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12:魔法使いと二人きり

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 アラスターがフヨウのトランクを開いて、中身を検めている。リアムが当面必要なものだと用意してくれた衣類だが、アラスターは一つ一つ手に取って難しい顔をしていた。

 「……確かに物はいいが、フヨウには些か子供っぽいな。他に必要な物もあるし、服も買い足した方がいいだろう」

 フヨウはと言うと、好きに過ごしていいと言われたものの、正直どうしたら良いのか分からず、アラスターの後ろでぼんやりと立ち尽くしているだけだ。

 昨夜は食事の後、早々にベッドに行くよう促された。緊張で疲れていたのか、仄かにペパーミントの香りが残る寝具に包まれば、あっという間に眠りについた。気がつけば朝で、目が覚めた時に、自分が何処にいるのか分からず混乱してしまった。また見知らぬ場所に飛ばされてしまったのかと思い、ゾッとしたけれど、まもなくスープとパンを持って寝室に現れたアラスターの姿に、新しい家に移った事を思い出して、安堵したのだ。
 何をされても仕方がないのだと、覚悟をして来たけれども、魔法の実験台も、夜の相手もしなくて良いと言われて、随分と気持ちが楽になった。少なくとも、此処では辛い事を我慢しなくていいのだ。

 「さて、フヨウ。買い物は明日行くとして、今日は屋敷を案内しようか」

 一通りトランクの中身を確認したアラスターは、ひょいとフヨウを抱き上げた。流石に三回目ともなるとそれほど驚かないが、視界が高くなるので、ついアラスターの頸にしがみついてしまった。
 
 「そんなにしがみ付かなくても、落としたりしない」

 笑顔で諭され、フヨウはおずおずと手を離す。
 いくらなんでも、もう抱きかかえられて移動するような年齢ではないと思ったけれど、嫌では無かったので黙っていた。此処にはアラスターとフヨウしかいない。
 フヨウは母親と触れ合った記憶がほとんどない。だから人の温もりというものに、密かに憧れていた。
 アラスターは相変わらず鼻腔をくすぐるペパーミントの香りを漂わせていて、フヨウは密かに香りを吸い込む。

 「三階は使用人の部屋だが、今はみんな暇を出してしまって誰もいない。二階は見た通りだが、俺が使っている部屋以外は全て空き部屋だ。一階には厨房や洗濯室なんかがあるが、まぁ、当然使ってはいないな。あと、図書室もあったか。本はどれでも、好きに読んで構わない」

 家に図書室があることにも驚いたが、何より、ずらっと並ぶ書架に圧倒されてしまった。けれど、どの本の背表紙を見ても、フヨウの読めるものはなかった。もしかしたら、魔法の本もあるかもしれないと思うと、読めないのが少し残念だった。
 屋敷には随分前からアラスターしか居ないようで、どの部屋のカーテンも閉め切られ、家具には布が被せてあった。こんな広い屋敷の中を一人でフラフラしていたら、きっと迷子になる。自力で元の場所に戻ってこられる自信がないので、あまり歩き回らない方がいいだろうと思いながら、アラスターの説明を聞く。

 「ところで、フヨウは何処の国の生まれなんだ? 見たことのない字を書いていたが」

 急に出身を問われ、フヨウは困惑する。フヨウの生まれた国は、きっと此処には存在しない。解らないとも言えないフヨウは、正直に答えた。

 「……日本……です」

 「ニホン? 聞いたことがない国だな……どんな国だ?」

 「……どんな……?」

 改めてどんな国かと聞かれて、フヨウは言葉に詰まってしまう。説明できるほど、自分の住んでいた国をよく知らなかった。

 「アジアの小さな島国で……此処とは全然違う文化があるところでした」

 この見知らぬ場所に突然放り出されてから、何が起きているのか理解するよりも前に、信じられないような酷い目にあったフヨウは、自分が一体何処の誰なのかが、よく分からなくなってきていた。
 日本なんて本当にあっただろうか? 日本という想像の国で暮らしている夢を見ていただけで、壁も床も石で出来た暗い部屋に閉じ込められていた奴隷の自分が、本当の姿なのではないか。
 これまで14年間生きてきた場所や、自分自身の存在さえも曖昧になってしまったように思うのだ。
 どう言葉を尽くしても、上手く説明できる気がしなくて口を閉ざす。

 「……なるほど。そう言えば、フヨウは魔法に驚いていたな。ニホンに魔法使いはいないのか?」

 「魔法使いはいないです。そういう不思議な力は、物語とか、ゲームの中にしかないんです。でも、魔法の代わりに、色々な便利なものがあって、みんなそういうのを使って生活してて」

