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Chap.9 盤上の赤と白
Chap.9 Sec.2
しおりを挟む早朝の空気が冷たい。朝といえども夜明け前の空は暗く、かすかに星が見える。ティアを筆頭に、ハウスの住人の半分は——ゲームをしつつも意識が飛んでいるふたりを含め——眠っていると思われる時間帯。
ハウスから外に出たイシャンは、身が締まる冷気で胸を満たすように息を吸った。澄みきった空気はしっとりとしていた。午後は雨が降るかも知れない。トレーニングには適している。昼は射撃の練習をしようと考えていた。
世界中の観測データが取得できなくなる前から、イシャンは天気予報を気にしたことはない。武器のなかでも有用性の高い銃器の効力は、天候の影響を受けないからである。自動照準の機能は一部影響を受けるので、悪天候のもとでの練習は必要といえる。将来的に生活のためのエネルギー資源を失う蓋然性も低くはないので、肉体を鍛えておくことは武力としてのみならず重要と思える。
科学がこれほど発達したというのに、世界は感染による崩壊で、身体能力が生存率と関わる時代へ逆戻りしようとしている。
「——イシャン!」
ハウスを出て、共用エリアのルートで森へと走っていたイシャンの耳に呼び声が届いた。
足を止めて振り返る。離れた位置で、星明かりに浮かぶ薄い金の髪を見つけた。その人物は瞬くまに目前までやって来ると、「はよ」短い挨拶とともに片手を上げた。
「セト、おはよう」
「俺も一緒に走っていいか……?」
「構わないが……セトからすると、私のペースは遅くないだろうか?」
「そんなことねぇよ」
セトが答えながら横に並んだ。イシャンは暗い色のスポーツウェアのせいで闇と同化しがちだが、セトは白いウェアだった。更に髪色が明るいので、視覚的に捉えやすい。
スマートマテリアルのウェアが、ふたりの体温上昇に合わせて通気性を高めようと変形した。口許まであった布地が縮小し、すっきりと収納される。さらされた唇から漏れる白い息が、朝闇に溶けていった。
共に無言のまま、森までのルートを走って行く。ブレス端末と連携したピアスから、通常よりもペースが上がっている報せが鳴った。セトに釣られて速くなっているのだと思うが、セトはこれでもスピードを緩めているほうだろう。普段は共に走ることがないので——昔はよくあったが——他者がいると、こんなにも走りづらいのかと感じていた。
「一昨日は……悪かった」
東の空が白み始めたころ、ぽそりとした謝罪が落とされた。
前を見ていたイシャンは、セトの方へと横目を投げた。謝罪の理由は思いつくものがあったが、確証が得られない。イシャンが黙していると、セトはちらりと目を合わせて、
「……暴行とか、危険とか……言いすぎた。お前にも理由があるのは分かってるし……つぅか俺が言える立場じゃねぇのに……ごめんな」
——お前のほうがよっぽど危険だ。
あのとき、サクラに遮られなければ、セトはそう言いたかったのだろう。胸に残っていたセリフが、明瞭な形をもって頭に響いた。それと同時に、あの日、あの後で、武器庫に来たサクラに打ち明かされた真意までもが浮かんでいた。
——イシャンは、まだあれを追い出したいのか?
——……リスクは、可能な限り低減させておきたい。
——あれに私たちは殺せないよ。
——……その根拠が、私には分からない。
——私が断言しているのに、根拠が要るのか?
——………………。
——そう案じるな。直に方がつく。
——…………?
——お前には話しておこうか。……私はね、ひとり出て行ってもらいたい者がいるんだよ。
記憶にあるサクラの微笑みから意識をそらして、イシャンは隣のセトに応じた。
「謝る必要は無い。……抗体については、セトの言い分も理解できる。……あの人間の為になると思って打ったが……違うかも知れない。今考えると、短期間だけ感染を防いだところで……なんの足しにもならない」
「? ……いや、結果としては助かったんだけどよ。尋常じゃねぇくらい感染者に囲まれてたし……逃げ出したタイミングが良かったな」
「………………」
彼女の逃亡の要因を思うとイシャンは何も返せないのだが、セトはそこまで考えて話しているわけではないようだった。声に責める響きは無く、表情は明るい。しかし、サクラの言葉が重なるせいで、イシャンはその顔を直視できない。
胸が痛む気がした。速くなる鼓動と呼吸のせいなのか——。
「俺が言っても、なんの保証にもなんねぇけど……ウサギは、俺らに危害を加える気なんてねぇよ。前の奴らとは、全然違う。……だからよ、……信用しろとまでは言わねぇけど……ハウスの仲間と思って、接してやってくれねぇか?」
「…………仲間」
「駄目か?」
「……サクラさんが受け入れたのだから、私は拒否できない。……それに、サクラさんも……あの人間を警戒する必要は無いと……似たようなことを、言っていた」
「ほんとかっ?」
「……嘘ではないが……?」
「いや、お前がそういう嘘言わねぇのは知ってるけど。……サクラさん、ウサギのこと良く思ってねぇ気ぃしてたから……そうか、そんならよかった。俺が心配してたよりも、あいつ受け入れられてるんだな。……よかった」
