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第三章
(2)
しおりを挟む下の階は以前見たような海面ではなく、しっかりとした床が存在していた。
そして部屋中を水槽が所狭しと隙間なく並べられている。
水槽にはライトや大仰な装置が均等に設置されていて、どの水槽も靄のようなものが浮かび小さな丸い粒が浮いている。
Jが立つ水槽の前に行くと、ピンク色の美しい岩の塊が気泡を出して静かに鎮座していた。
「なにこれ。」
「サンゴ、っていう生物だって。」
「これ、生物なの?」
「これがジャックがお前に見せたかったもので、ジャックの夢だ。」
私はジャックが壁に貼っていた絵を思い出した。
ジャックが描いた物より実物はでこぼこしてるし、きらきらはしていない。
でも、これがジャックの夢。
言葉もなくじっと水槽を見る私を見てJが口を開いた。
「ジャックの研究は知ってたっけ?」
「海洋生物がたくさんいる海を作ること…?」
「あー、まあ、そう。
あいつは海を正常化して人間も海洋生物も安全に暮らせる方法を探してた。
途方もない研究に感じるけど、あいつは糸口を見つけたんだ。―それがこれ。
サンゴが群れになってサンゴ礁になるとそこにはたくさんの魚が増えるという研究結果があった。
でも世界中のどの海にももうサンゴ礁は生息してないって言われてたんだ。
それを養殖してたのがあの教授で、ジャックは彼にサンゴを貰いに行ってた。
あの教授はかなり気難しいから最初は無碍もなく断られたらしいけど、何年も助手として研究に携わって認められて、ポスドク時代はサンゴの年輪を調べて産卵と移植の研究をしてるって言ってた。それが一区切りついてジャック独自の研究方法も試していいことになったらしい。
最終的に地上の浅瀬にサンゴを移植して珊瑚で地上の拡大をする、これがあいつの壮大な研究テーマ。自分が生きてる間に出来なくても、サンゴで生活の地盤をつくろうとしてた。
そんなんできんのかよって感じだよな。でも凄い。あいつは凄い。
…あいつはいろんな奴らを説得して、ここに研究所を建てることが出来た。
その後は海に潜って研究重ねて、サンゴの養殖をこの汚染された海水でも出来る様に研究して、何回も何回も海に入って、また研究して、死んじゃった。
別にあいつ死ぬつもりとかは全然なかったと思う。
研究に没頭して、気づいたらもうどうしようもない状態になっちゃって、誰にも言わずにそのままここで死んだ。」
「―研究のせいで死んだってこと…?
こんなただの岩の為に、ジャックは一人で死んだの…?」
「あいつはちゃんと成果を出したよ。
この水槽は全部下の海と繋がってる。こんな汚染された海でも生きれる珊瑚なんだ。
これは大発明、大成功、あいつは間違ってなかった。今はアカデミーで研究が引き継がれてる。
深海鉄で珊瑚を運んで地上の浅瀬に移植するってのはもう何度かやってるんだ。
あいつはちゃんとやり遂げた。やり遂げて死んだ。
ドラマチックでもなんでもない、熱中しすぎるジャックの性格と、身体を省みない行動によって死んだ、それだけの話だ。ジャックらしい死に方かもね。」
Jはまるで罪を告白するような面持ちだ。
「―あいつ、人間嫌いなんだよ。
あんな穏やかそうななりしてて凄い人のこと下に見るし、俺より人に厳しいよ。
『人間は元々合理的な行動でなんて動けないのに、そういったふりがどんどんうまくなってこのざまだ。』とか、『人間を守るルールではないルールを作る必要があったんだ、僕は人間至上主義者が大嫌い。』とか『神が人間たちに自然を思うように使っていい、と言ったのがこの環境破壊の初根源なのだとしたら、その神が認めた人間というものは初期の人間だけに限られている。ぼくたちは獣と同じカーストに立っていると言っていい』『文明における破壊じゃない。皆で人間がそれを使うことを選んだんだ。文明が独り歩きして勝手に世界を滅ぼせるわけがないだから』つって、相当だよ。相当な拗らせ野郎って感じ。ジャックの物まね、似てるだろ?
