上 下
6 / 20
第一章・塔の賢者たち

第六話『開陽の塔・ターニー』

しおりを挟む

 ミザール王国は首都・ゼータの街。その中心部あたりに、魔石列車が走るゼータ駅がある。王国一の乗降人員数をほこるだけあって駅舎も大きく、常に人の流れは途絶えない。
 その駅の切符販売窓口、通称・グリーンカウンター。そこに一人の幼女……は失礼だろうか、少女が並んでいた……ように見えた。
 周囲の人たちに埋もれ、たまにチラと見えるブラウンの髪と褐色の肌が見えるだけで、その存在は確かでない。
 なかなか人が捌けない中、ようやくその少女がカウンター前に立つ。見た目は十二~十四歳くらい、身長は一三〇センチくらいだ。
 クリンクリンでブラウンの少年のようなショートヘアー、翡翠のような深緑の大きな瞳。外見の幼さとは裏腹に意外とある胸部だけ隠して肩とおへそが『こんにちは』している露出の高いトップスと、少しもこもこしたショーパン。
 褐色の肌は健康的で艶光りしていて、浮いた腹筋もご立派なもの。ドワーフ特有のやや尖った耳が髪の間から飛び出ている。
 鍛冶を生業にしているだけあって、履いているアウトドア仕様の革靴は立派な装いだ。つま先とかかとにはダマスカス鋼が仕込んであって、ひと蹴りで巨象すら絶命させることができる逸品。
 かなり年期の入った革製のオープンフィンガーグローブは、拳頭にこれもまたむき出しのダマスカス鋼。鉄拳一発で、獅子をも殴り倒せる威力を誇る。
 両肩に彫っている幾何学模様のタトゥーは身体強化魔法の触媒となっていて、その怪力で鍛えるダマスカス鋼を使い大剣からピアスまで作れてしまう大陸一の鍛冶師――開陽の塔の賢者、『原初のエルダー・ドワーフ』のターニーその人である。
「港まで大人三枚と、船のチケットもここで買える?」
 ターニーが購入しようとしているのは、ミザールの南端にあるブルーウッズ港まで走る魔石列車の切符だ。そして可能ならば、そこからアルコル諸島へ向かう船便の切符もここで買えたらともくろんでいた。
「はい、大丈夫です。ですがお客様もご利用なさるのですよね」
「うん、そうだね?」
 カウンターの若い女性職員が、まるで子どもを見るような慈愛に満ちた優しい表情を浮かべる。
「お嬢様なら、子ども料金でいいんですよ。半額になります」
 だがそれを耳にして、ターニーの表情がこわばった。
「は?」
 ザワつく殺気を静かに放つターニーに、職員の顔が青ざめる。
「あ、あの………えっと?」
 そこへ、職員以上に青い顔をしてひげを蓄えた年配の男性が大急ぎで駆け寄ってきた。
「バカ! どけっ!」
「所長⁉」
 所長と呼ばれたその男は職員を無理やりどかせると、
「大変失礼をいたしました、ターニー師マスター・ターニー‼」
「子どもに見えて悪かったね」
 憮然としてそう言い放つターニーは、それでも傍目では幼くボーイッシュな少女にしか見えない。職員が初見で見誤ったのも、無理からぬことだった。
 この国に於いて、ターニーは国一番の知名度を誇る。
 メラク王国では吸血鬼として畏怖されているデュラ、フェクダ王国にて魔女として畏怖されながらも別の顔では救国の商人として信望のあるソラ。メグレズ王国のアルテは勇者として崇拝されているハイエルフだし、アリオト王国のイチマルは姫巫女として国民に慕われている。
 だがそのどれとも違う種の敬意を、ターニーはここミザール国民から抱かれていた。
 国土の広い西のアリオト王国、東のベネトナシュ王国に比べミザール王国は国土が狭い。くわえて土壌も悪く、農産物は輸入でまかなわざるをえない小国だ。
 だがそれでもこの国が隣国に侵略されずに済んでいるのは帝国の一角というのもあるが、国の広域にわたって点在するターニー直轄の鍛冶工房による第二次産業が国の繁栄をもたらしているからである。
 その主な取引先は大陸随一であるフェクダ王国のソラ商会なのもあり、国の財政は帝国七ヶ国では常に上位をほこる。ある意味ターニーは、ミザール王室よりも重要な存在ともいえた。
 齢は約四千歳。デュラより千歳ほど年長で、ソラより千年ほど年少……六賢者では五女格の立ち位置ポジションである。そのターニーを知らぬこととはいえ子ども扱いしてしまったのだ、所長が慌てふためくのも無理はなかった。