人心地がついたようなセトの表情とは対照的に、イシャンの顔には険しさが見えた。セトは何も分かっていない。しかしイシャンも、サクラの真意を受けてどうすればいいのか——正解が、分からない。
「……セト、」
「ん?」
足を止めたイシャンを、セトが振り返った。乱れた呼吸を整えるために深呼吸したイシャンの背で、夜明けの日が昇り始めている。朝霧に赤い陽光が散乱していた。
「私は、あの人間を……消してしまいたい」
イシャンの声は、森特有の人気のない静寂に、幻のように消えた。
その独り言にも似た願望に、穏やかだったセトの顔が「……は?」困惑に染まっていく。水分を多分に含んだ空気が、熱を帯びた彼らの肌をひやりと撫でた。
「……なに、言ってんだよ……?」
「………………」
「お前さっき……サクラさんが受け入れるなら、拒否しねぇって言ったよな……?」
「……分かっている。サクラさんがここに置くと言った以上、私も……追い出せない」
「そんなら、なんで……」
「…………セトは、あの人間と、ハウスであれば……どちらが大切なのだろう?」
「……は?」
「どちらだ?」
「なにロキみてぇなこと訊いてんだ……? そんなの……ハウスっつぅか……お前らに決まってんだろ。なんでウサギの可能性があんだよ」
「同感だ。しかしセトは……自身を危険にさらしてまで、あの人間を捜しに行った。……それは、自分よりも……あの人間のほうが大切だということには、ならないだろうか?」
「……それは話が別だろ」
「それならば……自分を含む兄弟と、あの人間なら……前者を選ぶ——と。そういう解釈で良いだろうか?」
「……ああ」
「では、あの人間が消えても……支障は、無い」
「なんの話をしてんだ……?」
戸惑いながら問いかけたセトは、朝陽を背負って逆光となった薄暗いイシャンの瞳に、非情な覚悟を見た気がした。後ろに撫で付けられた黒髪に、黎明の陽が注がれている。それは、まるで燃えさかる炎のように、赤々とした揺らめきを与えていた。
セトの野生の勘が、警鐘を鳴らしている。
標的を意識の中心に捕捉したときの、狙いを定める獣のような——殺意を感じて。
「……おい、イシャン。お前なに考えてんだよ……?」
朝焼けの色を映して、セトの眼が揺れる。それを見返すイシャンは、感情の見えない双眸を細め、冷酷な問いをかけた。
「あの人間を——殺しても、いいだろうか?」
太陽は木々に遮られながらも、小径の奥から眩しい光で森を射している。その光を浴びたイシャンの姿は、神話に描かれる神を彷彿とさせ、恐ろしく美しかった。対峙した者が、思わず言葉を失ってしまうほどに。
そうして、思考が停止したセトは、何も読み取ることができない。凛としたイシャンの顔の下には、誰にも分からない苦悩がひそんでいる。
——追い出したい? ……ロキ、だろうか?
——何故、ロキだと?
——……彼は問題を起こしやすい。
——あれくらいなら、むしろ皆の刺激になって良いと思っているよ。
——……ティア?
——ティアは、ここを追い出せば死んでしまうな。
——それが否定と捉えるべき回答なら……私はもう、推測できない。……残りの者は皆、貴方に従順だと思う。
——お前にとって、従順は美徳か。
——……サクラさんにとっては、違うということだろうか?
——………………。
——婉曲な言い方では、私は察することができない。サクラさんの追い出したい者が私なら……明確な言葉で言ってもらいたい。
——ああ、誤解させたようだね? お前ではないよ。私が追い出したいのは……
サクラの真意を聞いてから、イシャンは延々と答えを探していた。
サクラの意思に副い、ハウスを守ることが自分の存在意義だと思っていた。守る対象には兄弟たちも含まれていて、今まで相反しなかったから、迷うことも無かった。
だが、今回は……守る対象であるはずの兄弟が、排除しなくてはいけない存在になっている。
向かい合う金の眼は、幼き頃からそばにあった。その時間は、戸籍上の家族と過ごした時よりも長きにわたっている。
——私が追い出したいのは、セトだ。
何故、
——今、私がセトを追放すれば、それを望まない者は反感を抱くだろう。皆が追放を受け入れるための動機が要る。……だから、しばらくはあれを追い出してはいけないよ?
何故、彼なのか。
サクラは納得のいく理由を与えてくれなかった。
——私的な理由だ。
それ以上の言及を許さないようすで、短い言葉だけ残して、話を終えてしまった。
サクラが何故その考えに至ったのか、ずっと考えていたが、はっきりとした答えは出ていない。セトはイシャンと同じで、サクラの規則に対して常に忠実であった。不満や批判も一切口にしていない。ただ、それは——あの人間と、出会うまでの話だ。
サクラの私的な理由には、おそらく彼女が関わっている。
セトが、兄弟よりも彼女を大切に思うなら、このまま黙って事の流れを見守るべきかとも思ったが……そうでないのなら。
サクラの意思には、副えない。セトはこのハウスに必要な人間だ。
今しがた、イシャンのなかで答えが出た。サクラが禁じたのは、彼女を追い出すことのみ。
「……私が殺しても、支障は無いだろう?」
“殺してはいけないよ?”
——などとは、言われていないのだから。
それが、言われるまでもない、人の理だとしても。
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