月を避暑地ですごす。今年の夏は特に暑かった。都会を離れても、その暑さはついてきた。
「貴坊。ジュースでも飲むか」
蝉の泣き声が、焼けたアスファルトに反響する。坂道の途中で、悠兄は足をとめた。
今年で二十七になる彼は、額に汗を光らせて笑った。鼻筋の通った顔が優しくゆがむ。
「ほら、何にするんだ」
「そのオレンジの奴」
重い音がして、自動販売機からそれがでてくる。缶はよく冷えていて気持ちが良かった。
「悠兄」
「ん。何だ、貴史」
「今年は、お姉ちゃんは?」
「先に山荘へ行っているよ。着けば会えるさ」
悠兄は何かをごまかすように、画材の入った大きなケースを左手に持ちかえる。
前方には、地元の人が森とよぶ地帯がある。樹々がどこまでも茂り、野鳥が飛びかい、その木陰は夏でも涼しい。そんな森のはずれに、悠兄の小さな山荘がある。
僕と悠兄と、小夜子さん。森の夏は、いつでも三人のものだ。
「悠兄。今度はどんな物語を書くの?」
「んー。まだ考えてない」
彼は絵本作家だ。優しくて、切なくて、いつでも大好きになれる作品ばかりだった。夏になると絵本を一冊書きあげるために、この土地へやってくるのだ。
坂を上りきり、小道を歩くと、ひっそりとたたずむ山荘が視界にはいった。白い壁がわずかに苔蒸している。
「おかしいな。先に小夜子が来ている筈なのに」
悠兄は言いながら、一年ぶりに山荘の鍵をあけた。部屋の中は、窓からの陽射しで明るく照らしだされている。森から染みこんだ草の香りが、変わらず充満していた。
ソファの片隅には、小さな掃除機が転がっている。
「貴坊。荷物をあっちの部屋へ持っていけ」
「お姉ちゃんは?」
「一応、先に来てはいるらしいけど」
彼は画材をいつもの部屋へ持って入った。僕は窓を開けて森の空気を胸一杯に吸いこんだ。清んだ空気は、都会の汚れを洗い流してくれそうだ。
風に流れて、歌が聞こえてきた。細いソプラノだ。樹々と風の関係で、ときおり森が歌うのだと、悠兄が教えてくれた。森の歌は、どこか切なく忘れることができない音色になる。儚く美しい、森の声。
どこまでも続く木立のむこう、緑にけぶる奥の方から、ここまで流れつく。
「わっ」
「うわぁ」
驚いて振りかえると、小夜子さんが笑顔で立っていた。長い髪が光に透けて、褐色に輝いている。
「大成功。久しぶりね、貴史君」
「びっくりした。気配もなく近づいてくるんだもん」
「だって、驚かせたかったから。――森の歌ね」
窓からとぎれがちに響くソプラノを聞いて、小夜子さんは瞳を閉じた。
やがて彼女も声を重ねる。森に負けず、美しい調べだ。消え入りそうな弱い調子から、胸の芯を突き刺すような強さまでを歌い分ける。磨かれた珠のように艶を帯びた響き。
「さーよーこー。この掃除機は何かなー」
「やだ、悠(ゆう)。大失敗」
「何が?」
奥の部屋から顔をだして、悠兄が笑っていた。
「悠のこともびっくりさせてやろうと思っていたのに。森に誘われて歌っちゃったわ」
「馬鹿」
コツンと彼に頭を小突かれてから、小夜子さんは掃除機を手にした。
「掃除はもう終わってるの」
「遅れてしまって、悪かったな」
彼が謝ると、小夜子さんは哀しげに彼をにらんで、手にした掃除機を片付ける。
悠兄は溜め息をついてから、ふと僕に気がついた。
「なぁに、ニヤニヤしてんだ。貴史」
「きっと一人で寂しかったんだよ、お姉ちゃん。悠兄ってば、愛されてるよね」
「お前は年々、生意気度が高くなるな」
「わ、悠兄。痛い、痛いってば」
プロレス技から逃げきると、戻ってきた小夜子さんが背中から僕を抱いて、彼にベーと舌をだす。
「別に、私は寂しくなんてありませんでしたよー」
悪態をつく彼女からは、良い香りがした。悠兄は僕を見て面白そうに笑っている。
「顔が赤いよ、貴史ちゃん」
「なっ……」
咄嗟に小夜子さんから離れると、彼女は唖然としてから笑いだした。
「やーだ、貴史君。もう色気づくお年頃なのね」
「違う、お姉ちゃん」
「まぁまぁ、貴史ちゃん。お兄さんがいろいろ教えてあげるからね」
「悠兄っ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ僕に、二人は寄り添って笑っている。小夜子さんは三年位前から、この山荘に顔を出すようになった。悠兄の大学の頃からの恋人だ。
僕は笑っている二人に反撃にでた。
「何だよ。笑ってる暇があるなら二人はさっさと結婚しろよな」
その台詞は、二人にはかなり効果があった。