 ちなみに次女格のティアは三女格のイチマルや四女、六女格のソラやデュラからは『ティア姉』呼びされているがターニーだけは呼び捨てにされている。ただ特に許可してるとかではなく、ティアとしては全員に呼び捨てにして欲しいと思ってはいるのだけど。
「まぁいいや。明後日の港までとアルコルまでの船賃、大人三枚ね」
「かしこまりました……じゃなくて、ターニー師なら無料でも大丈夫なのですが?」
 訝し気に首をひねる所長に、ターニーはすっかり機嫌が直ったのか笑顔で語りかける。
「おかげ様で儲けさせてもらってるからさ、ボクに還元させてよ」
「きょ、恐縮です……」
「大げさだなぁ」
 そう言って笑い、ターニーは所長のそばに控えていた先ほどの職員を一瞥する。
「ひっ⁉」
 自分がしでかしたことに震えていた職員が、卒倒せんばかりに飛び上がった。
「ボクの顔知らないのはいいけどさ、身長だけで子どもだって決めつけないでほしいな?」
 優しく諭しているつもりのターニーだが、褐色のこめかみに青筋が浮かぶ。身長だけでなくその童顔からも全然大人に見えないので、これはある意味無茶ぶりともいえた。
「も、申し訳ありませんでした!」
「まぁいいけどね……ティアですら、ときどき間違えられるらしいし」
 東の隣国・ベネトナシュは揺光の塔を守護する『始まりの妖精イニティウム・フェアリー』であるティアもまた一五〇センチと低めの身長で、二人はいつもつるんでいる親友同士であった。
「ってそういやクラリス皇女、十七歳だっけ……ねぇ、クラリス皇女は子ども料金だったかな?」
「……今なんて?」
「クラ……あ、いや。十七歳は大人料金だよね?」
「そうですが……」
(クラリス皇女殿下? 帝国の? 次期皇帝……の?)
 まさかドゥーベ市国の皇城にいる帝国の皇太子・クラリスの切符をターニーが買おうとしていると理解できないでいる所長だ、もし理解できていたら間違いなく失神してしまっただろう。
「切符はこちらになります。料金はいただきませ……いえ、合計で八万一千リーブラとなります」
 無料で切符を渡そうとしてターニーにジロリと一瞥され、所長が慌てて金額を言い直す。先ほどちゃんと払うと言質を残したのだから、ターニーとしては無料で受け取るわけにはいかなかった。
 切符を受け取り売り場をあとにするターニーだったが、
『グウウウウウゥ、ギュロロロロロロロ……』
 と派手に空腹を示す腹時計が鳴り響いた。周囲の人たちがなにごとかと振り返るほどの大音響だったのもあり、ターニーは顔を赤らめてうつむく。
「お腹すいたな、そばでも食べていこうかな」
 駅構内にある立ち食いそば屋『羽猫はねこそば』の立派なのれんをくぐり、食券売り場に並んで食券を買い求める。そしてふと目に入ったのは――『水色の魔法少女』。破廉恥と紙一重の露出の多い目立つ衣装で、豪快に立ち食いそばをすすっていた。
(あれは、ティアが言ってた『マリィ・ベル』……)
 ターニーは一度だけ、マリィを見かけたことがあった。
 それも、同じこの立ち食いそば屋で。そしてそのとき、なんともいえない『既視感デジャ・ヴュ』を覚え涙が止まらなかった。
 今回は二回目になるので、特にそういう心境の揺らぎはなかったものの……マリィの隣で同じく立ち食いそばを食べていたのは、『黄色の魔法少女』だ。
「あの子のことも、よく知っている気がする」
 だけどターニーとしての人生では、初めて見かけるはずの顔なのだ。
 この感情にどんな名前があるのかを、ターニーは知らない。知らないけれど、悠久の昔からかけがえのない友達だったんじゃないかとその追憶が訴えかけてくる。
(そういやティアが言ってたっけ、クラリス皇女の夢に出てくるという……)
 接触コンタクトを試みるかどうか、一瞬迷う。朋友の仲間、ティアから携帯型魔電スマートフォンでひととおりの情報は共有していた。
 それはもちろん、ターニー自身もまたリリィディアの一欠片であることも。
「明後日にはデュラとクラリス皇女がうちにくるっていうのに、さてどうしようか」
 正直、めんどくさいというのが本音である。だが自身の運命、仲間の運命を左右する重要な存在だ。
(当たって砕けろだ)
 ターニーは、食事中の二人に向けて静かに歩を進める。そして二人の背後に立って。
「こんにちは!」
