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 壁に掛けられた時計は、夜の六時をさしていた。
 もうこんな時間になるのかと窓を見ると、既に夜のとばりが下りていた。
 
「奥様……あ、いえ、アネモネ様。何か手伝いましょうか?」

 自分の荷物をいち早くまとめたジオンは、私の部屋の扉を開けて言った。
 私は鞄の蓋を閉じて、彼に顔を向ける。

「いえ、もう終わるから。外で待っていて」

「分かりました。失礼します」

 ジオンは軽く頭を下げると、部屋を出ていった。
 
 まとめてみると、思っていたよりも自分の荷物は少なかった。
 家具や服までも既に部屋に置かれていたから、実家から持ってきたのは思い出の品と、着なれたお気に入りの服くらい。

 あんまり遅くなってもライラックから何か言われると思った私は、少し雑にそれらを鞄にしまい込む。
 
「終わった」

 私は扉を開けると、近くの壁に背をつけて立っていたジオンに言った。
 彼は頷くと、「持っていきますね」と微笑んだ。

 ……家を出ると、冷たい夜の風が体を刺した。

「今夜は特に冷えますねぇ」

 執事を解雇され、家を追い出され、風までも冷たく吹いているはずなのに、ジオンの声はどこか明るかった。
 ライラックの元を離れられて、彼は本当に嬉しいのかもしれない。
 
「そうね」

 私は短く返答をすると、馬車まで足早に移動した。
 二人分の荷物を乗せても、半分の座席が余っている。
 私とジオンが隣り合ってそこに座ると、馬車は程なく発車した。

 見送りに来てくれる人は誰一人いなかった。
 しかし、私にはそれが当然のことのように思えて、安心できた。
 惨めな気持ちになるのが、私の運命だからだ。

「でも、本当に良かったのですか? 僕を執事として雇って」

 ジオンが今更になって、不安げな声を出す。
 私は頷くと、口を開いた。

「ええ。あなたの能力は家の助けになるだろうし、私のせいで解雇になったのだから……見捨てることなんてできないわ」

「ありがとうございます。アネモネ様」

 ジオンが私に感謝の言葉を述べた瞬間、心がズキリと痛んだ。
 見捨てることが出来ないなんて、どの口が言っているのだろう。
 
「感謝されるような人間じゃないわ」

 考えるよりも先に、その言葉が飛び出した。
 ジオンは虚を突かれたように困惑したが、すぐに苦笑を浮かべる。

「いや、アネモネ様がいなかったら、僕は路頭に迷っておりました。アネモネ様はお優しいです。神様みたいに」

「あなたは知らないのよ……だからそんなことが言えるのよ」

 一体私はどうしてしまったのだろう。
 ライラックとの離婚で、想像よりも心に負荷がかかってしまったのだろうか。
 だからこんなにも、悲しくなるのだろうか。

「僕は知っていますよ。あなたの優しさを」

 ジオンの言葉が脳裏で反響し、息が苦しくなる。
 胸を右手で押さえると、呼吸を整える。
 ジオンが心配したように私に手を伸ばすも、私は左手でそれを払いのけた。

「私は優しくなんてない……! 私は……私は……」

「アネモネ様?」

「やめて……その名で呼ばないで……」
 
 もう限界だった。
 封印していた記憶が解き放たれたように、あの日の光景が脳裏に蘇った。
 
「いやぁぁ!!!!」

「アネモネ様!!!」

 ジオンに肩を掴まれる。
 だが、その感覚がすぐに遠くなる。
 視界が薄くなり、音が完全に消えた。
 しかし脳内では、轟轟と炎が燃えている。

「許して……」

 消えるような声で私はそう言うと、意識を失った。
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