34 / 56
第2章 永遠の夏
◆写真の中の海
しおりを挟む
潮の香りがする。空は晴れていた。初夏のような、爽やかな天気だった。波は穏やかで、さーっと浜を濡らして、やさしく引いてを繰り返す。彼は砂の中に空のペットボトルが落ちているのを見つけ拾おうとしたが、やめた。ここはあの男が撮った写真の中の世界だ。むやみに変えないほうがいいだろう。
彼はぎりぎり波の届かないところに腰を下ろした。靴は履いていなかった。家の中から来たためだ。
ああ、ここはあの日、彼が母親と行った海のある町の海岸で間違いない。付近には見覚えのある民家や係留された船がある。母親と訪ねた瓦屋根の家も見えた。あのときは慌ただしくて海をもっと近くで見たいなどとは言い出せなかったが、思わぬかたちで夢が叶った。写真の中とはいえ、男が切り取った風景はリアルで、彼が想像だけでつくりだした海よりも雄大だった。狭苦しいアパートなどに戻らず、いくらでもここにいたい。理想の空間だった。
むきだしの足に砂の感触が気持ちいい。
石ころや割れた貝殻ですら、本物らしくて尊いものに見えた。
しばらく時間を忘れ、波音と潮風に身をゆだねた。
このところ心が不安定だったせいか頭痛に悩まされていたが、こうしていると波が痛みをさらっていってくれるようだ。
どのくらい時間が経ったかはわからない。
「まさか、こんなに早く再会できるとは」
ふいに声がして、彼は振り返る。
昨日公園で会った男だった。今回は帽子をかぶっておらず、手ぶらだった。
立ち上がりかけた彼のとなりに、男は腰を下ろした。男も裸足だった。
「予想はしていたけれど、やっぱり、君も不自由なく行き来できるんだね。それにしてもここで君に会えるとは、奇妙な感覚だよ」
それは彼も同じだった。
「それで、ここへ来たということは、返事を聞かせてくれるということかな?」
緊張をほぐそうと、彼は手で砂をすくってさらさらと流した。
それから彼は答えた。
あなたの力を借りることは、母親を裏切ることになる。彼女はあなたを許すことはないだろう。だから、三人一緒にうまくやれるとはとても思えない。けれど彼女をひとりにするわけにはいかない。自分がいなくなれば、きっと本当に壊れてしまうだろう。
「……なるほど。意志は固いようだな」
男はほうっとため息をついた。
「今さら手を差し伸べたからといって、うまくいくとは思っていなかったよ」
ふたりはしばらく黙ったまま寄せては返す波を眺めた。
やがて男は、あきらめたように言った。
「わかった。君のことも、君のお母さんのことも、僕は助けないし口を挟まない。だけど、ときどきここで会うのはどうかな。いや、会わなくてもいい。君がこの写真をずっと持っていてほしいんだ。生命線というには頼りないかもしれないが、もしものときの緊急連絡先だと思ってくれればいい。それくらいなら構わないだろう?」
彼はうなずいた。正直なところ、彼はこの場所が好きだった。
男はほっとしたように微笑した。
そして胸ポケットから写真を一枚取り出し、彼に渡す。公園見せてもらった彼の母親と思しき女性の写真だった。
「あげるよ、今日の記念に。僕はほかにも持っているから」
彼は少しためらったが受け取ることにした。この男なりの気遣いなのだろう。
「時間だ」と男は言う。男の像がゆらゆらと揺らぎだした。男がこの空間にいられる時間にはリミットがあるらしかった。
「すごいな君は。いったいいつからここにいたんだ?」
彼がぽかんとしていると、男は「またいつか会おう」と言い残し、スーッと消えていった。
あの男は本当に幻だったのではないかと、彼は思った。
彼はぎりぎり波の届かないところに腰を下ろした。靴は履いていなかった。家の中から来たためだ。
ああ、ここはあの日、彼が母親と行った海のある町の海岸で間違いない。付近には見覚えのある民家や係留された船がある。母親と訪ねた瓦屋根の家も見えた。あのときは慌ただしくて海をもっと近くで見たいなどとは言い出せなかったが、思わぬかたちで夢が叶った。写真の中とはいえ、男が切り取った風景はリアルで、彼が想像だけでつくりだした海よりも雄大だった。狭苦しいアパートなどに戻らず、いくらでもここにいたい。理想の空間だった。
