暁の草原

Lesewolf

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第一環「春虹の便り」

1-5 それは、微睡みの中に眠る

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 宿屋の女将が玄関を開け、ウロウロと落ち着かない。彼女の様子が大旦那の平常心を奪っていった。
 雨も風も、先ほどから街を容赦なく殴りつけていく。

「ごめんなさい、お店が濡れてしまうのに」
「それは構わない。少し座って休んだらどうだ」
「うん、そうね」

 女将が入り口近くのテーブル席に座った。大旦那はカウンターから出てくると、扉を締めた。
 店内は雨で多少濡れたものの、営業に問題はなさそうだ。

「この雨風じゃ、復興作業も中止だろうな。早めに引き上げてきて、明日早くに作業を開始することに成るだろう。夜の仕込み、そろそろしないとな」
「たぶんこの雨は、そうなのよね」
「どうだろうな。あくまで迷信でしかない」
「………………卵、どうしようかしら」
「忘れてた。……他のもので、代用しよう。魚か肉を多めにして。きっと皆雨に濡れただろう、スープでも作って」
「あら? 明るく……? え、晴れてきた?」
「ん? 本当だ、雲がもう流れていって居るな」

 大旦那が玄関を開けると、既に空は明るくなっており、合間から光が差していた。
 ある程度の雲はまだ空にあり続けてはいるが、急ぎ足でセシュール山脈に飲まれていく。

 二人にしかわからない願いと共に。

「!! おい、タオル、あと湯を沸かせ!」
「どうしたの? あ!」

 グリットが少年を抱えたまま走ってくるのが見て取れた。女将が慌てて厨房に向かった。

「どうしたんだ、雨に打たれたにしては……」

 大旦那はすぐに異変に気付き、抱かれた少年を見て眼を細めた。酷いアザと、少年はひどく青白く、唇は紫に染まっている。グリットは黙り込んだまま、食堂に入ることなく入り口で立ち止まった。

「馬鹿なにやってんだ! 早く入れ!」

 大旦那は慌ててグリットを店内に押し込むと、扉を閉める前に外を睨んだ。人の気配はない。
 鍵を掛けると、グリットに向き合った。この男が息切れをしているなど、あの時以来だ。少年のように青白い顔をしており、今にも倒れそうだ。

「おい、早くタオル! いや、俺が持ってくる! 二階の空き部屋に連れて行け!」

 グリットは無言のまま、少年を抱きかかえて、立ち尽くしている。震えている。

「大丈夫だ! 早く連れていって、寝かせてやれ。しっかりしろ!」
「すまん」

 その謝罪は誰向けられたのか、どんな感情で、どんな意味があったのか、大旦那に考える余裕は無くなっていた。
 グリットは少年を二階へ連れて行った。ギシギシとなる階段の嘆きは、その場の誰にも届かない。
 大旦那が部屋の扉を開け、グリットがベッドに寝かせた。
 酷い傷だ。服は泥だらけであり、至る所は破かれるか、切り刻まれている。

「お前、怪我は? いや先に体を拭け。俺が見てるから、着替えてこい。風呂は…………」
「俺は、いい。……女将に、頼んで、拭いてやって…………傷の具合みて、……出来れば治療を」
「医者は呼んでも良いのか」
「…………」
「おい、アル。しっかりしろ。大丈夫だ。確かに怪我は酷いようにみえるが、エーテルはしっかり視える。お前のエーテルの方が酷いぞ」
「…………悪い」

 グリットの言葉に力がこもっていない。女将が慌ててタオルと着替えを持ってやってきた。
 女将は少年の怪我を見て、絶句してしまった。すぐにグリットの頭目掛けてタオルを投げつけると、きびきびと指示を出した。

「アル、あんたせめてその濡れた髪を拭き取って。それから着替えてきなさい。余裕があるなら、出来ればお風呂にいって。風邪を引いてこの子にうつしたら、承知しないよ」
「……ああ」

 グリットが素直に自室に戻ったのを確認すると、女将が少年の傷を見つつ、服を脱がせていった。

「セシュール織のケープマント、嬉しそうに羽織っていたのに。こんな、酷い。破かれるだけじゃなく、泥だらけで」
「町内に染屋も織屋もいる。代用で満足できるかはわからないが、この子にとっては特別だったはずだ。俺から頼んでおく」
「お願いします。すぐに体だけでも拭いてあげたいの。お湯を別の桶にあけてあるから、白いガーゼと一緒に持ってきてくれない? 厨房に置いたままなの」
「わかった。 治療の知識はちゃんと学んでおくべきだったな。他にいるものはあるか?」
「…………着れそうな服を。出来れば切りたくはないのだけど、濡れてるから」
「切るも何も……。そうか、ハサミ、か」
「悩んでる場合じゃないよね」
「ああ」

 女将は少年のケープを丁寧に脱がせると、服に手をかけた。下に着ているのは、ルゼリア製の質のいい布地であったであろう。泥で変色しているが、ところどころで赤く染まっている。

「酷い…………」

 女将は服を脱がし、タオルで優しく泥をふき取った。外傷はそこまで酷くはないようだが、至るところで内出血しているようだった。少年が受けた傷は、ほとんどが打撲痕なのだろう。
 大旦那が部屋に戻ってくると、桶を床に置き、ガーゼを横のテーブルに置いた。

「悪いんだけど」
「どうした、まだ何か必要か?」

 ガタンと音がなり、グリットが部屋をのぞき込んでいる。多少は正気に戻れたようだ。

「あんたたち、出てってくれる?」
「「えっ」」


「あんたは食材の仕込み。肉はもう捌きださないと、間に合わないわ。スープにするなら、ちゃんと長時間煮込んでよ。グリットは野菜洗っておいて」
「え、俺も? いや、しかし……」
「グリットの料理が壊滅的なことくらい、わかってるわよ。野菜を洗うくらいはやりなさいよ。本当、緊急時は使えないんだから」
「え、ちょ……」
「いいから早く出て行って! 邪魔よ!」

 女将の剣幕に圧され、使えない男どもは部屋から追い出されてしまった。

「お、おい。大丈夫なんだろうな」
「だ、大丈夫なんだろう、信じるしかない。あいつの威勢は虚勢じゃない。確かに、仕込みはもう始めなければ、スープは間に合わないな。突然営業を辞めれば騒ぎになるし、晴れたって雨に打たれただろう。早く食べて休みたいさ」
「……そうだな」

 グリットは廊下から窓の外を見た。すっかり空は晴れており、月の幻影が輝いている。

「おい」

 階段を下りていたグリットに、後ろから大旦那が声をかける。大旦那の表情はかなり怪訝であり、ひどく呆れている。

「お前それ、裏返しだ」
「え」
「ばーか、お前ここで着替えるな! 階段で、おいこら、だから邪魔なんだと」

 慌てて着替え直すグリットを追い越し、大旦那は自身の両頬をひっぱたいた。
 忙しくなるぞ、と呟いて。
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