 訝し気な表情で、マリィとララァが振り向く。そして一様にギョッと驚いた表情を見せた。
「リリィ……」
 思わず、マリィがそうつぶやく。
(リリィ、ね)
 知ってたはいたけど、改めて自分はリリィの一欠片なのだとターニーは嘆息だ。
「なにか用?」
 少し呆然としているマリィとは対照的に、ララァが険しい顔で応じた。
「あいさつしただけじゃん?」
 飄々とターニーはそう言ってのけ、ニッコリと笑う。そして、
「まぁ、『なにか用』とはこっちの台詞だけどね。ミザールここには、『誰目当て』で来たの?」
 気さくな表情で話しかけるターニーだが、目は笑っていない。
「……蕎麦が伸びちゃうから、あとでいい?」
 忌々しそうな表情でそう言うマリィに、
「どうぞ」
 とターニーは快く応じて……マリィの隣に立った。そして、食券をカウンターの上に置く。
「ちょっと、なんで横に来るのよ⁉」
「どこで食べようと、ボクの自由だろ?」
 そのただならぬ雰囲気に、ちょっと心配そうな面持ちで二度ほど振り返りながら店員が食券を持って行った。ターニーはそれを見届けると、
「『水色ちゃん』は、お蕎麦が好きなんだね」
「ティアみたいな呼び方するのね」
 マリィは憮然としてそう吐き捨てると、もう気にしないとばかりに蕎麦をすする。ララァは丼からおつゆを飲みながらも、視線はターニーから外さない。
 すぐにターニーが注文してきた蕎麦が来て、ドワーフと魔法少女の三人が並んで立ち食い蕎麦をすするというシュールな絵面ができあがった。
 もともと目立つ衣装のマリィ・ララァにくわえて、この国では有名人のターニーだ。どうしても衆目を集めてしまう。
「外で待ってるわ、お先に」
 最初にララァが食べ終えて店を出ていく。続いて、マリィも。
(ちゃんと待っててくれるかな)
 そんなことを思いながら、ターニーも急いで蕎麦を食べ終える。
「お待た……って」
 店の外には、マリィもララァもいなかった。予想どおりとばかりに、ターニーは苦笑いを浮かべて。
「逃げられちゃったかな」
 しばらくキョロキョロとあたりを見回してみるが、二人の影も形もない。しかたないので諦めて、ターニーもその場をあとにした。


「次は開陽の塔、ターニー師マスター・ターニーですね!」
 アリオトからミザールへは、魔石列車を利用することにしたクラリスとデュラである。その車中で、暇そうにしているデュラにクラリスが話しかけた。
 折しも列車は、両国間にまたがる大陸で二番目に大きな湖である『スワン・レイク』湖上の線路を疾走していた。
「ターニー師って、どんな方なんですか?」
「どんなつーてもなぁ。まぁ鍛冶の腕前だきゃー確かだな」
 そして列車のシートをトントンと指で叩き、
「この列車だって、ターニーが作ったやつだ」
「えぇっ⁉」
 正確にはソラ商会が受注を受けて設計、ターニーの工房が制作して納品したものである。
「ソラのところは『ゆりかごから墓石まで販売!』てのを売りにしてるが、『ゆりかごから墓石まで制作』してるのがターニーだな。商売に関しちゃあ、結構ソラとつるんでる」
「そうなのですか」
「帝室にもたくさんの品物をソラ経由で納品してるから、クラリスが気づいていないだけで身近にターニー謹製の品は転がってると思うぜ?」
「驚きました……ターニー師は、ソラさんと仲がいいんですか?」
「いや。ソラとターニーは仕事での相棒パートナーみたいなもんで、ターニーと仲がいいのはティア姉だな」
 そしてふとなにかに気づいた表情を浮かべる。
「そうだ、ターニーはチビだけど決して本人の前で言うなよ? 殺されかねん」
「言いませんよ! デュラは私のことをなんだと思ってるんですか⁉」
わりわりい、冗談だ」
 ムキになって反論するクラリスをなだめながら、デュラは大きな欠伸を遠慮なくかます。そして、
「すまねーが、ちょっと寝ていいか?」
「どうぞ」
 クラリスが快諾するのとほぼ同時に、デュラはあっという間に夢の中だ。
「寝つきいいですね……」
 ちょっと面白くなさそうに、クラリスがぼやく。列車が線路の継ぎ目を拾う音だけがリズミカルに響き、クラリスも眠くなってしまった。
「私もちょっとだけ」
 誰にともなくそう言って、クラリスも目をつぶる。一方で先に寝たデュラの夢の中――。
「まーたお前か、『黒いの』」
「……ちゃんと名前あるんですけど⁉」
 白い白い、どこまでも白い世界。上も下も右も左も、前も後ろもどこまでもが白い世界にデュラは立っていた。
 いや地面すらないのだから浮いていたという状態に近いが、それでも浮いているというよりはやはり立っていたのだ。そしてデュラが小馬鹿にしたように言葉を投げかけた相手は、リリィディア――『黒い魔法少女』だった。
「あー、リリィだっけね。私になんか用か?」
「なんだかあなた、失礼ですね‼」
「他人の夢に勝手に出てくるほうがどうかしてるだろ」
 あきれ顔でそう言うデュラに、リリィの顔が一瞬だけ曇る。
「他人、ではないでしょう?」
「……」
 その言葉の意味を、デュラは知っている。いま目の前にいる黒い魔法少女・リリィは魔皇リリィディアであり、そしてデュラでもあるのだ。
「で? 私になんの用もなく出てきたわけじゃないだろ、リリィディア」
「リリィでいいです、ディアってあまりいい意味じゃないので」
 すっかりご機嫌斜めのリリィは、ふてくされ気味に応じる。
 リリィが忌避した『ディア』という言葉。創造神である自分が産み出したロード、そのロードが作った天界の言葉で『忘れられし者』という意味を持つのだ。
 ロードそしてクロスに当てつけのように自称していたのは、魔法少女・リリィとして転生する前の『創生神にして魔皇』だったとき。今から気の遠くなるほど、悠久の昔だ。
 だが皮肉にも、魔法少女・リリィとしての転生体にても魔皇として覚醒してしまった。それから過去に一度だけ、この世界に再降臨を試みたことがある。
 だが無念にも、ロードが送り込んだ勇者・アルテミスによってそれは阻止されてしまった。そしていま再び、自分はこの世界に顕現することを欲している。
 その己が魂はアルテミスによって七つに分断されてしまった。これまで七つ目の魂だけがどこにも見当たらなかったが、十七年前にクラリス皇女が誕生して。
(もう誰にも邪魔はさせない……)
 自分が魔法少女・リリィとして、魔女という亜人の寿命を終えたのが十八歳のとき。完全な形で復活するには、七人の中で一番最年少のクラリスが十八歳になるのを待つ必要があった。
 だがすでに魔皇リリィディアとしての力を内包する身だ、自分が再びこの世に顕現するのを警戒している天界神・ロードと冥界神・クロス……とりわけクロスは、『手段を選ばない』強行手段に出た。
(いくらなんでも、マリィとララァを蘇生させるなんて‼)
 生命の尊厳を冒涜し、生々流転のことわりを覆すそれは暴挙ともいえた。そしてクロスのその決断に対して、ロードも強くは反対していない。
(ロードがもっとも嫌うやり方なのに!)
 つまりロードもまた、自分リリィを再封印しようと考えている敵なのだ。
「急がなきゃいけない……」
 思いつめた表情で、リリィは拳をギュッと握りしめた。
「あん?」
「いい、デュラ。よく聞いて……マリィとララァが、あなたたちを狙ってる」
「それって、あの黄色いやつと水色のやつか?」
 ララァはすでに接触コンタクトしてきているが、マリィに関しては立ち食い蕎麦屋で見かけただけにとどまる。
(ティア姉とイチマルはマリィとやらに会ってるんだっけ)
 そんなことをなんとなく思っていたら、目の前にいるリリィの表情が芳しくない。
「……もう会ってんの?」
「ララァってのには会った。マリィてあれだろ、ティア姉にストーカーしてたやつ」
「まぁそうね? とにかく、私の復活を阻止したい連中があの二人を送り込んできたの」
 ここまでは、デュラも予想どおりだ。ロードが言っていた、クロスからの刺客というのがその二人なんだろうと。
「一つ訊いていいか?」
「どうぞ」
「リリィ、あんたが復活したら……私たち七人の自我はどうなるんだ?」
 そのもっともな質問に、リリィの肩がビクッと震える。そして、
「……消えるわ」
 と小さくそのひとことだけ、なんとか絞り出す。その苦渋の表情は、もうしわけなさでいっぱいで。
「へぇ?」
「……」
 だがこれも予想したとおりだったから、デュラは狼狽した様子も見せない。
「じゃあ私らも、あんたの復活に反対だとしたらどうする?」
「それは、七人全員の意見なの?」
「確認しちゃいねーけど、消えたがるお人好しはいねーよ」