 フヨウの要領を得ない答えに、アラスターは気を悪くした様子もなく頷いてくれた。フヨウはその様子に、少しだけ肩から力を抜く。
 今のフヨウは、人が怖い。もとより、生い立ちのせいで人と相対する事が苦手だったけれど、最初に乱暴された時のことを思い出すので、特に体の大きな男は恐ろしいと感じる。
 アラスターは背こそ高いが、体は大きくはないので、思ったよりも怖いと感じない。何より、彼から漂うペパーミントの薫りは、フヨウの気持ちを落ち着かせる。
 アラスターは最初こそフヨウを拒絶するような様子だったが、フヨウの姿を見るなり何故か態度を変えた。優しく親切で、丁寧にフヨウに接してくれている。
 アラスターはとてもいい人だ。

 一通り屋敷を回ると、エントランスから外に出た。
 蔦だらけの屋敷を囲っている森は、風が吹くと木々が一勢にざわざわと騒ぎ出す。

 「この森は魔法で作った結界だ」

 「結界?」

 「危ないものを屋敷の中に入れないようにする壁のようなものだ」

 「森が魔法で出来ているんですか?」

 「ああ、そうだ」

 「……そんなことができるなんて、凄いですね」

 フヨウが感心して、素直な気持ちを口にすれば、アラスターは冷たい印象を抱かせる綺麗な顔に、得意げな笑みを浮かべた。すっかり印象を変えてしまうようなその笑顔に、フヨウの心臓はなぜかどきりとする。

 「ここに危険はないから、安心していい。何があっても、俺が必ずフヨウを守ってやる……」

 「……?」

 アラスターの声色に、強い決意のようなものを感じたフヨウは首をかしげる。此処にはそんなに危険があるのだろうか。確かに、奴隷商人のような、人を売り買いするような人間がいるけれど。

 「さて、そろそろお茶にしようか。茶請けにナッツ入りのトフィーを用意した。トフィーは好きか?」

 「……食べたことがないです」
 
 施設では、珍しいものは滅多に食べられなかった。トフィーと言われても、どんなお菓子なのか想像もできない。

 「そうか、フヨウの口に合うといいんだがな」
 
 鼻歌でも歌い出しそうな軽い足取りで屋敷にもどったアラスターは、フヨウを椅子に座らせると、流れるような手際でお茶の準備を始めた。その様子をフヨウはそっと眺める。
 アラスターがどうしてこんなに親切にしてくれるのかわからないけれども、何処に行っても要らない子供だったフヨウの面倒を、彼は引き受けてくれたのだ。
 何か一つでも、彼の役に立てることがあればいいなと思うが、フヨウには出来ない事の方が多い。
 この大きな屋敷を少しずつ掃除するくらいならできるだろうか。

 「……これがトフィーだ。バターがたっぷり使われているから美味いぞ」

 ぼんやりと考え事をしていたフヨウの目の前に出された皿に幾つも並んでいるのは、キャラメルを大粒にしたような菓子だった。表面がとろりと艶めいている。初めて見る菓子に、フヨウの目は釘付けだ。
 手を出せずにただ見詰めていたら、長い指がトフィーをつまみ上げ、フヨウの口元に差し出した。

 「ほら、口を開けて」

 言われて口を開けば、ぽいとトフィーが放り込まれる。舌の上に乗った途端、口の中に濃厚な甘みが広がった。蕩けるような美味しさに、フヨウは目を丸くする。

 「美味いか?」

 そう問いかけられ、大きく幾度も頷く。世の中にはこんなに美味しいものがあるんだと、口に残る甘さの余韻に浸っていれば、ほらとばかりに、もう一つ唇に押し当てられた。促されるまま唇を開くと、再び幸せの味が口一杯に広がる。
 ただ、本当に美味しいと思っただけなのに、なぜか胸が一杯になって、涙がほろりとこぼれ落ちた。

 「……どうした、フヨウ? どこか痛いのか?」

 フヨウはゆっくりと首を振る。どこも痛くはない。悲しい訳でもない。
 アラスターの少し冷たい手がフヨウの頬に触れ、涙をそっと拭う。
 それを切っ掛けに、フヨウの目から涙がぼろぼろと溢れ出した。

 「っ……うっ、うっ……ひっ……」

 もうずっと、フヨウの心は恐怖や、不安。そして痛みや苦しみばかりだった。心が壊れてしまえば、どれだけ楽だろうかと幾度も思った。けれど、フヨウは絶望しながらも、いつだって正気だった。だから、できるだけ何も感じないように、心を鈍感にしていたのだ。
 けれど、甘いお菓子の美味しさと、アラスターの優しさに触れて、フヨウの張り詰めていた気持ちが緩んでしまった。今まで我慢していたぶん、次から次へと涙は流れてくる。

 「フヨウ……」

 アラスターがフヨウを抱き上げた。
 幼い子をあやすように、大きな手が背中を撫で摩る。
 母親に捨てられたとわかった時ですら、声を押し殺して泣いていたフヨウが、とうとう声をあげて泣き出してしまった。
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