お前の前ではかっこつけで良いとこしか見せてなかったけど。
あと思考を偏らせるのはどうとかこうとか、お前が一番偏ってるって」「やめてよ!!!」
「こんな岩がなんだっていうの。こんなんあろうとなかろうと世界なんて変わんないよ!
ずっと、薬物と爆薬に侵された海の上で生きるのが私たちの一生だもん。
それ以下でもそれ以上でもないし、海が綺麗になろうともう関係ない領域まで地球は汚れてるんでしょ。
…人間嫌いなんて言うなら、なんで顔も知らない死んだ人間がやった戦争のつけをジャックが払わなきゃいけないの。なんでジャックがあんなに苦しい姿になってまでこんな、こんな地球の為に頑張らなきゃいけなかったの。なんで、そんなに知ってるなら、なんでJは、…ジャックを止めてくれなかったの…?」
「―ごめん。」
Jはそういったきり静かに静かに涙を流した。
真っ黒な目に透明な液体が膜を張っては決壊して崩れて落ちる。
私はまた、間違った言葉を吐いてしまった。
「ごめん。」
Jのせいじゃない。Jのせいじゃない。誰のせいでもない。私だって何もしなかった。Jを責められる立場じゃない。ジャックがいてくれたらそれで良かった。こんな問題は起こらなかった。
私はジャックに対して怒りを持っている。私はジャックが勝手に死んだことに怒ってる。一人で助けを呼ばずに運命を受け入れるみたいな姿勢は間違ってた。
ジャック、ジャックがいないだけでこんなに悲しいよ。
「ごめんなさい、Jのせいじゃない。Jのせいじゃないの。ごめんなさい。」
Jの涙は止まらず段々と顔をぐちゃぐちゃにして嗚咽を漏らし始めた。
こんな姿、見たことない。
Jを見ていると私の止まった涙がまた膨れ上がり涙腺を壊した。
怒鳴られたほうがどれほどよかったか。
こんなに泣いてJが枯れてしまうのではないかと心配になる。
泣き声が壁に反響してまるで海が泣いてるみたいだ。
「ジャックは、どうやって死んだの」
私はJを出来る限りの力で抱きしめた。ぎゅっとJの体を巻き込んだ時、彼の体が震えたのが分かる。まるで手負いの獣だ。Jの大きかった背中は頼りなく細い。
どうしたらいいか正解が見当たらない。正解なんてどこにもない。
思ってるだけで、いっつも行動にうつさなくて、全部全部やればよかった。
元気かな、ってジャックを遠くで思うなら、思った時に会いにくればよかった。
ジャックを神様みたいに思ってた。私とは違う完璧な人で、神様だから大丈夫って。ジャックも人間だった。そんなことにも目を背けてる私は大馬鹿者だ。
「ジャックだったら」「ジャックがいれば」どうにもならないことを何度も考えてしまう。どうにもならないことはこの世界に存在することなんて生まれた時から身をもって知ってた筈なのに。馬鹿。馬鹿。馬鹿だ。
Jは生まれた時からずっと横にいた兄弟をなくした。お互いを一番理解していた双子はもういない。
ジャックをなくしたのは私だけじゃないのに、どうして気づかなかったのだろう。
確かに私は悲しみの中を泳いでた。自分だけが可哀想って、悲しさに酔ってた。
頭に火葬場で泣いていた母が浮かぶ。
「―細胞が死んでいったって。
海水に入ってる毒が細胞を壊して、それが神経に伝わって、ジャックの細胞が自殺を繰り返したって。斑点が出た時にはもう肺が死にかけてて、内臓が順番に死んでいったって。なにより苦しい死に方だって医者が言ったよ。
こんなになるまで放っておいて、一人で我慢できる痛さじゃないって言ってたよ。
あいつ、あんな寂しがり屋が、こんな寂しい研究所に一人でいれるわけないのに…、なんで俺、ごめん、ごめんジャック。」
Jはジャックの死を頭に焼き付けるように生きて、私はジャックを忘れるように生きた。
ジャックの死の様子は想像することしか出来ない。Jは何度ジャックの死を見たのだろう。
ずっと私を待ってたのだと言った。この世で唯一の兄妹になった私を。
涙はずっと枯れることなく溢れて、ジャックが死んだこの場所で私たちはもう会えないジャックを思いながら一晩中泣いた。
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