「それは……」
 うつむいたままのリリィと、それを見つめるデュラ。しばらくそうしていたが、やがてキッと顔を上げるリリィ。
「……クロスは、あなたたちの意思なんて考慮しないわ。油断してるとその命、簡単に取られちゃうから注意するのね」
「あ、ちょっと待っ……」
 そう言い捨てて、リリィは姿を消した。まるで最初から、そこにいなかったかのように。
 そしてどこまでも白が続く世界が戻り、間を置かず聴こえてきたのは。
「デュラ、デュラ起きてください! そろそろ到着します」
「ん……クラリ、ス?」
 列車の座席にもたれかかったまま寝ていた自分の身体を、クラリスが揺さぶっている。周囲は降りる客が荷物をまとめていたりして、少しせわしい。
「はぁ、最低な夢だぜ」
 そう言って、両手を上に伸ばして背筋を伸ばす。車窓の外は列車が減速を始めたのもあり、流れる景色はなだらかだ。
「消える、か」
「え?」
 まぁそりゃそうだろうなとは思いつつも、改めて突き付けられた現実にデュラの表情は晴れなかった。忌々しそうに、ギリッと歯を食いしばるぐらいしかできない。
『間もなくゼータ、ゼータ駅です。お忘れ物のないようご注意ください』
 車内アナウンスが鳴って二人、席を立つ。すでに列車はゼータ駅のホームに入線を始めていて、車窓から見える行きかう旅人たちの姿がゆっくりと流れていく。
(そういや水着を買えつーてたな、イチマル)
 そんなどうでもいいことを思いながら、デュラはスタスタと列車の出口へ歩を進めて。
「あん、待ってくださいよー」
 慌ててクラリスが後を追う。
 残る賢者は、ここミザール王国は開陽の塔・ターニーとベネトナシュ王国は揺光の塔・ティアの二人のみだ。旅の終わりが、近い――。


「よぉ、クソチビ!」
「ちょっ‼ デュ、デュラ⁉」
 原初のドワーフ・ターニーが住まう開陽の塔、その一階玄関に足を進めたクラリスとデュラの前に立っていたのは、むろんターニーその人である。
 そしてそのターニーに、不遜な言葉を投げかけたのはもちろんデュラ。
『そうだ、ターニーはチビだけど決して本人の前で言うなよ? 殺されかねん』
(って言ってませんでしたか、デュラ⁉)
 クラリスはそれを思い出して、冷や汗が止まらない。いや仲間同士だからいいのかと思い直し、恐る恐るターニーの顔色をうかがう。
(同じ賢者同士、軽口をたたきあう仲なのかもしれない)
 だがクラリスのその期待は、無残なまでに打ち砕かれる。
「OK、デュラ。殺し合いを始めようじゃないか‼」
 両こめかみに青筋を浮かべて、もはや臨戦態勢のターニーである。右手には、柄の部分が二メートルはあるであろうハルバード。
 その刀身はターニーの肩幅よりも広く、やや黒ずんだ銀色の刃が陽の光に反射して禍々しく煌めいていた。
「あ? 殺し合い? おもしろいじゃないかっ‼」
 目を血走らせ、デュラの全身からドス黒い瘴気が噴き出す。深紅の瞳がギラギラと輝き、大きな蝙蝠の羽さが左右に広がる。
 頭髪が逆立って揺れ、もはやデュラもまた戦闘モードだ。自分から戦端を開いておいてコレである。
「待って、待ってください‼」
 慌てて二人の前に立ちはだかるも、クラリスは死を覚悟した。脳内で、これまでの思い出が走馬灯のように蘇る。
「あん? 君がクラリスかい」
「はっ、はひぃ~……ターニー師マスター・ターニー、お初にお目にかかります。クラリス・カリストと申します」
「ターニーでいいよ。ところでその後ろにいる『害鳥』はなんて種類だい?」
「ほざけ! クラリス、どきな」
「イヤです‼ みんな仲良く!」
 クラリスは自分でもなにを言っているのかわからないぐらい混乱していたが、少なくとも塔の賢者レベルの人間(?)が本気でぶつかったらどうなるのか。それは想像しただけでも恐ろしかった。
(街の一つや二つ、吹っ飛んじゃうかも⁉)
 というか自分がその対峙する二人の中間にいるのである、クラリスは生きた心地がしなかった。
「しかたがないなぁ……デュラだって本気じゃないでしょ?」
「もちろん。久しぶりだな、ターニー‼」
 デュラがターニーに駆け寄り、二人で肩を組み笑いながら親交を温める。そしてそれを見つめるクラリスの視線は、永久凍土よりも冷え切っていた。
(いつかこいつら殺そう)