むきだしの足に砂の感触が気持ちいい。
石ころや割れた貝殻ですら、本物らしくて尊いものに見えた。
しばらく時間を忘れ、波音と潮風に身をゆだねた。
このところ心が不安定だったせいか頭痛に悩まされていたが、こうしていると波が痛みをさらっていってくれるようだ。
どのくらい時間が経ったかはわからない。
「まさか、こんなに早く再会できるとは」
ふいに声がして、彼は振り返る。
昨日公園で会った男だった。今回は帽子をかぶっておらず、手ぶらだった。
立ち上がりかけた彼のとなりに、男は腰を下ろした。男も裸足だった。
「予想はしていたけれど、やっぱり、君も不自由なく行き来できるんだね。それにしてもここで君に会えるとは、奇妙な感覚だよ」
それは彼も同じだった。
「それで、ここへ来たということは、返事を聞かせてくれるということかな?」
緊張をほぐそうと、彼は手で砂をすくってさらさらと流した。
それから彼は答えた。
あなたの力を借りることは、母親を裏切ることになる。彼女はあなたを許すことはないだろう。だから、三人一緒にうまくやれるとはとても思えない。けれど彼女をひとりにするわけにはいかない。自分がいなくなれば、きっと本当に壊れてしまうだろう。
「……なるほど。意志は固いようだな」
男はほうっとため息をついた。
「今さら手を差し伸べたからといって、うまくいくとは思っていなかったよ」
ふたりはしばらく黙ったまま寄せては返す波を眺めた。
やがて男は、あきらめたように言った。
「わかった。君のことも、君のお母さんのことも、僕は助けないし口を挟まない。だけど、ときどきここで会うのはどうかな。いや、会わなくてもいい。君がこの写真をずっと持っていてほしいんだ。生命線というには頼りないかもしれないが、もしものときの緊急連絡先だと思ってくれればいい。それくらいなら構わないだろう?」
彼はうなずいた。正直なところ、彼はこの場所が好きだった。
男はほっとしたように微笑した。
そして胸ポケットから写真を一枚取り出し、彼に渡す。公園見せてもらった彼の母親と思しき女性の写真だった。
「あげるよ、今日の記念に。僕はほかにも持っているから」
彼は少しためらったが受け取ることにした。この男なりの気遣いなのだろう。
「時間だ」と男は言う。男の像がゆらゆらと揺らぎだした。男がこの空間にいられる時間にはリミットがあるらしかった。
「すごいな君は。いったいいつからここにいたんだ?」
彼がぽかんとしていると、男は「またいつか会おう」と言い残し、スーッと消えていった。
あの男は本当に幻だったのではないかと、彼は思った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
痩せたがりの姫言(ひめごと)
エフ=宝泉薫
青春
ヒロインは痩せ姫。
姫自身、あるいは周囲の人たちが密かな本音をつぶやきます。
だから「姫言」と書いてひめごと。
別サイト(カクヨム)で書いている「隠し部屋のシルフィーたち」もテイストが似ているので、混ぜることにしました。
語り手も、語られる対象も、作品ごとに異なります。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
ベスティエンⅢ
熒閂
キャラ文芸
美少女と強面との美女と野獣っぽい青春恋愛物語。
ちょっとのんびりしている少女・禮のカレシは、モンスターと恐れられる屈強な強面。
禮は、カレシを追いかけて地元で恐れられる最悪の不良校に入学するも、そこは女子生徒数はわずか1%という環境で……。
強面カレシに溺愛されながら、たまにシリアスたまにコメディな学園生活を過ごす。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる