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第一章・塔の賢者たち
第七話『揺光の塔・ティア』
しおりを挟む「デュラ、いないようなのですが」
「あー、ここは通称を『居留守の塔』なんていわれててな。まぁ本当に居留守のときもないわけじゃないだろうが……年間の九十九パーセントはティア姉、塔にはいないんだわ」
「そんな‼ では普段は、どこに?」
「大陸中を旅して回ってんぜ。現に天璇の塔を出る前、天璣の塔にいただろ」
揺光の塔の一階玄関前、クラリスが魔導呼び出しベルを鳴らすもなしのつぶて。それどころかこの玄関扉はもう長いこと開け放たれたことがないかのように、その隙間には砂塵が詰まっている。
「確かに、お声を拝聴しましたけれど……それじゃ、どうやって探せば⁉」
そしてクラリスは、母なる皇帝・ディオーレの言葉を思い出した。
『いずれも人外の神力を持つ賢者たちが住まう塔ぞ。簡単に行けない場所に塔があることもあれば、行くは易しくても入るのが困難な塔、容易に入れるが賢者に逢うまでが困難な塔、すぐに逢えるが帰るのが命がけの塔……』
(すぐに会えないから帰るしかない塔なんて聞いてない!)
容易に入れるが賢者に逢うまでが困難な塔がそれに近いかなと思うものの、不在なのでたとえ容易であっても入ってしまったら不法侵入だ。
途方にくれるクラリスと、安堵の表情を見せるデュラ。両者の反応は実に対照的で。
(ティア師のあの話を聞いた以上は、ぜひとも人間に対する偏見を解いておきたい)
だが、そのティアが不在なのだ。探すにしても、この広大な大陸のどこにいるのかわからない。
「ま、しばし待ってようぜ」
「……どのくらい、でしょうか」
「さぁな」
二人はとりあえずは塔を少し離れ、もう一度振り向いて。
「どうしましょうか」
「どうしようもないだろ」
(ティア姉が不在なのは幸いだったな)
だがデュラが安堵できたのは一瞬だけだった。自身も超音波を発することができるだけあって、デュラの耳は多くの生けとし生ける者が捉えることができない不可聴領域を聴き取れる。
(羽音……?)
チラと空を見上げるが、そこには雲がのんびりと漂っているだけだ。だがそれでも、デュラはそれが幻聴でないことを確信していた。
(そういやターニーが連絡するって言ってたもんなぁ)
デュラは、諦めたように嘆息した。そしてほどなくして聴こえてくる羽音は大きくなり、蒼天の空に小さな点が見えてくる。
それがやがて大きくなって最初は蝶々に見えたそれも、人間であるクラリスの目にも視認できる……緋色の羽で天高く舞う妖精の姿。
(妖精ってことは‼)
クラリスの表情が、俄に活気づく。
「なにか近づいてるなと思ったら、やっぱティア姉だったか」
デュラはそう独り言つと蝙蝠形態に姿を変えて、クラリスの肩に飛び乗る。
「私には、なんの気配も予兆も感じ取れなかったのですが……」
『私だからわかっただけだ、気にすんな』
二人がそんな会話をかわしている目の前で、軽やかに着陸したその妖精――ティアその人である。
肩にちょうど付くぐらいの長さの、ゆるくウェーブのかかったマゼンタブロンド。シンプルな白い一枚羽の髪飾り。
十代半ばにも達していなさそうな童顔に、宝石のロードナイトを彷彿とさせる緋色の瞳。背中には、蝶々のような形の赤味がかかった半透明の羽。
身長は一五〇センチくらいだろうか、腰回りに装着されている革製のコルセットベルトのおかげか胸が嘘くさい盛り上がりを見せていた。
「ティア師でしょうか⁉」
クラリスは駆け寄って、開口一番にティアに語りかける。だがクラリスを視認したティアの目は、笑ってなくて。
(そういや、大の人間嫌いなんだった‼)
と思い出して恐る恐る顔色を窺うクラリスに、
「ティア師とかやめて? ティアでいい」
そうぶっきらぼうにティアが言い捨てる。
「あ、はい」
「で、誰?」
(え?)
これまでの六賢者の誰とも違う反応に、クラリスは戸惑いを隠せない。
「あ、失礼しました! 私、クラリス・カリスト。この帝国の皇太子です‼」
「証拠はあるの?」
とりあえず自身の名と身分を明かしてみたが、ティアは相変わらず懐疑的な視線を投げかけてくるばかりだった。そしてそのティアが、チラとクラリスの肩に留まっている蝙蝠……デュラに視線をやったのと同時に――。
『静まれーっ‼ こちらにおわすお方をどなたと心得る?』
なんとも芝居じみた台詞で、デュラが念話を飛ばした。だがティアは動じることなく苦笑いを見せて。
「あ、うん。クラリスちゃんだよね。久しぶり、デュラ」
ティアのその発言を受け、黒い瘴気をまき散らしながらデュラが人間形態に戻る。
「ティア姉、元気してた?」
「まぁね。元気かどうかは見てのとおりだよ」
そう言いながらティアが、ファサッと指で髪を掻きあげる仕草を見せた。もともとは薄い赤みがかった白金ブロンドだったのが、ティア自身の魔力過多によりその霊体が疲弊してくると赤みが強くなっていくのだ。
今その髪は、鮮やかなマゼンダブロンドに姿を変えている。つまりそれは、ティア自身の寿命がすぐそこまで迫ってきていることを示していた。
「あー、マジか。間に合って良かったわ」
「この鬼畜がっ‼」
だが仲間のそんな悲壮な境遇を軽口でいなすデュラ。ティアもまた普段からそういう関係なのだろうか、間髪をいれずツッコむ。
二人はしばし、旧交をあたためるがごとく和やかに立ち話だ。クラリスは一人ぽつーんと、その状況を眺めるしかできなかったのだけど。
「あ、あのぅ?」
だけどこの塔に来たのはクラリスの用事である。いつまでもそうしてはいられないので、おそるおそる会話に入るタイミングをうかがう。
「……」
邪魔しないでよとばかりに、ジロリとティアがクラリスに振り向いた。それを見て、やれやれとばかりにデュラがため息をもらして。
だがティアもまたクラリスをいつまでも無視していられないことはわかっているので、こちらも諦めたようにため息をつく。
「とりあえずお茶淹れるからさ、デュラもクラリスちゃんも上がってってよ」
そして揺光の塔の扉が開かれた。
塔の最上階へ、ティアに先導されて案内を受けるクラリスとデュラ。そして到着して、目の前に広がるティアの居室は一年近く留守にしていたらしく。
そしてまたなぜか窓が開きっぱなしだったのもあって、廃墟とまではいかないまでも埃っぽい。
「きったねーな」
「うぅ、窓を閉め忘れてた……」
そんな二人の会話を耳にして、クラリスはギュッと拳を握りしめた。
「では僭越ながら、私めがお掃除させていただきます。『天塵浄化』!」
クラリスのその魔法で、ティアの居室はまたたく間に『普段の状態』を取り戻していく。まるで昨日まで、ちゃんと人が住んでいたかのごとく。
「浄化魔法、私も使える……」
「知ってるけどさ、ティア姉。まずはお礼を最初に言おうぜ?」
デュラのその言葉に、とんでもないとばかりに手と首を振るクラリス。余計なことをしてしまったのかと思うと、先走った自分が恥ずかしくて。
だがデュラのその発言を受けて、ティアはもっともだとばかりにうなずいた。
「ありがとうね」
「いえ、とんでもないです!」
そしてソファに二人を座らせて、ティアはお茶の用意だ。その間、ティアもデュラも言葉を発さないのでクラリスはなんともいえない居心地の悪さを感じていた。
「どうぞ、クソ茶ですけど」
「粗茶でいいだろ、変な文字入れんな」
ボケなのかなんなのか、お茶を出してくれるティアにデュラがツッコむ。二人の関係性が不明なので、クラリスにはティアが不機嫌であるようにしか見えなかった。
そして三人、無言のティータイムが始まる。ティアもデュラもなんら言葉を発さず、その二人をチラチラとティーカップに口をつけてチビチビと飲みながらクラリスが様子をうかがうことしかできない。
「クラリスちゃん」
「はっ、はいぃ‼」
不意にティアが口を開き、それがあまりにも突然なタイミングだったのでクラリスはびっくり仰天。思わず立ち上がってしまう。
(クラリス『ちゃん』て……)
皇女として生まれ育ったクラリスにとって、『ちゃん』付けは慣れないというか記憶にない。少し照れくさくて、それをごまかすかのように再び腰を下ろして。
だがそんなクラリスに対し、ティアはさほどの興味も持たなかったようだ。
「なにしに来たの?」
(え?)
まさかのティアのその発言に、クラリスは凍りつく。最初に訪れた天璇の塔・デュラには説明の手間があったけれども、以降はデュラがあらかじめ連絡を入れてくれてたから要件を伝えるというプロセスを省略できたからだ。
(ティアさんには話が通っていない?)
チラとデュラを見るが、我関せずとばかりにティーカップを口につけているデュラである。だがこのまま膠着状態にするわけにはいかず、しかたなくデュラが助け舟をだした。
「自分の口で説明しろってことだよ」
「あ……‼」
(デュラは付き添いで来てくれただけだから、私が言わないとだよね!)
合点がいったとばかりに、両手をポンと叩くクラリス。母なる皇帝ディオーレから使命がくだったこと、保留されているデュラを除けばティア以外の賢者たちの試練を乗り越えてきたことを簡素ながら一気に明かした。
「ふーん」
だがティアの反応は、どこまでも冷淡だ。まるでクラリスには、なんの興味もないかのように。
そしてティーカップを置いて、ティアが再び口を開く。
「クラリスちゃんは、私のことをどこまで知ってる?」
「えっと……」
その質問の真意がわからなくて、クラリスは面食らった。
(ソラさん、アルテさん、イチマルさん、ターニーさん。そしてデュラと、彼女たちが語るティアさん像はどれも共通している。だけど、『ポンコツ』なんて言ったら絶対殺される!)
いくらなんでも、初対面の相手をポンコツ呼ばわりはないだろう。しかも人智を越えた六賢者の一人で、その存在の前では帝国皇太子という身分はなんの役にも立たない。
「あ……」
不意にクラリスは、ターニーやデュラから聞いた別の言葉を思い出した。
「ん?」
「えっと、『最弱にして最強の妖精』っていう……」
それを言ってるのはターニーいわくデュラだけとのことだが、そのデュラが隣にいるのだからなんとかなるとクラリスは画策する――。
「私、そう呼ばれるの嫌いなの」
だがあえなく撃沈してしまい、さらに気まずくなって。無言でチラとデュラを見やり助けを求めるも、デュラは吹き出したくてたまらないのをこらえていた。
(デュ、デュラぁ⁉)
「ほかには?」
「ほかに?」
進退窮まったとばかりに狼狽しているクラリスに、ティアがさらに畳みかける。先ほどよりまして不機嫌そうで、クラリスは冷や汗が止まらなかった。
(まさか、『あのこと』なんだろうか)
これはこれで、『ポンコツ』よりも言いにくい。だがクラリスは意を決して口を開いた。
「すごく言いにくいのですが……ティアさんには、もう時間が残されていない……という」
「ふむ。やっぱ聞いてるわけね。その先は?」
「その先?」
怒られなかったのは幸いながら、さらに促された『その先』をクラリスは知らない。
(もしかして私が憶えてないだけ⁉)
必死に記憶をたどるも、やはり『その先』には心当たりがなくてクラリスは途方に暮れた。
「ティア姉、私からいいか?」
そのとき、助け舟とばかりにデュラが口をはさむ。
「なに、デュラ」
「『それ』はクラリスには誰も教えてないんだ」
(それ、ってどれだろ。なに?)
首をかしげるクラリスとは対照的に、ティアは安堵のため息だ。
「そか、助かった。じゃあ私からの試練、予定どおりのものを課せられそう」
「やっぱそのつもりだったか、ティア姉。そうじゃないかな?って皆で言ってたんだよな」
(なんのことだろう?)
とりあえずは最後の試練、無事に課してもらえそうでクラリスは安堵するも……。
「なんだ、見透かされてんね?」
そう言って笑うティアを見て、クラリスは気づく。
(あ、ティアさんが笑った)
揺光の塔にきて初めて、ティアの笑顔を見たクラリスである。
「そういやデュラ」
「うん?」
「クラリスちゃんて、『かの少女』のことは知ってるの?」
ティアのクラリスを無視したデュラとの会話はなおも続くのだが、どうもティアとの会話は上手く回らないのもあってクラリスは正直なところホッとしていた。
だがティアが発した『かの少女』という言葉に、ティーカップを持った手がピタリと止まる。
(かの少女……誰のことだろう? 私の夢に出てきた、黄色い衣装の子のことだろうか)
そんなクラリスを横目でチラと見やるデュラだが、そこは様子見を決め込むようだ。
「三色あるけど、どいつだ?」
「黒のほう」
「あぁ、それに関してはまだ教えてねーや」
(三色って、黄色以外の子もいるということ?)
黄色の魔法少女・ララァ――クラリスの夢にたびたび登場し、そして実際に姿を見せた謎の存在。そしてメラクの立ち食い蕎麦屋で見かけた、水色の魔法少女……彼女たちのことだろうとは思いつつも、『黒い魔法少女』には心当たりのないクラリスである。
「クラリスちゃんには、話すの?」
「いつまでも黙ってるわけにもいくまい? そして私が保留にしているクラリスへの試練、そいつ絡みにしようと思ってる」
これまで保留されていたデュラからの試練という言葉で俄に気分が高揚するクラリスだったが、それでも『黒の魔法少女』のほうがなぜか気にかかった。
(どうせ、今訊いたって教えてくれないんだろうな)
「ふーん。ヘビーなやつぶつけるのね。まぁいいや」
クラリスのそんな心の揺れをさほど気にするそぶりも見せず、そう言いながらティアが机上に取り出したのは一冊の書物。
「これ、クラリスちゃんの住むお城から拝借してきたんだけど」
「はい」
「待て、ティア姉。クラリスも」
クラリスが書物を手に取ろうとしたら、デュラからストップがかかった。
「『拝借』つーたな?」
「言ったね?」
「貸してくださいつーて借りたのか?」
そう言いながら、デュラがジト目でティアを見つめる。ティアは少し気まずそうに、そっぽを向いて口笛を吹いていた。
「おい、ティア姉」
「いや、禁書庫に置いてあって面白そうだったから。てへ」
要するに、盗ってきたわけである。ちなみにデューべ市国にある皇城の禁書庫には、皇太子であるクラリスでさえ入室は制限されているのだ。
(ええと⁉)
禁書庫というだけあってその周囲は、二十四時間絶えず休みなく多数の衛兵が目を光らせていてアリの子一匹すら入れない。
(どうやって入ったんだろう?)
だがそれが可能なのが、人智を越えた賢者という存在なのだろうとクラリスは納得する。
「禁書ねぇ……まぁいいや、続けろ」
「ん。で、クラリスちゃん。私からの試練の前に、宿題があるのね」
「宿題、ですか」
不意に、天璣の塔におけるソラからの試練をクラリスは思い出した。結果的にそれが試練だとしてもらえたもののそれは後付けで、塔の前に用意された重湯は塔に入るための宿題のようなものだったのを。
(うーん、やっぱ一筋縄ではいかない『試練』が与えられそうな予感だな)
それを思い、クラリスは心の底から戦慄した。そんなクラリスの心情を知ってか知らずか、ティアはニコッと笑みをたたえてみせて。
「この文書に記録されている『お城を去った人たち』の、『お城を去った理由』を調べること。それが宿題ね」
「お城を去った理由、ですか」
(それを調べてどうしようというのだろう?)
皇城には毎年のように、新たに働き始める者と退職していく者がいる。その規模を考えると、それはどちらも数百数千人単位だ。
「もちろん、結構な人数になっちゃうけれど。この宿題のキモは『知ること』だから、手段は問わない。皇女の権力を使って調べてもいいし、そこはご自由に。ただし、お城のお母様にばれないように口留めは忘れないでね」
「かしこまりました」
(『宿題』ですらこれなのだから、本番は……)
先を考えると気鬱なクラリスだったが、下手に表情に出してティアの不興を買うわけにもいかない。それが表情に出ないように苦心惨憺しながらも、手渡されたそれのページをめくるのだけど。
(あれ?)
記載されている退職の理由はさまざまだ。それは定年退職だったり、家庭の事情だったり。
(墨塗りされてる……?)
だがチラホラと、退職理由だけが墨塗りされている退職者たちがその書物には存在していた。
(いったいなにが書かれていたのだろう)
ふと、アルテの試練とターニーの試練を思い出したクラリスである。それは次期皇帝として知っておかなければいけなくて、と同時に先日誕生日を迎え若干十八歳になったばかりの小娘である自分には背負いきれない真実のこと。
(これもまた、知っておかなければいけないのだろう……)
だがクラリスには、イヤな予感ばかりが募る。絶対的な存在である帝国の平和にも、光の部分があれば影の部分もあるからだ。
「そういうわけでクラリスちゃん、一人でやってね? デュラは、一緒に呑みに行こうか?」
「いいね」
ティアはそう言うやいなや、窓を開け放ち妖精の羽をパタパタと飛んで行ってしまった。そしてデュラも、蝙蝠の羽を翻して後に続く。
「いや、あの⁉」
その迅速な行動力に、クラリスは虚を衝かれた心地だ。呆然と、遠くの空に小さくなっていく二つの点を見つめることしかできなくて。
(一人ぼっちにさせられてしまった……。どうでもいいけど、空を飛べるっていいなぁ)
流れるような展開についていけなくて、思わず現実逃避に走るクラリスである。
「にしても、帝都の真反対のベネトナシュでどう調べれば?」
皇城のある帝都は大陸の最西端に、そして五つの国を挟んでここベネトナシュ王国は大陸の最東端にある。これは帝都に立ち返らないと調べられないのではないだろうかとクラリスは気も重い。
とはいえど、ここベネトナシュ王国も帝国を構成する一国だ。共有している歴史にまつわる書物などがあるかもしれないことにクラリスは思いを馳せた。
「ベネトナシュの王城にも、禁書庫があるかも? そして複写が保管されているかもしれない」
だが禁書庫とは文字どおり禁書庫だ。住まいである皇城の禁書庫にも入れてもらえないのに、帝国の属国とはいえ自分が入れてもらえる可能性があるだろうかとクラリスは懸念する。
(うーん……皇城の禁書庫にも入れてもらえないのに、皇女だからってベネトナシュの禁書庫も入れてもらえない気がするな⁉)
だがここでうだうだと考え込んでいてもしかたがないので、クラリスは両手で頬をパンパンと叩いて気合を自身に注入。
(ティアさんは『手段は問わない』って言ってたから、ティアさんのように『無断拝借』も考えるべきだろうか)
そしてなにげなくページをめくってみて、クラリスは『あること』に気づいた。
「これは……」
墨塗りされているのは、母ディオーレがクラリスを妊娠して以降の日付であることに。
(お城から去った人たちの理由に、私が関係している?)
照明に透かしてみると、うっすらと文字が見える。だけど読めるかっていうとそれは微妙で。
「結構雑に塗ってあるし、インクも特殊なものじゃないみたい」
(だったら、浄化魔法で消せる?)
幸いにして、クラリスにはその手段としての魔法が使える。それは悪魔の囁きにも等しい誘惑だったが、クラリスは首をぶんぶんと振ってそれをかき消した。
「いやいやいや、なんかそれ違う」
そうしたところで、ティアはそれでも是としてくれるかもしれない。だがこんな、インチキするみたいな手段で楽をするのは違うと。
(さて、どうするかな)
ソラからの試練は、街を歩いてて偶然とっかかりを見つけた経緯がある。
(だからってわけじゃないけど、とりあえず出てみようか。外へ、街へ)
クラリスは、決意を新たに立ち上がった。
とりあえず皇女として、ベネトナシュの王城はもちろんのこと禁書庫に忍び込むというのは最終手段だとクラリスは自戒する。もしそれが露見したら、成功しても失敗しても皇太子としては大醜聞になってしまうからだ。
(次期皇帝の座は、簡単に剥奪されるだろうな)
もとより皇帝の座は、血縁による世襲制ではない。現皇帝であるディオーレも次期皇帝として一番ふさわしいからと先帝の養女として迎えられた経緯があり、その出自はフェクダ王国の王女だった。
皇太子という地位の剥奪ならまだいいほうで最悪、皇女としての地位も廃嫡に追い込まれるだろう。あの母ならきっとそうすると、クラリスは確信している。
「となると、最終手段じゃなくて絶対にしちゃダメですね……」
(デュラのように蝙蝠に変身できたらなぁ。っていうかティアさんて、どうやって入ったんだろ?)
それ以前に、ベネトナシュの王城に禁書庫……ぐらいはあるだろうが、皇都の禁書庫にある書物の複製があるかどうかもクラリスの推測というよりは願望に近い。
クラリスは、ティアの言葉を反芻してみる。
『もちろん、結構な人数になっちゃうけれど。この宿題のキモは『知ること』だから、手段は問わない。皇女の権力を使って調べてもいいし、そこはご自由に。ただし、お城のお母様にばれないように口留めは忘れないでね』
これを馬鹿正直に真に受けるならば、帝国皇女の権力を使って堂々と閲覧の許可をもらうのがセオリーだろう。だがティアは同時に、皇都にいる母なる皇帝ディオーレにはその振る舞いを知られてはならないとの制約もだしている。
仮にベネトナシュの王陛下に口留めをお願いしたところで、母は皇帝ながらクラリスは一介の皇女にすぎない。皇帝に内密でとの皇女の命にしたがうのは、ベネトナシュの王室にとって皇帝に反目すると受け取られてしまいかねない。
(ベネトナシュにとってデメリットしかない気がします)
ただクラリスは次期皇帝である。ベネトナシュの王が次期政権を見越して、人脈強化の側面からあえてクラリス寄りに動いてくれる可能性も少なからずあった。
「うーん?」
だがそもそも、クラリスは皇太子ではあるもののその席は砂上の楼閣。次期皇太子は必ずしもクラリスである必要がないのである。
それに上手く立ち回って王を口留めできたとしても、そこにいたるまでの過程で少なからず第三者の知るところになるだろう。人の口に門は立てられない、その一挙手一投足が母なる皇帝の元に報告されるリスクは高いのだ。
(それに……ベネトナシュ王城に、皇都の間諜がまぎれこんでいるかもしれない)
むしろそうだと考えるほうが自然である。大陸の最西端にある皇都としては、正反対にある最東端にあるベネトナシュの動向には常に目を光らせていると考えるべきで。
現に母ディオーレは、帝国を構成する七ヶ国すべての現状を常に把握していた。これらはすべて、各国に潜り込ませた間諜たちによる尽力の賜物である可能性が高い。
そんなことを悶々としながら考えつつ歩いていたものだから、クラリスはうっかり馬車が頻繁に走る道路を左右確認もせず横切る形となってしまった。
『ヒヒーンッ‼』
馬の大きな嘶きが聴こえて、クラリスはびっくりして立ち止まってしまう。急停止した馬車が、クラリスの目と鼻の先だ。
馬車の中で、幾人かが転げ落ちて壁にぶつかる音が聴こえた。
(しまった!)
これは明らかにクラリスの落ち度なので、ひとまずは怪我人の確認……と思いその馬車を見て生唾を呑み込んだ。
「貴族の馬車?」
民間のそれではなく、どう見てもやんごとなき身分の人間が使用する豪奢な馬車だ。身分的にクラリスよりは確実に下ではあるものの、皇太子である自分がこの国にて単独で出歩いていたという事実を知られるのは避けたいところだった。
「すいません、大丈夫で」
そう言いながら駆け寄ろうとしたクラリスに、あろうことか御者が振り下ろす鞭が顔面に迫る。だがそこはSSランクハンターであるクラリスだ、野生の勘でそれを素早く避けた。
「なにをする!」
ついカッとなり、クラリスは声を荒げる。だが御者もそこは引かず、
「そっちこそなんだ‼ こちらの馬車にどなたが乗っているのか知っているのか⁉」
と唾を飛ばしながら横柄な態度だ。御者台の上から、クラリスに対して厭らしい視線を投げかけてくる。
(確かに悪いのは馬車の進行を妨げた私だけど……問答無用で鞭をふるまわれるいわれはないっ!)
自身が皇女、皇太子であるというのを抜きにしても御者の尊大な態度がクラリスの逆鱗に触れた。
「確かに悪いのは私だ。だからと言って、鞭を振り下ろすことはあるまい‼」
もしクラリスが避けなかったら、鞭は確実に顔面にヒットしていた。馬用の鞭であるので、十八歳の少女であるクラリスの顔の皮膚は簡単に裂けただろう。
「なにごとだ?」
馬車の中からそう聴こえたかと思うと、扉が開く。
「あ……」
頭を打ったのだろうか。頭をさすりながら身を乗り出したその男。クラリスはその顔に、見覚えがあった。
「コカブ殿下?」
ここベネトナシュ王国は現在、タリタ女王陛下の治世下にある。馬車に乗っていた男は、その第三王子であるコカブだった。
クラリスとは面識らしい面識はないものの、たびたび皇都における社交の場で他国の王侯貴族とは顔を合わせる。その場にて見知った顔だったのもあり、クラリスとしては知り合いに出会ったという感覚だったのが……裏目に出る。
ついつい気楽に馬車に歩み寄ってしまうクラリスに、
「無礼者!」
と御者が叫びながら降りてきて、クラリスを無理やり地面に平伏させた。普段ならこんなヤサ男なぞ、クラリスの敵ではない。
だが不意打ちだったのもあって、思わず地面に四つん這いになってしまった。そのクラリスの後頭部を、御者は片手でグイと地に押し付ける。
仮にも次期皇帝、皇太子だ。クラリスはこれほどの侮辱を自国はおろか他国から受けたことがなかった。
なおデュラのことはノーカンである。
「殿下、この者が馬車の行く手を遮りまして!」
「無礼なっ!」
すっかり頭に血がのぼってしまったクラリスは、御者の手を乱暴に取り払い立ち上がって抜刀した。仮にも街中で、しかも王子相手に剣を抜くなぞ大騒乱を招きかねない暴挙である。
だがクラリスは、すっかり冷静さを失ってしまっていた。
それを受けて、馬車の周囲にいる護衛の兵たちが次々と馬を降りて駆け寄ってくる。そして抜刀して、クラリスを取り囲んだ。
「狼藉者だ、捕らえよ!」
コカブ王子がそう叫ぶと同時に、兵たちがクラリスに飛びかかる。だがクラリスは一騎当千を誇る剣豪である、それらを鮮やかに斬り結んでいった。
もちろん、本当に斬っているわけではない。クラリスの剣はパッと見は両刃であるのだが、片方は刃をつぶしてあった。
皇女たるもの、むやみやたらに民を斬ってはならないというのが母の教えだ。護衛兵たちとて、王子の命令にしたがっているだけにすぎない。
つまり護衛兵たちは、クラリスに峰打ちにされていったのだった。
「くっ、王城から応援を呼べ!」
兵たちのほとんどが戦闘不能に陥り、かろうじて立っているのも片手で余るほどしか残っていない有様だった。その状況に狼狽したコカブ王子が、悲痛な声で叫ぶ。
(しかたありませんね)
これ以上の騒動は控えるべきだと、クラリスは判断した。久しぶりに剣を振り回せたことで鬱憤を晴らせたのもあり、完全ではないが冷静さを取り戻す。
「コカブ殿下、私の顔を見忘れたか!」
「なに⁉」
「帝都における皇帝主催の場で、幾度か挨拶に参ったこともあろう?」
こんな往来で皇女としての身分を明かすのは、なんとしてでも避けたい。だが応援を呼ばれては、クラリスとしても相対せざるを得ないのだ。
クラリスは剣を下ろして、静かにコカブ王子の顔を凝視する。いきなり戦意を収めたクラリスに、コカブ王子は怪訝そうにそれを見つめ――。
「いったいなにを言っ……あ、あなた様は‼」
慌てて馬車を飛び降りてその場に平伏しようとするコカブ王子を、すんでのところでクラリスが力づくで阻止した。謝罪の言葉を口にしようとしたコカブ王子の口を、クラリス自身の手でふさぐ。
王子の側近たちはその様子を、わけがわからないので呆然と見つめることしかできないでいた。
「私は忍びの身だ。ゆえにこの場は大人しく引くけれども」
そう言って、クラリスはチラと御者を見やる。
「いくら相手に過失があるとて、鞭を無条件で振り下ろすのはいかがなものだろうか?」
コカブ王子はもはや涙目で、クラリスに口を塞がれたままコクコクと頷くことしかできない。
「まったく……」
なんとか自身の身分を公にすることなく、穏便に済ませられた。少なくともこの時点において、クラリスはそう思っていた。
だがこの騒動が後に、大きな波紋となって広がっていくことをクラリスは知る由もなく――。
そしてしばらく、揺光の塔を拠点としてティアから投げかけられた宿題を解くのに四苦八苦する日々をクラリスは過ごす。一日中考え込んでいることもあれば、ヒントを探しに街を出歩いてみるも一考に進捗は芳しくなかった。
ティアは留守がちで、塔ではデュラと二人でいることが多い。だがデュラの住まう天璇の塔ではないので、他人の家に無断で住んでいるような居心地の悪さをクラリスは感じていた。
そんな最中のある日、ティアはクラリスを呼び出す。
(今日はいるのか)
この試練を乗り越えるための道が開けるのかもとクラリスは期待したが、ティアがクラリスに問いただしたのはまったくの別件だった。
「え?」
「いや、だから。クラリスちゃん、あなた……街でなにをしたの?」
そう言うティアの顔は、不機嫌丸出しである。だがなにも心当たりがなくて、クラリスは面食らう。
「王子と邂逅したでしょ?」
(あ、あぁアレか‼)
だがそのティアの発言で合点がいくも、その場は最小限に抑えたはずだ。クラリスの正体は、コカブ王子にしか露見していない。
「えっと、実はですね」
クラリスは、あの日の出来事を包み隠さずすべて話した。自分の過失で王子の馬車の進行を妨げたこと、御者とのトラブルから始まった立ち回りと王子にだけ正体を明かしてその場を去ったところまで。
(でも峰打ちだし、斬ってないし……)
「……そう」
すべてを話し終えたクラリスに対し、ティアが無表情でボソッと呟く。
「お前なぁ……」
デュラは苦笑いを浮かべているが、ちょっと複雑そうな表情で。
「つまり、自分から名乗ったのね?」
「え、名乗って……ことになる、のかな?」
(どうしたんだっけ。名前は言ってない、言ってないけど……身分は明かしたというか名前を明かしたも同然か)
はっきりしないクラリスの態度に、イラ立ちを隠せないティアである。だがクラリス自身にも言い分はあって。
「で、でも名乗りを上げてはいません! 確かにコカブ第三王子にだけは己の正体を知らせましたけど」
あれがあの場での最適解だったと、クラリスは確信していた。剣を抜いたのは早計だったかもしれないが、そうしなければあちらが先に抜いていただろうと思い。
だがティアの態度はどこまでも冷淡で、呆れたような表情でため息をつく。そしてそれはデュラも同様に。
(あ、あれ?)
「そんなの名乗ったも同然じゃん……」
「だよなぁ?」
なんだかバカにされた心地がして、クラリスは気分が悪い。だがそんなクラリスを嘲るように、ティアが口を開いた。
「まずね、クラリスちゃん? そんな騒ぎを王子の前で起こしたのに、王子はクラリスちゃんに対してなにもしなかった。それだけで、クラリスちゃんは王子よりも偉い人なんじゃないかって誰もが想像すると思うの」
「まぁ、それは……はい」
「そうするとね? ベネトナシュの王子より上の立場って、帝国七ヶ国の王陛下しかいないのよ」
「……」
もっともな正論をぶつけられ、クラリスはぐうの音も出なくて。
(言われてみれば、そうかもしれない。いや、そうか。)
そしてそんなクラリスに、ティアがなおも畳みかける。
「で、どこのお嬢さんだってことになったら。その年齢の女の子で、属国の王子より偉いのなんて、帝国の皇女しかいないわけでね」
今さらながらに、クラリスはとんでもないことをしでかしてしまったのだと血の気が引いた。だが事態は、もっと深刻で――。
「ベネトナシュの王室としては、皇女に対してとんでもない無礼を街中で働いてしまった。最悪、お国がお取り潰しになるかもしれない。幸いにして皇女は騒動を大きくしようとも、ベネトナシュを罰っしようともしてない。よね?」
「はい、それはもちろんです!
それは偽らざる本音だ。ただあの御者だけは、一発殴ってやりたいところだった……なんて思っているのを、その表情からデュラが察したようで。
「あぁ、それなら御者にはもちろん罰がくだったよ」
それを受けてクラリスは我が意を得たりとばかりに、
「でしょう、でしょう? むやみやたらに鞭を人に向けてはいけないと思うのです」
と鼻息も荒い。
「ま、正論だけどな」
だがそう返してくるデュラの表情は、曇っていて。
(どうしたんだろう?)
気づけば、ティアからも憐憫の視線を投げかけられていることにクラリスは気づく。一拍おいて、ティアが再び口を開いた。
「当然、話はベネトナシュのタリタ女王陛下の耳に入ったのね」
「あちゃー」
「あちゃーじゃねぇよ、クラリス。黙って聞け」
「あ、はい」
そのあまりにも軽佻なクラリスの態度に、デュラが真剣な表情で諫める。そして続けて聞かされた『その後』に、クラリスは愕然とするのだ。
「まず第三王子、廃嫡されました」
「……え? 今、なんて」
「廃嫡されたんです。王位継承権は第五位だったから、ベネトナシュとしてはさほど痛くはないでしょうけど。今後は臣籍に下って、公爵位を賜ります」
「……」
(いや、いくらなんでも……私はあの御者の態度が気に食わなかっただけで、殿下に対して思うところはないのに?)
自分はしくじったのだろうかと、クラリスの表情も重い。だがそんなクラリスを、さらに受け入れがたい事実が襲う。
「そして御者ですが」
「はい」
「昨夜未明、街の広場で公開処刑されました」
「……え?」
(今、ティアさんは……なんて言ったの?)
クラリスはポカンと口が開いたまま、思考が停止してしまっていた。しかしクラリスの心情にはおかまないなしとばかりに、ティアがさらに続ける。
「罪状は不敬罪。ちなみにこの国では爵位がある、つまり貴族の場合は連座制が適用されるケースが多いです。かの御者は、男爵位を王室から賜っていました。よって連座制は適用、御者の妻と二人の息子と一人の娘も一緒に処刑されました」
ティアはなにを言っているのだろうと、クラリスはふわふわと浮いているような感覚すら覚えていた。まったく予想だにしなかった『処刑』という単語、それがクラリスの中で現実味をもたないでいて。
「娘のほうは、まだ八歳でしたけどね。クラリスちゃん、満足ですか?」
「そんなわけ……っ⁉」
クラリスは信じられなかった。いや、信じたくなかった。
(そんなわけ、ない。なんで? なんでなんでなんで?)
「あの場でクラリスちゃんが口頭で収めたつもりになっていても、しょせんは口約束。いわばあの御者および殿下は、ベネトナシュを傾国に導く存在になったの」
「意味がわかりませんっ‼」
バンッと両手でテーブルを叩いてクラリスが立ち上がる。だがそんなクラリスに対して、ティアの視線はどこまでも冷ややかで。
「まぁ本当の意味での『爆弾』はクラリスちゃん、あなた本人でしょうね」
「え?」
「だって、特に赦免状を出したわけでもなければ公の場で許すって言ったわけでもないんでしょう?」
「それはそうですが……」
とにかくあの場では、一刻も早く治めて立ち去りたかった。だからそんな余裕もなかったのだ。
「つまりいつクラリスちゃんが、『あのときのことはやっぱ許さない』と言い出すかもしれ」
「そんなことしません‼」
気が逸って、ティアの発言途中で思わず声を荒げてしまうクラリスである。だがそんなクラリスに対し、ティアはずっと無表情を崩さない。
「……クラリスちゃんにはそうでも、ベネトナシュの王室側としてはどう? 今後、震えて暮らすことになるのは自明の理じゃないかな。だったらいっそのことクラリスちゃんに不敬を働いた者を片っ端から罰して、敵意も反目の意思もないことを帝都の皇室に理解してもらう必要がある。王室を、国を守るってのはそういうことなんだ」
(わからない、わからないです……)
クラリスの手指の先が、足が震える。信じたくないけれども、ティアから聞かされたそれは筋がとおっている。
「もうこの大陸のことを一万年見守ってきたけど、最初のころなんて王族も貴族もなかったんだ。どっから出てきたんだろうね? 天から降ってきた? 地から生えてきた?」
「……」
「王侯貴族は、自分たちのことを尊い血だなんて言ってさ? そして平民と奴隷民はそれを受け入れてんの。じゃあクラリスちゃん、尊い血ってなんだろう?」
ティアが粛々と諭すそれに、クラリスは反論ができない。もちろん、クラリスとしては身分が高いからといって低いものを下に見る選民意識はないのだけれど。
「王族も平民も、同じ人間です……それはわかっているつもりです」
「へぇ、ご立派。でも平民たちはそういう教育を受けてるんだよねー」
必死に絞り出したクラリスのそれに対し、ティアはさして取り合う素振りもみせない。それどころか、ちょっと小馬鹿にしているような視線を投げかけてくる。
そしておもむろに、ティアが机上にあるフルーツナイフを手に取った。
「クラリスちゃん、ちょっと手を貸してくれる?」
「? あ、はい」
その意図がわからず、クラリスが素直に手のひらを差し出したその瞬間――。
「痛っ!」
クラリスの指先を、ティアがナイフで切りつけたのだ。かなり深く切れたらしく、ドクドクと赤い鮮血が流れては下に落ちる。
痛みと驚きのあまり固まっているクラリスだったが、さらに信じられないことが続いた。血があふれ出しているクラリスの指先をティアが強引に手に取ると、まるでクラリスの指を筆のように使って――。
「ティア姉⁉」
デュラが血相を変えて、立ち上がった。
(え……なにが起きたの?)
いまクラリスの顔には、クラリスの血が噴き出る指を使ってティアが描いた大きな赤いバッテン――なにをされたかわからないでいるクラリスは、まるで時間が止まったかのように硬直するしかできなかった。
「へぇ、それが尊い血なんだ? 見た目だけじゃわからないね」
「あの……」
なおも惑うクラリスに歯噛みしながらそれを見守っていたデュラが、我慢できないとばかりにティアの胸ぐらを掴む。
「ティア姉、いい加減にしろ! 言いすぎ、やりすぎだ‼」
「どこらへんが?」
その二人の剣幕に、ふと我に返るクラリス。慌てて二人を引きはがそうとする。
「デュ、デュラちょっと待って、落ち着いて!」
だがデュラの怪力の前に、クラリスは無力だ。クラリスとて、『人間では』怪力なほうであるにも関わらず。
「でもクラリス!」
「今ティアさんとお話をしているのは、私なんです‼」
ここは言葉で理解してもらうしかないと悲壮な表情で叫ぶクラリスに、渋々といった塩梅でデュラは手を離した。だが肝心のティアは無表情で、その内心をうかがい知ることはできない。
「『神恵』」
「え?」
ティアの手のひらから無数の光の粒が飛び出し、それがクラリスの血が流れ続けている指先を包む。
(あ、暖かい……)
そして切れたはずのクラリスの指先は、まるでなにごともなかったかのように完全に塞がっていた。ティアが得意とする治癒魔法だ。
「あ、ありがとうございます……」
ティアに切られた傷ながら、とりあえずはお礼を言うクラリス。だがそんなクラリスに対し、ティアの表情は先ほどまでと違いどこか悲し気で。
「……クラリスちゃん、ごめんね。ちょっと頭、冷やしてくる」
(私はティアさんに、なぜ謝られているのだろう? 指先を切ったこと?)
自分の起こした騒動の顛末は、ティアに怒られても当然の結果を招いた。だからティアに怒られこそすれ謝られる原因に心当たりがなくて、クラリスはしばし呆けってしまう。
「え、ちょっと待っ」
時間にして一分もなかっただろう。だがクラリスが我に返ったとき、すでにティアの姿はなく。
どこに行ったのかと左右を確認しようとしたクラリスと、デュラの目が合う。デュラは少し申し訳なさそうな、複雑な表情を浮かべていた。
「ティア姉のこと、怒らないでやってくれよな。こと人間の愚行に関してはティア姉、人が変わるから」
そう言って、デュラはハンカチを差し出してきた。クラリスの顔に描かれた血文字を拭けという気づかいである。
だがクラリスは、それを受け取ることができなかった。
(今の私に必要なのは、ハンカチじゃないと思う)
そしておもむろに懐から手鏡を取り出して。
「人間の愚行、ですか。そうですね、そうかもしれません」
手鏡に映っていたのは、赤くて大きなバッテンが描かれた自分の顔。
(これがティアさんから見た、今の私にお似合いの顔なんだろう)
それは、否定できなかった。自分の愚行で、少なくとも一家が連座で処刑されたのだ。
(皇女に対して鞭を振り上げたのだから、それはしかたないのかもしれない。だけどあの御者は、私がクラリス・カリストだと知っていればそんなことはしなかった……)
気鬱な表情を隠せずクラリスは手鏡をしまおうとして、誤って代わりにティアから預かった宿題の書物を落としてしまう。そして落ちた書物のページがペラペラとめくれて。
「……⁉」
(墨塗りが、落ちてる?)
ティアが調べるようにとあえて塗っていた墨塗りのすべての箇所が、まるで最初からなにもしていなかったかのように文章が表示されていたのだ。
「デュラ、これ⁉」
クラリスはわけがわからず、それをデュラに見せる。
「特定の時間が経ったら消えるインク、てのをソラが作ってたなそういや」
さほど驚きも見せずそう呟きながら書物を返してくるデュラからそれを受け取り、クラリスはおそるおそる最初のページをめくった――。
(見ちゃっていいのかな?)
クラリスとしては、ティアからの指示は『墨塗りされている退職者の城を去った理由を調べろ』とのことだったのでこの現状はカンニングしているみたいでちょっと後ろめたい。
「いやでもティアさん、『知ることがキモ』って言ってました」
そして、手段は問わないとも。そしてこれは正当な行為だ、インチキではないと自分を納得させて書物に視線を落とす。
「なにコレ……」
ページをめくるクラリスの、指先が震える。唇が、震える。
その理不尽きわまりない内容に、ジワッと涙が沁み出てくる。心配そうにそれを見やるデュラだったが、
「信じられないだろうけど、それらはすべて真実だクラリス」
「デュラは、この内容を?」
「あぁ。あらかじめティア姉から聞いてた」
そこに記されている、皇城勤めの人たちのさまざまな退職理由。それは特筆すべき事案じゃないものが多かったが、ティアから受け取ったときに墨塗りされている人たちの退職理由だけがクラリスの精神を激しく大きく揺さぶった。
たとえば、当時クラリスを妊娠中だった母なる皇帝ディオーレと皇城内の通路ですれ違いざまに肩がぶつかった執事。お腹の子を流産させるための謀略の疑いありとして拷問まがいの審問を連日のように受けた。
「獄中死……」
その死因は、多臓器不全によるショック死。人は耐え難い苦痛に侵されたとき、脳が自身を護るために自死という選択をする。
多臓器不全でショック死なんて、その審問がいきすぎた内容だったことは明らかだ。もはや、審問ですらなかったかもしれない。
また、幼いクラリスの爪を切っていたメイドが誤って深爪をさせてしまった。記録には、クラリスが微量の出血をしたことも付記されている。
そしてそのメイドは――。
「嘘……⁉」
「クラリス……」
そのメイドは罰として、両手両足の指をすべて切り落とされた。そしてそのうえで、城を追放されたのである。
当時のクラリスはまだ幼すぎて、そのときのことを覚えていない。だからそのメイドの名前に心当たりはなかったが、備考欄を読んでその表情が凍り付いた。
「え……え?」
クラリスには、幼少のころから常に一緒にすごしてきた姉と慕う侍女がいる。その侍女には、いまもクラリスは全幅の信頼をよせていた。
そしてその侍女こそ、指を切断されて城を追放になったメイドの……娘だったのだ。
「そんな……そんな……」
だがクラリスの記憶の中の彼女は、一度たりともクラリスに恨みがましい態度をとったことがない。言ったことがないのだ。
自身の母がそんな理不尽とも思える扱いを受け、欠損をともなう厳罰をくだされたあげく城を追放されたにも関わらず。当時の侍女は五歳ぐらいだろうか、クラリスの身体の震えが止まらない。
なおもクラリスは、震える手でページをめくった。
そしてそこに記されていたのは、クラリス自身が起因となって城を追放された若き天才シェフの顛末。まだ幼い皇女の健やかなる成長を願って調理した結果、それが実は苦手とする食材だったために……癇癪をおこしたクラリスのひとことによって追われるように城をあとにしていた。
だが皇族の勘気を買って追放されたシェフなぞ、どこも雇いやしない。また自身で店を開いたところで、下手に皇室に対する叛意を疑われでもしたらと客も寄り付かないだろう。
その後シェフが料理人の道を断たれたことが、小さく追記されていた。それだけでもクラリスにとってはやるせない出来事であるのだが、追放の原因となった食材――いま十八歳となったクラリスの、大好物で。
「うっそだぁ……?」
力なくだらんと垂れたクラリスの腕から、書物が床に落ちる。
そしてティアが墨塗りしていたであろう人たちは、いずれも似通った理不尽な事由で城を去ったことが記されていた。自分が皇女でなければ、身分が同じだったらば……『ごめんなさい』のひとことで終わってしまう些細なことばかりで。
(ティア姉も性格が悪い……)
デュラは顔をしかめた。呆然と立ち尽くして震えているクラリスに、どう声をかけていいのかわからないでいる。
「……できない」
「え?」
「納得できません‼」
ギリギリと歯噛みをしながら、悪鬼羅刹のごとくクラリスが表情を怒りに歪める。それらは誰が命令をくだし、そして執行したのかと。
母の顔や、メイドに侍女そして侍従など自分の生活をそばで親身になって支えてくれた使用人たちの顔がふと脳裏をよぎる。
(彼らにはそういう裏の顔が……ううん違う、彼らもまた同じ目に遭う可能性を抱えながらも私を支えてくれてたんだ)
堰を切ったように、クラリスの澄んだ紫の瞳から涙が次々とあふれてはとめどなく流れ落ちていった。そしてふらふらと、部屋を出ていく。
「おい、クラリス⁉ どこへ……」
デュラがどんなに話しかけても、クラリスの目は虚ろで。ぶつぶつつぶやきながら、階下へとくだる階段を降りていく。
そして塔の外に出て、庭のような場所にひときわ幹の太い大きな菩提樹。クラリスはそれに抱きつくと、まるで幼女のようにわんわん泣き続けた。
泣いても泣いても、涙が枯れることはなく。ただひたすら赦しを乞うがごとく、痛哭の限りを尽くす。
そんなクラリスを見て、デュラはかける言葉をみつけられないでいる。しかたないので自分一人、塔へ戻って。
そしてティアが出ていった窓の外を遠く見つめるも、その姿をどこにも認められない。
「どこ行きやがった、あのポンコツ!」
窓から見えるはるか下、幹に抱きついたままのクラリスはなおも泣き止む気配を見せない。それを見てもう一度哀れみに表情を歪めると、デュラの指先から黒い瘴気が立ち上る。
そしてそれらはやがてゆっくりと渦を巻くようにして、五匹の蝙蝠を型どった。
「眷属ども、ティア姉を呼んできてくれ。多分だけど、そこらへんでぷかぷか浮いてるはずだ」
『チチチチッ‼』
『キィキィッ‼』
五匹の蝙蝠は、デュラからの指示を受けて上空へと羽ばたいていく。
蝙蝠の視覚は退化しているが、代わりに超音波を飛ばして障害物を認知できる。五匹が迷わず一方向を目指して飛んでいったのは、ティアの現在位置を把握したからだろう。
(ティア姉、一発ぶん殴らせろ!)
そしてほどなくして、はるか上空の遠くから一人の妖精……ティアが蝙蝠たちを引き連れて戻ってくるのが見えた。
「帰ったよ」
「あ、ティア姉……」
心なしかティアの表情が後ろめたそうで、それを目にしてデュラは先ほどまでのティアに対する憤りのやり場を失う。
「デュラ、クラリスちゃんは?」
「……タイミング、狙ったんじゃないのか?」
デュラの発言の真意がわからず、ティアは首をかしげた。
「墨塗り、全部落ちてたんだが」
「‼」
(ティア姉の意図したタイミングじゃなかったのか)
あくせくと慌てふためいているティアを見て、デュラはそう察する。
「中……読んだの? クラリスちゃん」
「あぁ」
予定外だと言わんばかりに、ティアが下唇を噛み締めて。
「それで、クラリスちゃんは今どこに?」
デュラは無言で窓際まで歩み寄ると窓の外、塔の下を指さした。ティアも窓際に寄って、下を覗き込む。
はるか下の地面から、クラリスの痛々しすぎる泣き声が聴こえてきた。木の幹を抱きしめてひたすら子どものようにわんわん泣いているクラリスを見て、ティアのハートがズキンと痛む。
(クラリスちゃん……)
「ティア姉が話してくれた、指を切り落とされて城を追放されたメイドなんだけど」
「うん?」
「クラリスが今も慕っている侍女の……お母さんだったらしい」
「⁉」
「だけどその侍女さんは一度たりとも恨みがましいことを言ったことはなくて、クラリスを実の妹のように可愛がってくれてたんだと」
それを聴いて、ティアは俄に言葉を失ってしまう。
(ティア姉も知らなかったのか……)
いずれにしろそれはティアが責められるべき事案ではないので、デュラもこれ以上はなにも言えない。
「それだけじゃねぇ。クラリスが嫌いな食材を使った料理を出したシェフ、これも幼いクラリスのひとことで城を追放されて……かの書物には、その後は料理人の道を絶たれたとあった」
これは知っていたのか、ティアが無言でうなずく。
「ただクラリスは、そのシェフがそういう理由で城を追放されたことは知らなかったみたいで。しかもさ?」
「うん」
「今はその食材、大好きなんだと」
「……そう」
しばらくの間、二人の間に沈黙のときが訪れた。ときおりデュラの顔色をティアがうかがっていたのは、クラリスの姉貴分であるデュラに怒られるのもいたしかたなしという感情だ。
だがデュラにはもう、ティアをどうこうしようという考えがなかった。ただひたすら、クラリスが心配でたまらなかったのだ。
「ちょっと行ってくるよ、デュラ」
「ティア姉、私も行くよ」
二人、羽をはばたかせて窓からテイクオフ。クラリスが泣いている、菩提樹のふもとに着地する。
「クラリスちゃん……ごめんね?」
予定外に予定外のことが重なり、ティアももうしわけなさでいっぱいの表情でクラリスの背に声をかけた。そのティアの謝罪に、ビクッと肩を震わせてクラリスはぴたりと泣きやんで。
それでも木の幹を抱いたままのクラリスに対し、ティアはどう言葉をつなごうかと悩んでいた。だがクラリスは自分からパッと振り返ると、
「ティアさん、教えてくださってありがとうございます!」
そう言って、深々と頭を下げる。
「あ、うん……」
虚を衝かれたのもあって、生返事しか返せないティアである。だがクラリスはティアのそんな態度を意に介さずに、ニコリと笑って言葉を続けた。
「すいません、泣いてしまって。ですのでそれは気にせずに、『当初の予定どおり』にご指導ご鞭撻のほどをお願いしてもいいですか?」
そのクラリスの健気な心意気に、自然とティアの顔もほころぶ。クラリスがこの塔に来て、初めてティアはクラリスに笑いかけたかもしれない。
「……クラリスちゃんは、次期の皇帝なんだよ。そう簡単に、自分の上に人を置いちゃだめだ」
そして優しくそう諭すのだが、
「それ、デュラにも言われました。ですけど失敗したならそれを正し、諭してくれる声には謙虚に耳を傾ける。私はまだまだ未熟者ですから、次期皇帝としてその姿勢は忘れたくないんです」
そう言い切るクラリスの淀みない発言に、ティアも無言でうなずくしかなかった。
「そっか……」
そして納得したような表情を見せるティアだったが、塔へと戻っていくクラリスとティアの二人の背中を見つめるその目は先ほどまでとは打って変わり、どこか儚げで寂しげであった。
(私が課す最後の試練、クラリスちゃんは耐えられるだろうか?)
それが心配で心配で、でもそれでもクラリスに教えたいこと。次期皇帝という重荷を背負うクラリスに、ティアがどうしても伝えたいのは――。
今ひとたび揺光の塔は最上階。泣き腫らした目のクラリスに、今度はティアが優しく声をかける。
「どうぞ、クソ茶ですが」
「それはもういいから」
デュラが苦笑いでツッコみ、クラリスが吹き出した。そしてティアも着座し、三人でのんびりと茶を嗜む。
会話はないけれど、クラリスが当初感じていた気まずさはなくゆったりとした時が流れて……その沈黙を、ティアが破った。
「クラリスちゃんは、今おいくつ?」
「えっと、十八歳になりました」
「そっか……十八の女の子がさ?」
「はい」
「その両肩に背負ってるものは、とてつもなく大きい。それは自覚しているというか、今回のことでさらに思いを強くしたと思うんだ」
クラリスは返事をしたつもりだったが、まだショックを引きずっているのかわずかに唇が動くのみで。
「クラリスちゃんの一挙手一投足で、大勢の人が動く。そしてその一方で、一人の命が簡単に消える。今は帝国は平和だからいいけど、もし戦争になったら」
「戦争、ですか」
突如としてティアの口から発せられた『戦争』というワードに、クラリスのティーカップを再び取ろうとした手が止まる。
(アルコルは、今も帝国の影に怯えてる……)
開陽の塔で、ターニーが教えてくれたこと。だがそれはアルコルが小国であるがゆえだ、あくまで専守防衛と是としていた。
(帝国に戦争をしかけるなんて、自殺行為だ)
それはありえないとばかりに、クラリスは無言で首を振る。ほかの大陸に行けば帝国の影響下にない外国もあるだろうが、広大な海を渡らないといけない。
少なくとも現在の帝国の船舶技術では兵站が追い付かない。兵站が追い付かないから、兵はついてこないだろう。
(そりゃ帝国以上に栄えた国ならありえるかもだけど)
しかし帝国側からしかけることはない。船上で餓死するのが関の山だからだ。
たとえ侵略される側となったとしても、地の利は大きい。兵も補給も大陸全土から集まるのだ、戦争というのは現実的ではない……というのがクラリスを始め、為政者たちの共通認識だろう。
だがティアの考え方は、違うようで。
「何考えてるかわかるよ。でもたとえばミザールの南方、アルコルが宣戦布告してきたら? その可能性はゼロじゃない」
「アルコルは小国ですけど……」
「だから、大きな国になろうとして戦争を仕かけてくるわけ。言っておくけど、クラリスちゃんのご先祖様もそうして国を大きくしたんだよ?」
そうとまで言われては、クラリスも反論ができない。現にこのカリスト帝国、最初から七ヶ国だったわけではない。
ここベネトナシュ王国もかつては、帝国に侵略されて呑み込まれた国なのだ。
「そしてたとえば一万の軍隊を向かわせるとして、一万人が全員帰還するわけじゃない。戦いで『勝つ』という前提の下で、何百人何千人死ぬかを覚悟の上で送り出すわけ」
「はい……」
「戦況によっては、『全員死ぬ』という前提で送り出すこともある。たとえば三万の敵兵を二万に減らすため、一万の兵を向かわせるとかね」
クラリスは、自分はそんなことをやらない……と言い切る自信がなかった。戦況は刻々と変わる、それに対応できなければ待つのは敗北であり死である。
「何も敵は他国とは限らないんだよ? 魔獣とか、あるいは」
ティアがそこまで言いかけて、チラとデュラを見やった。その仕草の意味がわからなくて、それでもクラリスは続きを待つ。
「魔皇、とかね」
「魔皇、ですか」
天権の塔でアルテから聞いた前世でのアルテとの因縁、そしてアルテの前世であるアルテミスが封じた敵をふと思い出すクラリスである。
(確か、リリィディア……)
だがそれも一万五千年も前の話だ。クラリスはこの時点で、自身もリリィディアの一欠片であることは聞かされていないので現実味を感じることができなかった。
「どこにどんな敵がいるかわからない。そしていざというときになったら、帝国の領民全員の命がクラリスちゃんの両肩に乗るんだ。まぁそれは今もだけどね?」
「はい、心得ています」
「クラリスちゃんの命令一つで、何万人が助かるかもしれない。死ぬかもしれない。そんな重い荷物、誰だって持ちたくはないよね。私だってそうだよ」
「はい」
クラリスが命令したわけじゃないが、ここアルコルの王子が廃嫡され男爵一家が連座で処刑された。なのでティアのその話は身に沁みてわかったし、実際に記憶のない幼いころではあるがクラリスの命令で一人の料理人の未来が断たれた。
(私が背負う荷物は、私が思っている以上に重い……)
「でもそれは誰かが持たなくちゃいけなくて、そして持つ者にはその分の責任を被る代わりに……絶対的な『権力』が与えられるの」
今さらながらに、クラリスはそれを自覚する。そしてその影響力の大きさに、指先の震えが止まらない。
チラとその震える手先を見やるティアだったが、それでもお構いなしとばかりにさらに続けた。
「クラリスちゃんの毒見役、これまでに何人か亡くなってるそうじゃない?」
「ですね。私の命を狙おうとする不届き者がいるようです。だから私は、強くならなくちゃいけない……身も、心も」
ここカリスト帝国は、七ヶ国の王誰しもが帝位継承権を有する。現皇帝ディオーレ・カリストがフェクダ王国の王女出身だったように、その娘のクラリスがいなくなれば苛烈な帝位争いが始まるだろう。
だがクラリスがまだ健在な今ですら、その帝位を狙う派閥はどの国にも存在していて。皇太子であるクラリスが常に命を狙われてしまうのは、避けることのできない運命ともいえた。
それを踏まえての、『だから私は身も心も強くならなくちゃいけない』というのがクラリスの決意だったのだが……。
『バシャッ!』
「え?」
「おい、ティア姉‼」
突如として、顔に感じる痛み……それは痛みでなく熱さだとクラリスが気づくまでに、少しの時間を要した。ティアが、自分のお茶をクラリスの顔にぶっかけたのである。
「あ、あの⁉」
熱さ以前に自分がどうしてお茶をかけられたのかという疑問が先立ち惑うクラリスだったが、それより先にデュラがティアの暴挙に対して今にもとびかかりそうだった。
だがそれをティアが先んじて制する。
「デュラ、ちょっと黙っててくれる?」
「……わかった」
渋々とばかりに、立ち上がっていたデュラが再び着座して。そしてクラリスはなおも、自分がティアの逆鱗に触れた理由がわからなかった。
「毒見役がいるなんて、誰もが知ってる。だから、毒を盛った犯人は本当にクラリスちゃんや皇族を殺せるなんて思っていないんだよ」
「言ってることがよく? だったら何故毒を盛るのでしょうか?」
(そんなの毒見役がただ死ぬだけでは?)
ふとそう思って、瞬間的にクラリスは凍りついた。
「‼」
そして反射的に立ち上がってしまったはいいが、今しがた自分の中で紡いだ言葉の恐ろしさに全身に震えが走る。
(毒見役がただ死ぬだけ、って……)
そして思わず膝から崩れ落ちるクラリス。
「わっ、わわ、私は……」
クラリスは舌がもつれて、うまく言葉が発せないでいた。まるで使い捨ての駒がごとく毒見役の命を軽んじてはなかったかと、自身のその思い上がった考えに言葉を失ってしまったのだ。
「……気づいたみたいね。まぁそれは当然だけど、もう一つ肝心なこと」
「え?」
「毒見役が死ぬってことは、クラリスちゃんの口に入れるのは失敗したけど料理に毒を盛ることは成功したってことになるよね?」
「それは……はい」
これ以上ティアからなにを聞かされるのかと、クラリスは身構えてしまう。だけどそれは絶対に自分が知らなければいけないこと、見て見ぬふりをしちゃいけないことだと自覚してクラリスは両の拳を力の限り握りしめる。
握りしめた拳は、すでにおびただしい手汗がにじんでいた。
「つまり、いつでもお前の命を狙っている、ここまでできるんだぞというデモンストレーション、アピールなわけ」
そしてティアから発せられたそれは、これまでクラリスが一度たりとも考えたことがなくて。ただただ、暗殺を事前に防いだぐらいにしか思っていなかった。
(つくづく、私の浅慮ぶりがイヤになるな……)
「とりあえず、椅子に座りなさいクラリスちゃん。まだトドメは刺してないから」
「あ、はい」
(トドメって……)
これ以上のなにがあるのかと、クラリスは下唇を噛む。とりあえずは椅子に座り直し、ティアの言葉を待った。
「つまり毒を盛った奴はね? 毒見役を殺すために毒を盛るわけ」
(そういうことに、なるんだろうな……)
「言っておくけど……」
ここにきて、ティアが言い淀む。言おうかどうしようか迷っているようにクラリスには見えたが、そんなの今さらだとクラリスは待った。
そのクラリスを見て、ティアも続ける決断を下したようで。
「……言っておくけど、毒見役の人はいつか毒を食らって死ぬという前提でその役を引き受けてる。つまり、『皇女の代わりに死ね』という命令を受けてるのよね」
「嘘だ……」
クラリスは信じられなかった。そして信じたくなかった。
(もしそれが本当だとしたら、誰がその命令を下しているのだろう?)
「嘘だと思いたい? じゃあ思ってなよ。ただ帝国の皇太子の命の前では、国民の命なんてすごく安いの」
そう吐き捨てるティアの視線は、どこまでも冷たい。まるで汚物でも見るような、侮蔑の表情でクラリスを見つめる。
もとより人間嫌い、そして王侯貴族の存在価値に疑問を呈するティアである。だからこそ、そのヒエラルキーの頂点に立つには大きな荷物を背負う義務があるのだとティアは言いたかった。
「自分の肩の荷物が重いからって、『それは嘘だ』って言って楽になろうとしないで。もし抱えきれないなら、床に置いて皇太子の座を放棄して? 帝国のためを思うならさ」
「ティア姉、あのさぁ」
「なに?」
「……いや、もうちょっと表現つーか」
さすがにここまでの流れで情け容赦ないティアに対して、デュラが苦言を投げかける。ただティアが言っている内容は正論ではあるとデュラも感じていたのもあって、強くは出られないようで。
「これまで、クラリスちゃんを守るためになん人死んだか言える? 言えたとして、全員の名前を言えるのかな?」
「それは……」
「クラリスちゃんの命は、大事な一つの命だよね。それと同じように、為政者としてクラリスちゃんのために……そして国のために死んでいった人たちを『数字』として見ちゃいけない」
無言でうなずくクラリス。
そして最初に異変に気づいたのはデュラだった。ティアはおびただしいほどの顔汗を流し、舌もところどころ上手く回らないでいた。
(気づかなかった! ティア姉、いつからだ⁉)
ティアは呼吸も少し荒くなっていて、なにかに追われているような焦りの表情を浮かべている。だがそれを必死で気取られまいとやせ我慢で、さらに言葉をつづけた。
「一人一人、一つ一つは本当はクラリスちゃんが守らないといけない命なんだよ」
「はい……はい!」
ティアの言葉に真面目に聞き入ってるクラリスは、ティアの異変にはまだ気づかない。お茶をぶっかけられてそのままだったのもあり、ティアが無言で差し出すハンカチを受け取り顔を拭いて。
そして次の瞬間だった。ティアの全身がビクッと震えたかと思うと、
「……あ」
「ティア姉、まさか⁉」
これまでにクラリスが感じたこともない、膨大な魔力の渦が地の底から湧き上がってくる絶望的な恐怖。それは紛うことなき死の恐怖だ、まるで千匹の獅子にかこまれた兎のごとく。
「あの、ティアさん⁉ ものすごい量の魔力がティアさんからあふれ出しているというか……‼」
「知ってるでしょ、私の体質。妖精一体じゃとても使いきれない、制御しきれないほどの魔力が無尽蔵に身体の中心から湧き出てくるの。その過ぎた『重い荷物』を背負いきれなくなって、それでも背負い続けたらどうなるか。それを見せてあげるよ」
ティアはそう言って、立ち上がった。
「クラリスちゃん、おいで」
そして扉に向かう。だがふと立ち止まり、デュラが着座したままのにティアは気づいた。
「デュラは見ないの?」
「見て気持ちいいもんじゃないから」
それに対し、ティアからの返事はない。もうすでに、ティアには余裕がなかったのだ。
(うぅ、眩暈がする……)
そしてふとよろけてしまうティアに、
「大丈夫ですか⁉」
と反射的にクラリスが腕を差し出すも、ティアの身体に触れた瞬間――。
「あ、熱い⁉」
そう言うが否や、すぐに手を放してしまった。
(まるで沸騰したお湯のような熱さだ!)
もし人間ならば、身体を構成するたんぱく質が変質してしまっていただろう。
クラリスが差し出した腕を頼りにしようとしたティア、突如としてそれを引っ込められてしまったので再び倒れそうになり恨みがましい視線だ。
だがもう余裕のないティアはそのまま、クラリスがついてきているかどうかの確認もそぞろに塔内のらせん階段を駆け下りていく。
(とりあえず、私が死んだらリリィの復活はできなくなる……問題は、次の転生までにどれくらいあるか)
ティアは、自身が死んでも自身に転生するという生涯を数えきれないほど繰り返してきた。だからいま自分が死んだとて、リリィディア復活の代となる運命からは完全に逃げ切ることができない。
(復活するのがリリィなのか、魔皇リリィディアなのかは神の味噌汁……じゃなくて、神のみぞ知る。というかリリィは神なんだっけ)
「つまり、神も知らないと」
「え?」
「あ、ううん。なんでもない」
なかば自暴自棄的な、ティアのひとり言だ。この身体がもうもたないことはティアはわかっているので、せめて冗談でも言って笑い飛ばさないと気を失してしまいそうだったのだ。
「ここらへんでいいかな」
塔の外に出て海の見える崖の近く、クラリスをともなったティアが立ち止まった。
(ここなら誰にも迷惑をかけず……最期を迎えることができるだろう)
潮風が、ティアのマゼンタブロンドの髪を強めに梳いていく。
「クラリスちゃん、少し離れてて?」
「あ、はい」
最期の覚悟をしたティアが、弱々しいながらせめてもの笑みをクラリスに投げかける。そしてクラリスは、ゴクリを生唾を呑み込んで。
「あ、危ないからもうちょっとだけ離れ」
ティアがそこまで言いかけたときだった。
(来たっ‼)
その小さな妖精の身体を構成する霊体の中心から、とんでもない量の魔力が瞬時にして溢れでてくる。ティアは最後の力を振り絞って、
「『天使の牢獄‼』」
と叫び、自身を中心として周囲に弧を描くように封印の魔法陣を瞬間的に形成する。そして次の瞬間……ティアの身体はまるでバーナーから放出される炎のように、膨大な魔力の渦を放出し始めた。
それが魔法陣に遮られて、はるか上方の空中へと延びていき……。
「いぎゃあああああああああっ‼」
「痛い痛い痛い痛い痛いっ⁉」
「熱い‼ 熱い熱い‼ だっ、誰か、誰か助け……っ‼」
「やだやだやだやだ、死にたくない‼ 死にたくないよーっ‼」
ティアの、断末魔の叫び声が海上をこだまする。最期の最期にティアがこの世界に遺していくのは死への恐怖、生への未練。
「ティ……え? え?」
そのあまりにも凄惨な光景に、クラリスは立ち尽くすことしかできなかった。もとより動けても、いまティアの周囲は岩をも溶かす高温になっており近づけなかっただろうけれど。
(なにこれ、なにこれ⁉)
わかっていたつもりだったが、わかっていなかったのかもしれない。クラリスは今さらながらに、ティアの言葉を思い出す。
『妖精一体じゃとても使いきれない、制御しきれないほどの魔力が無尽蔵に身体の中心から湧き出てくるの。その過ぎた「重い荷物」を背負いきれなくなって、それでも背負い続けたらどうなるか。それを見せてあげるよ』
「これが、ティアさんが私に伝えたかったこと……」
自身の抱える荷物の大きさに負けた、その壮絶で悲惨な末路。
(ティアさんは私を巻き込まないように防御陣を張ったけど、もしそれがなかったら……ここら一帯は草木も生えない砂漠と化してしまう)
次期皇帝である自身に置き換えてみて、クラリスは戦慄する。自分もまた背負いきれない荷物を無理に持ち続けたらば――。
(多くの民を巻き込んでしまうだろう)
それは皇帝が皇帝であるがゆえに。その皇帝という重い荷物を、これからクラリスは背負っていかなければならないのだ。
だからこそのティアいわく、
『もし抱えきれないなら、床に置いて皇太子の座を放棄して?』
ということなのだと、クラリスは決意を新たにする。
ティアは断末魔の悲鳴を上げ続けながら、無限に分裂し続ける魔力の渦の中で燃え続けた。自身の霊体を触媒としているので、その噴出し続ける魔力が尽きない限りいつまでもいつまでも燃え続けるのだ。
その魔力の炎の中から、もう黒いシルエットにしか見えないティアがこちらを振り向いたようにクラリスには見えた。ほどなくして聴こえてくる、ティアの今際のきわの言葉。
「クッ、クラリスちゃん助け……」
その言葉を最期に、ティアの声はもうクラリスの耳に届くことはなかった。
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