 そう静かに殺気を燃やしちゃうほどに。とりあえずプンスカと不機嫌なクラリスをデュラとターニーが二人がかりでなだめながら、塔内の階段で最上階を目指す。
 そしてターニーの居室に到着、鍛冶師なだけあってかあちこちに鉱物や工具が無造作に置かれてあった。ターニーはそれらを簡単にどかしてなんとかスペースを作ると、煎餅のような薄い座布団を三つ床に。
「どうぞ、ちらかってるけど」
「見ればわかる」
 またしてもピリつく会話をする二人に、クラリスの気もそぞろだ。だがお互い特に他意はないみたいで、ホッと胸を撫でおろした。
「で、試練だっけ。もうめんどくさいから、先にティアのとこに行ってもいいよ?」
 あっけらかんとそういい放つターニーに、クラリスは一瞬だけ虚を突かれてしまった。だが、
「あれは……もうちょっと、なんつーか」
 なぜかデュラがそれを受けて言い淀む。そして、
「あぁ……」
 とターニーも納得して応じているのが、クラリスには意味がわからない。
「あの、ティア師マスター・ティアがなにか?」
 手を小さく挙げて、恐る恐る口をはさむクラリス。
「ん? あぁ、ティアは人間嫌いだからね。デュラが後回しにしたいのもわかるなぁって」
「そうなんだよな。ティア姉てば、人間に対してはサイコパスなとこあるから」
「……」
 これ以上、掘り下げるのはもうやめようと決意したクラリスである。
「まぁいいや。せっかく切符も用意したからね、それじゃ行こうか!」
「え、どこにですか?」
「アルコル諸島自治区。このミザールの南沖にある、小さな島国だね」
 そう言いながらターニーが世界地図を広げる。
 七ヶ国から構成されるカリスト帝国の、南側に位置するクーレ海。そのちょうどミザール王国の南沖に、帝国民としては本当の意味での外国となる『ヤーマ諸島連合国』が存在するのだが……地図上では、『アルコル諸島自治区』と記載されていた。
 そしてこれがターニーが投げかける試練に大きな関わりを持つことを、この時点でクラリスはまだ知る由もなく。
「なんでアルコル行くのさ?」
 あらかじめイチマルの口からは聞いていたとはいえ、その理由はデュラも知らなかった。
「ん? アルコルはリゾート地が多いからね、海水浴に温泉なんでもござれだよ」
(そういやイチマルも言ってたな、それ)
 だがターニーの真意がわからなくて、クラリスとデュラは首をひねる。
「あの、試練……なんですよね?」
「そうだね? 行けばわかるよ……『行けたら』だけどね」
 そう言うターニーの目が笑っていないことに、地図に目を落としていたクラリスは気づかなかった。だがデュラはそれに気づき、険しい視線をターニーに送る。
(『行けたら』って、どういうことだ?)
 だが本来、イチマルが言ってたように自分がこの場にいるのはイレギュラーなのだ。クラリスを過分に助けるわけにもいかない。
「じゃあそうと決まれば、出発しゅっぱーつ‼」
 そう言って、満面の笑みでターニーが立ち上がる。
「あ、はい!」
 ターニーの盛り上がりテンションっぷりに、惑いながらもクラリスが応じて。
(水着は、ビキニかワンピか……)
 デュラだけはすでに海水浴モードで、己が脳内で葛藤していたのだった。
 そして塔を出て、ゼータ駅から港へと向かう魔石列車に乗る。あらかじめターニーが切符を用意していたので、スムーズに改札内に入ることができた。
(ターニー)
(ん?)
 まだ列車は発車待ち中、いつのまに入手したのかクラリスはアルコルのガイドブックに夢中で。そのクラリスに届かないように、ターニーにのみデュラが念話を送る。
(あれを見ろ)
 そう念話を投げかけて、あごでクイッとホームを見るように促すデュラ。
 クラリスがガイドブックに夢中になってるのを確認し、自分にしか届いていない念話だと察するターニー。デュラが、無言でうなずいた。
(水色ちゃんに黄色ちゃんだね)
 デュラに促されるままに車窓の外、ホームの光景に目をやるターニー。マリィとララァの二人が、小さく視認できるくらいの距離を保ってこちらを見ている。
(うっざいなぁ、ほっといてくれればいいのに)
 本当に鬱陶しそうな表情をターニーが浮かべる。そしてデュラもまた、苦虫を噛み潰したような表情で。
(まったくだ。ターニーの試練中に仕かけてくると思うか?)
