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第2章 永遠の夏
◆写真の中の海
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潮の香りがする。空は晴れていた。初夏のような、爽やかな天気だった。波は穏やかで、さーっと浜を濡らして、やさしく引いてを繰り返す。彼は砂の中に空のペットボトルが落ちているのを見つけ拾おうとしたが、やめた。ここはあの男が撮った写真の中の世界だ。むやみに変えないほうがいいだろう。
彼はぎりぎり波の届かないところに腰を下ろした。靴は履いていなかった。家の中から来たためだ。
ああ、ここはあの日、彼が母親と行った海のある町の海岸で間違いない。付近には見覚えのある民家や係留された船がある。母親と訪ねた瓦屋根の家も見えた。あのときは慌ただしくて海をもっと近くで見たいなどとは言い出せなかったが、思わぬかたちで夢が叶った。写真の中とはいえ、男が切り取った風景はリアルで、彼が想像だけでつくりだした海よりも雄大だった。狭苦しいアパートなどに戻らず、いくらでもここにいたい。理想の空間だった。
むきだしの足に砂の感触が気持ちいい。
石ころや割れた貝殻ですら、本物らしくて尊いものに見えた。
しばらく時間を忘れ、波音と潮風に身をゆだねた。
このところ心が不安定だったせいか頭痛に悩まされていたが、こうしていると波が痛みをさらっていってくれるようだ。
どのくらい時間が経ったかはわからない。
「まさか、こんなに早く再会できるとは」
ふいに声がして、彼は振り返る。
昨日公園で会った男だった。今回は帽子をかぶっておらず、手ぶらだった。
立ち上がりかけた彼のとなりに、男は腰を下ろした。男も裸足だった。
「予想はしていたけれど、やっぱり、君も不自由なく行き来できるんだね。それにしてもここで君に会えるとは、奇妙な感覚だよ」
それは彼も同じだった。
「それで、ここへ来たということは、返事を聞かせてくれるということかな?」
緊張をほぐそうと、彼は手で砂をすくってさらさらと流した。
それから彼は答えた。
あなたの力を借りることは、母親を裏切ることになる。彼女はあなたを許すことはないだろう。だから、三人一緒にうまくやれるとはとても思えない。けれど彼女をひとりにするわけにはいかない。自分がいなくなれば、きっと本当に壊れてしまうだろう。
「……なるほど。意志は固いようだな」
男はほうっとため息をついた。
「今さら手を差し伸べたからといって、うまくいくとは思っていなかったよ」
ふたりはしばらく黙ったまま寄せては返す波を眺めた。
やがて男は、あきらめたように言った。
「わかった。君のことも、君のお母さんのことも、僕は助けないし口を挟まない。だけど、ときどきここで会うのはどうかな。いや、会わなくてもいい。君がこの写真をずっと持っていてほしいんだ。生命線というには頼りないかもしれないが、もしものときの緊急連絡先だと思ってくれればいい。それくらいなら構わないだろう?」
彼はうなずいた。正直なところ、彼はこの場所が好きだった。
男はほっとしたように微笑した。
そして胸ポケットから写真を一枚取り出し、彼に渡す。公園見せてもらった彼の母親と思しき女性の写真だった。
「あげるよ、今日の記念に。僕はほかにも持っているから」
彼は少しためらったが受け取ることにした。この男なりの気遣いなのだろう。
「時間だ」と男は言う。男の像がゆらゆらと揺らぎだした。男がこの空間にいられる時間にはリミットがあるらしかった。
「すごいな君は。いったいいつからここにいたんだ?」
彼がぽかんとしていると、男は「またいつか会おう」と言い残し、スーッと消えていった。
あの男は本当に幻だったのではないかと、彼は思った。
彼はぎりぎり波の届かないところに腰を下ろした。靴は履いていなかった。家の中から来たためだ。
ああ、ここはあの日、彼が母親と行った海のある町の海岸で間違いない。付近には見覚えのある民家や係留された船がある。母親と訪ねた瓦屋根の家も見えた。あのときは慌ただしくて海をもっと近くで見たいなどとは言い出せなかったが、思わぬかたちで夢が叶った。写真の中とはいえ、男が切り取った風景はリアルで、彼が想像だけでつくりだした海よりも雄大だった。狭苦しいアパートなどに戻らず、いくらでもここにいたい。理想の空間だった。
むきだしの足に砂の感触が気持ちいい。
石ころや割れた貝殻ですら、本物らしくて尊いものに見えた。
しばらく時間を忘れ、波音と潮風に身をゆだねた。
このところ心が不安定だったせいか頭痛に悩まされていたが、こうしていると波が痛みをさらっていってくれるようだ。
どのくらい時間が経ったかはわからない。
「まさか、こんなに早く再会できるとは」
ふいに声がして、彼は振り返る。
昨日公園で会った男だった。今回は帽子をかぶっておらず、手ぶらだった。
立ち上がりかけた彼のとなりに、男は腰を下ろした。男も裸足だった。
「予想はしていたけれど、やっぱり、君も不自由なく行き来できるんだね。それにしてもここで君に会えるとは、奇妙な感覚だよ」
それは彼も同じだった。
「それで、ここへ来たということは、返事を聞かせてくれるということかな?」
緊張をほぐそうと、彼は手で砂をすくってさらさらと流した。
それから彼は答えた。
あなたの力を借りることは、母親を裏切ることになる。彼女はあなたを許すことはないだろう。だから、三人一緒にうまくやれるとはとても思えない。けれど彼女をひとりにするわけにはいかない。自分がいなくなれば、きっと本当に壊れてしまうだろう。
「……なるほど。意志は固いようだな」
男はほうっとため息をついた。
「今さら手を差し伸べたからといって、うまくいくとは思っていなかったよ」
ふたりはしばらく黙ったまま寄せては返す波を眺めた。
やがて男は、あきらめたように言った。
「わかった。君のことも、君のお母さんのことも、僕は助けないし口を挟まない。だけど、ときどきここで会うのはどうかな。いや、会わなくてもいい。君がこの写真をずっと持っていてほしいんだ。生命線というには頼りないかもしれないが、もしものときの緊急連絡先だと思ってくれればいい。それくらいなら構わないだろう?」
彼はうなずいた。正直なところ、彼はこの場所が好きだった。
男はほっとしたように微笑した。
そして胸ポケットから写真を一枚取り出し、彼に渡す。公園見せてもらった彼の母親と思しき女性の写真だった。
「あげるよ、今日の記念に。僕はほかにも持っているから」
彼は少しためらったが受け取ることにした。この男なりの気遣いなのだろう。
「時間だ」と男は言う。男の像がゆらゆらと揺らぎだした。男がこの空間にいられる時間にはリミットがあるらしかった。
「すごいな君は。いったいいつからここにいたんだ?」
彼がぽかんとしていると、男は「またいつか会おう」と言い残し、スーッと消えていった。
あの男は本当に幻だったのではないかと、彼は思った。
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