その花の名前は

青波鳩子

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【デルフィーナ、最後の一日】

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「おはようございます、ロルダン王太子殿下」

「……おはよう」

王家の紋章が入った馬車に、いつも後から乗り込む王太子殿下に私が声をかけてそれに殿下が応える。
これが一日の会話のほぼすべてだ。

私とロルダン殿下の婚約が結ばれたのは、同じ年の私たちが十四歳の頃だった。
王妃様と今は亡き私の母がとても仲の良い友人で、この婚約は二人の間でもっと前に密かに取り交わされたものだという。

このオルティス王国の公爵家のうち、中心となるアドルナート公爵家から王家に嫁いだ王妃様と、二番手となるクレメンティ公爵家に生まれ婿を取り家督を継いだ母。
本来ならば私は、母と同じように婿を取ってクレメンティ公爵家を継ぐはずだった。
でも王妃様は、私をロルダン王太子殿下の婚約者とすることを選んだ。
そこには王妃様の思惑があるのだろう。

その母は私が十六歳の冬に突然亡くなった。
王妃様はすぐに私を王城の一室に『お妃教育の為』という名目で住まわせた。
クレメンティ公爵家の正統な血筋を持つ母の突然の死は、娘の私でさえ父の所業ではないかと思うほど父母の間は冷え切っていた。
王妃様が母の死を知り素早く王城に私を入れたのは、父から守るためだと理解した。

ただ、婚約者のロルダン王太子殿下はたぶん何もかもが面白くないのだ。
王城に部屋を与えられた私は王妃様の命によって、ロルダン殿下と同じ馬車で学園に通う。
殿下の心に住まう女性は婚約者の私ではない。
ロルダン殿下から私は見えていても見えていない。
おそらく今も殿下の目には、私は透けて馬車の内装である赤いビロードだけが見えている。
それでも構わなかった。
もう、こうしたロルダン殿下の態度のことで、傷がつく白い肌など残っていないのだから。

学園に着き、いつものようにロルダン殿下が先に馬車を降りる。
制服に付いた皺を伸ばしたいのか埃を掃いたいのか、パンと大きな音を立てて制服を叩いたロルダン殿下は早足に門に向かっていく。
その音は拒絶にも頬を張られたようにも感じられた。
ロルダン殿下に手を取ってもらえる訳でもない私は、いつものように一人で馬車を降りる。

──それもこれも今日で終わりよ。

小さく声に出してみたら、まるで背中に羽が生えたように身体が軽くなり、ぴょんと馬車から飛び降りた。


***


昼の休みは学園長の許可があり特別談話室にて一人で過ごしている。
学園長の許可を得たというより、王妃様がそう手配をしてくださった。
生徒が集まる食堂ホールで食事をしていると、それがどんな端でも片隅でも嫌がらせをされるからだ。

ジュリア・ペレイラ伯爵令嬢はロルダン殿下とで、彼女からの嫌がらせを受け続けていた。
トレーを持ってわざとぶつかってきて私に飲み物やスープなどを掛けてから『お許しください!』とやるのだ。
ロルダン殿下や殿下の取り巻きがいる場面ではなく、後から彼らがやってくるタイミングで『お許しください!』の場面になるようにやっている。
これが何度も続いて、ジュリア・ペレイラ伯爵令嬢の綿密な時間管理は評価に値すると思うほどだ。
私がどれだけ隅にいてもそうなるのは、明らかに伯爵令嬢のほうが私に近寄ってきているからなのに、そんなことにも気づかないロルダン王太子殿下といずれ殿下の側近となるはずの取り巻き令息たちの無能さには哀しみを覚えた。
三度目の後に、王妃殿下から『昼の休憩を取る場所を変えるように』と、特別談話室を私が使えるようしたと告げられたのだ。

私には『王家の黒衣』が付けられている。
『王家の黒衣』とは王妃様が耳目として使っている者の呼び名で、私の護衛を兼ねていると聞いた。
特別談話室が使えるようになったのは、その『王家の黒衣』から正しい報告が王妃様に上がったおかげだと理解した。
ランチボックスを片付けて、談話室から出るとロルダン殿下とジュリア嬢たちが向こうから歩いてくるところと鉢合わせになった。

「この頃食堂ホールで見かけないと思っていたら、こんなところで公爵家の特権を使っていたのか」

殿下の取り巻きのコルラード・バルデム侯爵令息が侮蔑を隠さずに言う。
バルデム宰相の嫡男だが、優秀な宰相の遺伝子はコルラードの身体をすり抜けて産湯に溶けていったかのような人物だ。
一歩先は見えても三歩先までは見えていない。見えていれば私にこのような言葉を吐くわけがないのだ。

「学園長からのご指示です。王妃殿下から学園長にお話があったようですので、我がクレメンティ公爵家はこの件に際し何の関与もございません。
思い込みでのご発言、この場で訂正なさるならお受けいたしますが」

コルラード・バルデム侯爵令息は、顔色を変えたが何も言わなかった。

「……そういう物言いこそが、公爵家の特権を振りかざしていることに他ならないのに愚かだな」

バルデム侯爵令息の援護射撃をするように、トビアス・ベルディーニ騎士爵令息が言う。
ロルダン殿下の護衛騎士で騎士団団長の嫡男でありながら、その方向を間違っている。
力があっても狙い定めることができなければ、その力で味方の背中を撃つだけだというのに。
ちょうど今のように。

「愚か、とおっしゃいましたか?」

最後まで言う前に、私の義弟グエルティーノが口を挟んできた。

「これがクレメンティ公爵令嬢と言うのだから僕は恥ずかしい。僕が後を継いだら真っ先に手掛けるのは、今は姉と呼ばざるを得ないこの女を追放することだ」

「グエルティーノ、あなたはクレメンティを継げると思っているのね。一滴もクレメンティの血が流れていないのに? クレメンティを継げるのは誰か、王妃殿下に確認してはどうかしら。あなたに会ってくださるかは分からないけれど」

グエルティーノは不機嫌に焦燥感を足したような顔になった。
私が言い返すとは思ってもいなかった上に、父ですら王妃殿下に公務以外で目通りが叶わないことを良く知っているからだ。
王妃殿下は、父がグエルティーノの母と一緒になりたくて私の母を殺したと思っていらっしゃる。思っていらっしゃるだけではなく、おそらくその証拠をお持ちなのだ。
今はまだそれを詳らかにする時ではないだけのこと。

そして『王妃殿下に確認すればいい』という言葉は、ロルダン殿下にも向けたものだ。
ロルダン殿下こそ、いくらでも母である王妃殿下にいろいろなことを確認できる立場にいるのに何もしてこなかった。
何もしないどころか、私がこのように扱われている理由がこのロルダン殿下にある。
殿下が私への態度を侮蔑で塗り固めているから、取り巻きたちが自分も同じように私に接してしてよいと勘違いをしていた。

「ねえ、今日はずいぶんと威勢がよろしいのね。いつも黙っているだけなのに、投げやりな態度であれこれ言っているけど、ロル、これを許すの?」

王太子殿下に向かって『ロル』呼ばわりしたジュリア・ペレイラ伯爵令嬢は、ロルダン王太子殿下の腕に抱き付きながら言った。
こんなふうにロルダン殿下にしがみついているのに、コルラードともトビアスとも大変親密なのだ。
ペレイラ伯爵家は娘に貞操観念について教育するのを失念したのだろうか。

「投げやりなのは私ではありませんわ。私の存在が面白くないのは構いませんが、私には王家の見張りがついております。悪いこともできませんしすべて把握されております。そんな私に言いたい放題の皆様こそ、ご自身の家のことを考えていない投げやりな方々だと思いますわ」

「それで脅したつもりか! 卑怯者が!」

トビアス・ベルティーニ騎士爵令息が私の腕を捻じり上げた。
私はまっすぐにその目を見る。
ベルティーニ騎士爵令息の大声で、人が集まってきた。
私はギャラリーに聞こえるようにはっきりと言う。

「卑怯なのはどちらかしら。騎士の方は、か弱き女性にこんなことをするのですね」

捻じり上げられた腕を乱暴に振り払われたので、その力を利用して私は転ぶ。集まってきた人々の中から悲鳴が聞こえた。
今こそジュリア・ペレイラ伯爵令嬢のいつもの手口を使ってやるのだ。

「……痛いわ……なんて恐ろしい……」

私はハラハラと涙を落として見せた。肩を震わせ嗚咽を堪える。
見上げるとロルダン殿下が驚いた顔をして立ち尽くしている。殿下もただでは済まさないわ。

「ロルダン王太子殿下……助けてもくださらないのですね……殿下にとっては名ばかりの婚約者とはいえ、わたくしもこの国の民の一人ですのに……」

「名ばかりの婚約者どころか、おまえなど私の婚約者希望の列の最後尾だ。老女や幼女よりも後ろだということを忘れるな!」

その時、物陰から『王家の黒衣』と思しき男性が姿を見せたが普通の恰好をしていた。
黒衣というのは本当に名前だけだったのねと、場に合わないことを思っていると、いきなり抱き上げられた。