(どうだろうね、邪魔はしてほしくないな)
 二人が険しい表情でそんな念話をかわしている間、クラリスは相変わらずガイドブックに夢中だ。そして、
「ねね、デュラ! アルコルでは家の中に入るときに、どこの家でも玄関で靴を脱ぐそうです!」
「知るかボケ‼」
 能天気なクラリスの様子に、思わず罵声を返してしまうデュラである。だがクラリスは初めて行く外国なのもあって、デュラのそれをものともしない。
「しかもこの美味しそうな海鮮料理シーフード! 魚の切り身を生で食べるそうですよ⁉」
 そう言いながらガイドブックの写真を指差して、クラリスの興奮は絶頂である。
「あー、サシミってやつだな」
「デュラは食べたことあるのですか? 生ですよ⁉」
 そんな二人のやり取りを見て、ターニーは失笑を禁じ得ない。ここは自分もとばかりターニーが口を開く。
「クラリス、そんなので驚いてたら『生卵』でもっとびっくりするよ?」
「生卵、ですか……どうやって調理するんです?」
 そのピントのずれたクラリスの発言に、ターニーとデュラは顔を見合わせて。
「いやだから、生卵を食べるんだよ」
「私は蛇じゃないのですが……」
 クラリスとしてはターニーの教示に対して真面目に答えたつもりだったが、それを受けてデュラが吹き出した。
「コメ料理に、そのままかけて食うのさ。クラリスは生卵は初めてか?」
「そもそもそれは料理とはいえないのでは?」
 クラリスの虚しい抵抗が続く。皇女であるクラリスの住まう姫宮での料理は毒見役がいて、しかも食中毒防止のために火がしっかり通してあるものばかりだ。
 SSランクハンターとして野営することもあるが、なおのこと火をしっかり通さないと食中毒どころじゃすまない……クラリスはそういう食生活を送ってきた。
「ま、これも勉強だ。海で泳いでサシミ食って、TKG卵かけご飯食って温泉入って酒飲んでさ? ここは楽しんだ者勝ちだぜ」
 すっかり旅行気分のデュラに、
「試練とは……」
 クラリスの悩みは尽きない――。


 三人は開陽の塔を出てゼータ駅、そして魔石列車にて終点である港湾都市・ブルーウッズを目指す。通商の盛んな港町だけあって、駅前がもう港のターミナルだ。
「船の切符はもう買ってあるから、水着とか選んできなよ」
 そうターニーが声をかける。港湾施設の二階がショッピングエリアとなっていて、さまざまな店があるようだ。
「なぁ、ターニー」
「なんだい、デュラ」
「本当にアルコルで、泳いで温泉入ってお酒呑んで終わりなのか?」
 んなわけないだろと、白い目でターニーがデュラを見つめる。
「だよなぁ。もう試練、始まってるか?」
「どうだろうね?」
 二人がそんな立ち話をしている間、すでにクラリスは水着売り場へ直行している。さすがはSSランクハンターだけあって、デザインよりも機能美が重視のようだ。
 とはいえ皇女たるものはと方々から説教が飛んできそうな露出の多いビキニが好みのようで、さっそく二つの製品を手に取って鏡の前で合わせてはあれでもないこれでもないと唸っていた。
(ま、泳げたら御の字だけどね)
 その様子を見ながら、ターニーがほくそ笑む。そしてその表情をさらにデュラが見て、顔をしかめた。
「なに考えてやがる……」
 結局クラリスは淡いグリーンの、スポーツタイプのビキニを購入。デュラは黒地のホルターネック・ビキニをチョイス。ターニーは自宅から持参しているらしく、なにも買わなかった。
「じゃあ、行こうか」
 ターニーを先頭に、三人。アルコル諸島行きの船では海上の国境を超えるので旅券パスポート査証ビザはもちろん、手荷物チェックなどがある。
 すべてのチェックをクリアして初めて、桟橋に足を運べるのだけど。
「えっ、クラリス……皇女⁉」
 港の保安検査員は、あまり顔の彫りが深くなく黒髪で黒い瞳だ。ポラリス大陸ではめったにいない人種で、アルコル諸島に住まう種族の特徴である。
「あの、失礼ですが……本物の……?」
 そりゃそういう反応は当然だろう。帝国の皇太子であるクラリス皇女が、一般乗客に紛れて入国しようとしているのだから。
「旅券も査証もありますよ?」
