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Chap.13 失名の森へ
Chap.13 Sec.7
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「——だめだよっ!」
左隣から、立ち上がる音とともに、想定外の声量が鼓膜を打った。
ティアは正面の彼女を見ないよう卓上に目を落とし、牛テールの澄んだブラウンのスープを見つめていたときだった。
関わらないでおこう、考えないでおこう——胸中で自分に言い聞かせていたのに、びっくりして思わず「……メル君?」顔を上げてしまった。メルウィンと向かい合っていたロキも——いや、たぶん兄弟のほとんどが、彼らしくない大声に驚いたかもしれない。
集まる多くの目に、メルウィンが小さく息を呑んだ。しかし、撤回するようすはない。数秒ほど待ってから、サクラが口を開いた。
「……何か、異存があるのか?」
冷たくはない。ティアからすれば、その声は配慮があると思う。——それでも、メルウィンにとっては重い響きだろう。メルウィンの目線はサクラに合っていない。
「今夜も、なんて……だめだよ。ロキくんは、明日も……でしょう?」
ためらいがちな確認が、メルウィンの唇からこぼれる。目の前で、自分への批判と取ったロキの目が、不快を宿して細まった。
「は? オレに文句つけてンの?」
「……そういうわけじゃ……ないけど……」
「じゃ、どォゆうワケ?」
「……だって、アリスさん、ずっと……」
言葉じりは、ぼそぼそと。隣にいるティアにもほとんど聞こえない。けれども、彼が言いたいことは分かった。——ずっと、お仕事してる。休めてないよ。
聞き取れなかったロキは、細々と話すメルウィンをうっとうしそうに見ている。
「なに言ってるか分かんねェ……けど、アンタに口出す権利ねェじゃん。絶対君主が“譲る”って言ってンのに、それを貰って何が悪ィの? ヴェスタは要らねェんだろ。なら——黙ってろよ」
強圧的な、低い声。対峙する者の意志をくじく、牽制の響き。ティアにも身に覚えがある。
苛立った目つきでロキから睨まれたメルウィンは、きっと腰を下ろしてしまうだろう——と、ティアの予想によって脳内映像が先に出ていたが、それは裏切られた。
「ヴェスタって……呼ばないで」
かすかな声が、強い意志を秘めて空気を震わせた。見上げるティアの先では、メルウィンのまっすぐな目が、ロキを見すえ、
「僕の名前は——メルウィン。勝手な名前で、呼ばないで」
「はァ? ……いきなり何?」
「……僕のことは、ちゃんとした名前で呼んでほしい」
「? ……なんで?」
「その名前が、いやだから」
「…………?」
唐突な主張に、ロキの顔から苛立ちが消えた。困惑のような、理解できないものに遭遇したときの顔つきで黙したが、
「…………じゃ、なんて呼べばいいわけ?」
「そのまま、メルウィンにして」
「……なんで?」
「なんでって……どうして? 僕のこと、ふつうに名前で呼ぶのって、そんなにだめなこと?」
「……ダメなんじゃねェの? だって、アンタ——自分の名前、好きじゃねェって言ってたじゃん」
——え?
ティアの心の声に、メルウィンの声が重なった。隣にいたセトと、向こう側のハオロンも、(ん?)と顔を見合わせ、どうすべきかと様子を見守っていた面々の心境が一致した。
「ぇ……え?」
「え、じゃなくてさァ……自分で言ったこと、まさか覚えてねェの?」
「自分で……? 僕、そんなこと、言った?」
「言った、最初のレクの日に。“ぼくも自分の名前、あんまりすきじゃないんだ”って。一言一句、このまま」
「………それは、覚えてない……でも、最初のレクって……えっと、ものすごく小さい頃の話なんじゃ……?」
「——つまり? 幼少期は自分の名前がスキじゃなかったケド、今はスキって解釈でい~ワケ?」
「ぇえっと……?」
くじかれたわけではないが、メルウィンの意志が変な方向に折れ曲がった。瞳を泳がせて、一瞬だけティアとも目が合って、またロキに戻り、
「あの、それなら……なんで、ヴェスタなの……?」
「そんなん訊く意味ある? 名前が好きじゃねェって言うから、苗字のほう短くしただけじゃん」
「……苗字?」
「自分の苗字も忘れたワケ?」
「僕の苗字って……ウェスタゴールだけど……?」
「? ……ヴェスタガードだろ?」
「……ううん、Westergaard」
メルウィンが、ブレス端末に触れて空間に文字を映し出した。Melvin Westergaard——ティアも初見だった。兄弟のファミリーネームに興味がないので、ほとんど把握していない。そもそも名前というものは、共通語が普及した今でも母国語で付けられることが多く、無理やり共通語の表記にしている場合もある。よって、共通語表記の先入観は、ない方がいい。本人に発音してもらって、その音で覚えたほうが正確だと思う。ハウスで挙げるなら〈サクラ〉や〈ミヅキ〉が難しい。文字だけ見たところで、うまく発音できない。アクセントの位置が変わってしまう。
(メル君の名前も、僕からしたらメルヴィンって読みたくなるしね……)
文字列を見ながらそんなことを思いつつ、視線をロキの方へ。無言で宙の文字を見ている。どうやらものすごい勘違いに気づいたらしいけれど、はたしてそれは、なぜ勘違いに至ったのか。記憶力の良さげな彼が、シンプルに間違うとは思えないのだけど。
——ふと、考えていたティアの視界で、ひらめいたような顔のハオロンが、
「あぁ、そぉなんか! うち、てっきりクラシカルワールドのヴェスタに似てるからやと思ってたわ! 料理上手なとこ一緒やし、メルウィンにも話したんやけどぉ……無関係やったんかぁ~」
自身の思い違いを、からからと明るい声で笑った。場に浮くような軽快さ。空気をやわらげたいと思っているのだろう。
(せっかくアリスちゃんとロキくんの仲を取りもったのに、また変なとこで拗れたら嫌だしね?)
ティアだけは、ハオロンの心を察している。
暢気であるかのようなハオロンに、ロキが顔をしかめて、
「似てねェし。あれ雑魚キャラじゃん」
「えぇ~? 回復アイテム作ってくれるし、いい子やよ?」
「頭わるすぎ。オレはキライ」
ぐだぐだと流れる会話に、茫然とするメルウィンが……ふっ、と。ふいに笑った。
あきれたような、ふっきれたような。彼にしては明朗な笑い声で、
「——そっか。じゃあ、僕の思い違いなんだ」
「? ……間違ってたのはオレじゃん」
「……うん、でも、言われると……たしかに、小さい頃は嫌だったかも。昔っぽくて、平凡だなって……思ってたかも。——だから、なんでもいいよ。メルウィンじゃなくても、ヴェスタでも」
「はァ?」
「……ウェスタでも、いいかな」
なんだそれ? 意味わかんねェ。顔に気持ちが表れているロキから目を外して、メルウィンはサクラの方を向いた。
「時間をとって、ごめんね。みんな、お腹すいてるよね? いただきます、したほうがいい?」
お腹すいてるよね? のところは、セトを見たと思う。メルウィンの問いに、サクラは「そうだな」短く肯定した。
腰を落としたメルウィンが、手を合わせる。唱和の前に、ロキが「つまり? ウサギはオレが貰うってことで、おーけー?」いつのまにか忘れられていた本題にさらっと触れた。手を重ねたまま、メルウィンは「ううん、だめ」やわらかな口調で否定する。
「は? なんで?」
「僕も立候補するから、アリスさんに選んでもらうのはどうかな?」
「はァっ? アンタは日中すごすって話じゃん!」
「うん、だから、夜は初めて。安眠のためのハーブティーを飲んで、ゆっくり休めるといいな」
「……そんなん独りでやればよくね? オレはウサギが必要なんだし、オレにくれればい~じゃん?」
「僕も、アリスさんが必要だよ?」
「いや、お茶飲むのに要らねェよな?」
「そんなことないよ……ひとりで飲むのと、一緒に飲むのは、別物だと思う。……ね、ハオロンくん」
「ん? ……ほやの! うちも独りは嫌やわ!」
「ちょっ、アンタどっちの味方してンだよ!」
「んん? なんでロキの味方すると思ってるんやぁ? うちらバチバチの敵やろ?」
「……あのさ、ゲームに負けたこと根に持ってねェ……?」
「うん」
「うんって……」
たじろぐロキに、ハオロンが笑う。メルウィンも小さく笑い、改めて声を張った。
「——いただきます」
高らかで、やわらかで、優しい音色。
黄金のフルートが奏でるような、繊細なのにあたたかな声質。耳に残る響き。
同じ言葉を、全員で重ねて、返しながら、
(僕が何かするまでもなく、風向きが変わりそうだね……)
ティアの胸には、先行きに対する不安と、それを照らすような眩しい何かが芽生えていた。
その何かの名を、ティアは知っている。
(ね、どうするの? ——サクラさん)
勇気というものは、人を感化させる。
これは始まりにすぎない気がした。
左隣から、立ち上がる音とともに、想定外の声量が鼓膜を打った。
ティアは正面の彼女を見ないよう卓上に目を落とし、牛テールの澄んだブラウンのスープを見つめていたときだった。
関わらないでおこう、考えないでおこう——胸中で自分に言い聞かせていたのに、びっくりして思わず「……メル君?」顔を上げてしまった。メルウィンと向かい合っていたロキも——いや、たぶん兄弟のほとんどが、彼らしくない大声に驚いたかもしれない。
集まる多くの目に、メルウィンが小さく息を呑んだ。しかし、撤回するようすはない。数秒ほど待ってから、サクラが口を開いた。
「……何か、異存があるのか?」
冷たくはない。ティアからすれば、その声は配慮があると思う。——それでも、メルウィンにとっては重い響きだろう。メルウィンの目線はサクラに合っていない。
「今夜も、なんて……だめだよ。ロキくんは、明日も……でしょう?」
ためらいがちな確認が、メルウィンの唇からこぼれる。目の前で、自分への批判と取ったロキの目が、不快を宿して細まった。
「は? オレに文句つけてンの?」
「……そういうわけじゃ……ないけど……」
「じゃ、どォゆうワケ?」
「……だって、アリスさん、ずっと……」
言葉じりは、ぼそぼそと。隣にいるティアにもほとんど聞こえない。けれども、彼が言いたいことは分かった。——ずっと、お仕事してる。休めてないよ。
聞き取れなかったロキは、細々と話すメルウィンをうっとうしそうに見ている。
「なに言ってるか分かんねェ……けど、アンタに口出す権利ねェじゃん。絶対君主が“譲る”って言ってンのに、それを貰って何が悪ィの? ヴェスタは要らねェんだろ。なら——黙ってろよ」
強圧的な、低い声。対峙する者の意志をくじく、牽制の響き。ティアにも身に覚えがある。
苛立った目つきでロキから睨まれたメルウィンは、きっと腰を下ろしてしまうだろう——と、ティアの予想によって脳内映像が先に出ていたが、それは裏切られた。
「ヴェスタって……呼ばないで」
かすかな声が、強い意志を秘めて空気を震わせた。見上げるティアの先では、メルウィンのまっすぐな目が、ロキを見すえ、
「僕の名前は——メルウィン。勝手な名前で、呼ばないで」
「はァ? ……いきなり何?」
「……僕のことは、ちゃんとした名前で呼んでほしい」
「? ……なんで?」
「その名前が、いやだから」
「…………?」
唐突な主張に、ロキの顔から苛立ちが消えた。困惑のような、理解できないものに遭遇したときの顔つきで黙したが、
「…………じゃ、なんて呼べばいいわけ?」
「そのまま、メルウィンにして」
「……なんで?」
「なんでって……どうして? 僕のこと、ふつうに名前で呼ぶのって、そんなにだめなこと?」
「……ダメなんじゃねェの? だって、アンタ——自分の名前、好きじゃねェって言ってたじゃん」
——え?
ティアの心の声に、メルウィンの声が重なった。隣にいたセトと、向こう側のハオロンも、(ん?)と顔を見合わせ、どうすべきかと様子を見守っていた面々の心境が一致した。
「ぇ……え?」
「え、じゃなくてさァ……自分で言ったこと、まさか覚えてねェの?」
「自分で……? 僕、そんなこと、言った?」
「言った、最初のレクの日に。“ぼくも自分の名前、あんまりすきじゃないんだ”って。一言一句、このまま」
「………それは、覚えてない……でも、最初のレクって……えっと、ものすごく小さい頃の話なんじゃ……?」
「——つまり? 幼少期は自分の名前がスキじゃなかったケド、今はスキって解釈でい~ワケ?」
「ぇえっと……?」
くじかれたわけではないが、メルウィンの意志が変な方向に折れ曲がった。瞳を泳がせて、一瞬だけティアとも目が合って、またロキに戻り、
「あの、それなら……なんで、ヴェスタなの……?」
「そんなん訊く意味ある? 名前が好きじゃねェって言うから、苗字のほう短くしただけじゃん」
「……苗字?」
「自分の苗字も忘れたワケ?」
「僕の苗字って……ウェスタゴールだけど……?」
「? ……ヴェスタガードだろ?」
「……ううん、Westergaard」
メルウィンが、ブレス端末に触れて空間に文字を映し出した。Melvin Westergaard——ティアも初見だった。兄弟のファミリーネームに興味がないので、ほとんど把握していない。そもそも名前というものは、共通語が普及した今でも母国語で付けられることが多く、無理やり共通語の表記にしている場合もある。よって、共通語表記の先入観は、ない方がいい。本人に発音してもらって、その音で覚えたほうが正確だと思う。ハウスで挙げるなら〈サクラ〉や〈ミヅキ〉が難しい。文字だけ見たところで、うまく発音できない。アクセントの位置が変わってしまう。
(メル君の名前も、僕からしたらメルヴィンって読みたくなるしね……)
文字列を見ながらそんなことを思いつつ、視線をロキの方へ。無言で宙の文字を見ている。どうやらものすごい勘違いに気づいたらしいけれど、はたしてそれは、なぜ勘違いに至ったのか。記憶力の良さげな彼が、シンプルに間違うとは思えないのだけど。
——ふと、考えていたティアの視界で、ひらめいたような顔のハオロンが、
「あぁ、そぉなんか! うち、てっきりクラシカルワールドのヴェスタに似てるからやと思ってたわ! 料理上手なとこ一緒やし、メルウィンにも話したんやけどぉ……無関係やったんかぁ~」
自身の思い違いを、からからと明るい声で笑った。場に浮くような軽快さ。空気をやわらげたいと思っているのだろう。
(せっかくアリスちゃんとロキくんの仲を取りもったのに、また変なとこで拗れたら嫌だしね?)
ティアだけは、ハオロンの心を察している。
暢気であるかのようなハオロンに、ロキが顔をしかめて、
「似てねェし。あれ雑魚キャラじゃん」
「えぇ~? 回復アイテム作ってくれるし、いい子やよ?」
「頭わるすぎ。オレはキライ」
ぐだぐだと流れる会話に、茫然とするメルウィンが……ふっ、と。ふいに笑った。
あきれたような、ふっきれたような。彼にしては明朗な笑い声で、
「——そっか。じゃあ、僕の思い違いなんだ」
「? ……間違ってたのはオレじゃん」
「……うん、でも、言われると……たしかに、小さい頃は嫌だったかも。昔っぽくて、平凡だなって……思ってたかも。——だから、なんでもいいよ。メルウィンじゃなくても、ヴェスタでも」
「はァ?」
「……ウェスタでも、いいかな」
なんだそれ? 意味わかんねェ。顔に気持ちが表れているロキから目を外して、メルウィンはサクラの方を向いた。
「時間をとって、ごめんね。みんな、お腹すいてるよね? いただきます、したほうがいい?」
お腹すいてるよね? のところは、セトを見たと思う。メルウィンの問いに、サクラは「そうだな」短く肯定した。
腰を落としたメルウィンが、手を合わせる。唱和の前に、ロキが「つまり? ウサギはオレが貰うってことで、おーけー?」いつのまにか忘れられていた本題にさらっと触れた。手を重ねたまま、メルウィンは「ううん、だめ」やわらかな口調で否定する。
「は? なんで?」
「僕も立候補するから、アリスさんに選んでもらうのはどうかな?」
「はァっ? アンタは日中すごすって話じゃん!」
「うん、だから、夜は初めて。安眠のためのハーブティーを飲んで、ゆっくり休めるといいな」
「……そんなん独りでやればよくね? オレはウサギが必要なんだし、オレにくれればい~じゃん?」
「僕も、アリスさんが必要だよ?」
「いや、お茶飲むのに要らねェよな?」
「そんなことないよ……ひとりで飲むのと、一緒に飲むのは、別物だと思う。……ね、ハオロンくん」
「ん? ……ほやの! うちも独りは嫌やわ!」
「ちょっ、アンタどっちの味方してンだよ!」
「んん? なんでロキの味方すると思ってるんやぁ? うちらバチバチの敵やろ?」
「……あのさ、ゲームに負けたこと根に持ってねェ……?」
「うん」
「うんって……」
たじろぐロキに、ハオロンが笑う。メルウィンも小さく笑い、改めて声を張った。
「——いただきます」
高らかで、やわらかで、優しい音色。
黄金のフルートが奏でるような、繊細なのにあたたかな声質。耳に残る響き。
同じ言葉を、全員で重ねて、返しながら、
(僕が何かするまでもなく、風向きが変わりそうだね……)
ティアの胸には、先行きに対する不安と、それを照らすような眩しい何かが芽生えていた。
その何かの名を、ティアは知っている。
(ね、どうするの? ——サクラさん)
勇気というものは、人を感化させる。
これは始まりにすぎない気がした。
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