「貴坊。ジュースでも飲むか」
蝉の泣き声が、焼けたアスファルトに反響する。坂道の途中で、悠兄は足をとめた。
今年で二十七になる彼は、額に汗を光らせて笑った。鼻筋の通った顔が優しくゆがむ。
「ほら、何にするんだ」
「そのオレンジの奴」
重い音がして、自動販売機からそれがでてくる。缶はよく冷えていて気持ちが良かった。
「悠兄」
「ん。何だ、貴史」
「今年は、お姉ちゃんは?」
「先に山荘へ行っているよ。着けば会えるさ」
悠兄は何かをごまかすように、画材の入った大きなケースを左手に持ちかえる。
前方には、地元の人が森とよぶ地帯がある。樹々がどこまでも茂り、野鳥が飛びかい、その木陰は夏でも涼しい。そんな森のはずれに、悠兄の小さな山荘がある。
僕と悠兄と、小夜子さん。森の夏は、いつでも三人のものだ。
「悠兄。今度はどんな物語を書くの?」
「んー。まだ考えてない」
彼は絵本作家だ。優しくて、切なくて、いつでも大好きになれる作品ばかりだった。夏になると絵本を一冊書きあげるために、この土地へやってくるのだ。
坂を上りきり、小道を歩くと、ひっそりとたたずむ山荘が視界にはいった。白い壁がわずかに苔蒸している。
「おかしいな。先に小夜子が来ている筈なのに」
悠兄は言いながら、一年ぶりに山荘の鍵をあけた。部屋の中は、窓からの陽射しで明るく照らしだされている。森から染みこんだ草の香りが、変わらず充満していた。
ソファの片隅には、小さな掃除機が転がっている。
「貴坊。荷物をあっちの部屋へ持っていけ」
「お姉ちゃんは?」
「一応、先に来てはいるらしいけど」
彼は画材をいつもの部屋へ持って入った。僕は窓を開けて森の空気を胸一杯に吸いこんだ。清んだ空気は、都会の汚れを洗い流してくれそうだ。
風に流れて、歌が聞こえてきた。細いソプラノだ。樹々と風の関係で、ときおり森が歌うのだと、悠兄が教えてくれた。森の歌は、どこか切なく忘れることができない音色になる。儚く美しい、森の声。
どこまでも続く木立のむこう、緑にけぶる奥の方から、ここまで流れつく。
「わっ」
「うわぁ」
驚いて振りかえると、小夜子さんが笑顔で立っていた。長い髪が光に透けて、褐色に輝いている。
「大成功。久しぶりね、貴史君」
「びっくりした。気配もなく近づいてくるんだもん」
「だって、驚かせたかったから。――森の歌ね」
窓からとぎれがちに響くソプラノを聞いて、小夜子さんは瞳を閉じた。
やがて彼女も声を重ねる。森に負けず、美しい調べだ。消え入りそうな弱い調子から、胸の芯を突き刺すような強さまでを歌い分ける。磨かれた珠のように艶を帯びた響き。
「さーよーこー。この掃除機は何かなー」
「やだ、悠(ゆう)。大失敗」
「何が?」
奥の部屋から顔をだして、悠兄が笑っていた。
「悠のこともびっくりさせてやろうと思っていたのに。森に誘われて歌っちゃったわ」
「馬鹿」
コツンと彼に頭を小突かれてから、小夜子さんは掃除機を手にした。
「掃除はもう終わってるの」
「遅れてしまって、悪かったな」
彼が謝ると、小夜子さんは哀しげに彼をにらんで、手にした掃除機を片付ける。
悠兄は溜め息をついてから、ふと僕に気がついた。
「なぁに、ニヤニヤしてんだ。貴史」
「きっと一人で寂しかったんだよ、お姉ちゃん。悠兄ってば、愛されてるよね」
「お前は年々、生意気度が高くなるな」
「わ、悠兄。痛い、痛いってば」
プロレス技から逃げきると、戻ってきた小夜子さんが背中から僕を抱いて、彼にベーと舌をだす。
「別に、私は寂しくなんてありませんでしたよー」
悪態をつく彼女からは、良い香りがした。悠兄は僕を見て面白そうに笑っている。
「顔が赤いよ、貴史ちゃん」
「なっ……」
咄嗟に小夜子さんから離れると、彼女は唖然としてから笑いだした。
「やーだ、貴史君。もう色気づくお年頃なのね」
「違う、お姉ちゃん」
「まぁまぁ、貴史ちゃん。お兄さんがいろいろ教えてあげるからね」
「悠兄っ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ僕に、二人は寄り添って笑っている。小夜子さんは三年位前から、この山荘に顔を出すようになった。悠兄の大学の頃からの恋人だ。
僕は笑っている二人に反撃にでた。
「何だよ。笑ってる暇があるなら二人はさっさと結婚しろよな」
その台詞は、二人にはかなり効果があった。
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