「王家から遣わされた公爵令嬢の護衛の者です。国王陛下並びに王妃殿下にトビアス・ベルティーニ騎士爵令息殿の狼藉を報告いたします」

「ちょ、ちょっと待ってくれ、誤解だ、何もしていない!」

これまで私が言い続けた『誤解ですわ、私は何もしていません』とそっくり同じ言葉を言い、膝をついている。私は本当に何もしていなかったけれど、トビアスは誤解と言い逃れることはできないというのに。

『誤解だと? これだけ見ている人間がいるのに……』 

『怖いわ、騎士が女性にあんな暴力を……しかも公爵令嬢に……』

『王太子殿下も……伯爵令嬢に乗り換えるつもりなら婚約を白紙にするのが先だろう……』

『こんなことになってもまだあの令嬢は王太子殿下に抱きついているわ。ふしだらですわね……』

周囲の声はしっかりトビアス・ベルティーニ騎士爵令息やロルダン殿下の耳にも届いたのか、周囲を見回して青ざめている。
最後にこんな清々しいことになって胸がすく思いがした。

もうあの顔もその顏も見ることはないと思うと、これまでのように黙っていなくても良いのだからとすべてに言い返した。
私にこれまで酷いことをさんざん言ってきた人たちは、自分が言われると何の防御も取れず、揃って青ざめた表情になった。
愚か過ぎて気の毒になるほど。

馬車まで抱き上げられたまま連れて行かれ、午後の授業に出ることもなく城に戻ることになった。今日で学園生活も最後であったため、登園してすぐに学園長には挨拶を済ませていてよかった。
あとは王妃殿下と面会が済めばすべてが終わる。
馬車の音も揺れも、いつになく心地よく感じた。

王宮の裏門から馬車は入っていく。
こちらの門のほうが王妃様に与えられた部屋に近いという理由だけではなかった。
好きな花がたくさん植えられている庭があるのだ。その庭を左右に見ながら歩くことが唯一の楽しみだった。

「痛みはありませんか?」

「ええ、大丈夫よ。自分で歩けますわ」

『王家の黒衣』に見送られ、馬車を降りて慣れた道を一人で歩いていく。
王城に入ればまた別の監視がつくのだ。
いつもの小径にはいつもの小さな花が揺れていて、私はいつものように足を止めて花に触れる。

「お帰りなさいませ」

庭師がいつもと同じ言葉を掛けてくれた。
庭師は私よりも五つくらい年上だろうか、背が高くしっかりした体躯だが雰囲気が草のよう。
朝に会えることはほとんどなく、だいたいこうして学園からの帰りにその姿を見かけた。
どういうわけか、走ってもいないのに胸が苦しくなる。
たくさんの花に囲まれているから、草熱くさいきれで苦しいの?
私は胸を軽く押さえてしゃがみ、白い小さな花に触れる。

「名前は何というのかしら」

「その花の名前は、オルレアと言います。繊細で可憐に見えるけれど、とても強い花です」

「そう、オルレアというの。可愛らしい白い花ね、覚えたわ」

また、彼の名前を聞くことはできなかった。
その代わりたくさんの花の名前を覚えた。
いつもは密かについている護衛という監視を気にして、それ以上庭師と話をすることはなかった。
でも、今日で最後なのだ。
思い残すことは何も無いと王妃様に言ったけれど、庭師の名前をとうとう聞けなかったことが私にとって唯一の心残りかもしれない。
もう、最後なのだから……心をここに残していくのではなく、全部持っていくはず。

「庭師さんのお名前は、なんと言うのかしら」

庭師は驚いたように目を見開いて私を見た。
辺りを気にするように見回して、

「……ジルドです」

聞き取れないほどの小声で言った。

「ジルドというのね、覚えたわ」

ジルドは困惑したような表情を浮かべた後、お辞儀をして私に背を向けて早足に歩いて行った。
心臓が私の内側を強く叩いている。
大きく呼吸をして、どうにか鎮めようとしてもなかなか思うようにならなかった。
昼間にロルダン殿下の取り巻き達に言い返した時の、百倍も勇気を出した。

(ジルド……覚えたけれど、明日には忘れてしまうのね……)

涙を堪えながら、私は名を覚えたばかりのオルレアの花が揺れる小径をとぼとぼと歩いた。


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