 だがクラリスとしてはアルコル入国に際して必要な物はすべて用意していたつもりだったから、保安検査員の態度に惑うばかりで。
「まぁそうなるよなぁ……」
 そう言ってデュラは、チラとターニーを見やる。ターニーはなにやら意味深な笑みを浮かべていたが、デュラの視線に気づくとすぐにそれを改めた。
「あ、あのどうぞこちらへ! お、お供の方も」
 なおもキョトンとしているクラリス、面倒くさそうなデュラに……ターニーは予定どおりといった塩梅の三人が通されたのは、港のVIPルームだった。
「お初にお目にかかります。ヤーマ諸島連合国の入国審査係管長、ユルサー・ヘンディと申します」
「あ、ども……クラリス・カリストです」
 なにがどうしてこうなったのか、さっぱりわからないといった体のクラリスだ。ヘンディと名乗った男は、その目の奥が笑っていなかった。
「見た目はアルコル人だよね。名前は偽名?」
 涼しい顔で、ターニーが放言してはばからない。ターニーの真意がわからないので、デュラは無言でそれを見守っている。
「あぁ、本当の名前はこちらの国の方は発音しにくいので大陸風の通名を名乗っております。もちろん、カリスト帝国に認可をいただいておりますよ」
「ふーん。ボクはターニーで、そっちがデュラ。ボクとデュラのことについては、説明はいらないよね?」
「もちろんです、開陽の塔のターニー師と天璇の塔のデュラ師でございますね。お二人は問題ございませんが……」
「私⁉」
 クラリスが、素っ頓狂な声をあげる。
「恐れながら殿下、ヤーマへの入国理由……本当の理由をおうかがいしても?」
「ええと……」
 クラリスが困ったように、ターニーの顔色をうかがう。彼女としてはターニーに言われるがままに入国しようとしたのであって、温泉や海水浴が主たる目的じゃないことはわかっていた。
(つーか、試練のことは言っちゃっていいんだろうか?)
 しばらく悶々と悩んでいたが、ターニーからは助け船が出そうになかった。そしてそれはデュラからも。
「もっ、もちろん観光です! 温泉と海水浴、楽しみです‼」
 非常に狼狽しながら言い放ったものだから、誰がどう見ても嘘をついているようにみえた。もちろん、ヘンディもそれを信用する気はないようで。
「本当の理由を、とおうかがいしています」
 とこちらも、一歩も引かない構えだ。
(そりゃ帝国の皇族それも次期皇帝が、小さな島国に私らを携えて入国しようってんだ。国防の観点からも、そうやすやすと入れないよなぁ)
 そんなことを思いながら、デュラが嘆息する。そして、不意に理解したのだ。
「なるほどな、これが試練か」
 小さくつぶやいたつもりだったが、それはターニーの耳にも入ったようで。
「そうじゃないとは言わないけどね」
 こちらもデュラにだけ聴こえるように。
「あの、私が観光旅行にアルコルへ行くのは問題があるのですか?」
『大ありだよ!』
 奇しくもデュラとターニー、そしてヘンディの脳内から発せられる叫び声シャウトがハモった。
「大変失礼ですが、これは国家間の問題なのです殿下。まずはこちらの首長に連絡をいただいてですね、それ相応の用意をしてからでないと入国を許可いたしかねます」
「えぇ~?」
「もちろん滞在中の日程はこちらでも把握させていただきますし、警備の都合もありますからご宿泊先もこちらが用意いたしますので……そうですね、一週間ほどお待ちいただけますか?」
 不満げな表情を浮かべるクラリスだったが、そりゃそうだとばかりにデュラは納得顔だ。そしてターニーは、ニマニマと不気味な笑みを浮かべている。
(これが試練か? ターニー)
 デュラが、ターニー限定で念話を送る。
(一週間待つだけでいいなんて、試練と呼べないでしょ。まぁ第一関門であることは確かだね)
(……食えないガキだぜ)
(ボクのほうが年上だからね⁉)
 はたから見ると無言で見つめあってるだけにしか見えないから、そんな二人をクラリスとヘンディが訝し気に見ている。
「わかりました、一週間待ちます。こちらで待機すればよいですか?」
 諦めたように嘆息して、クラリスが告げる。こうなるんだったら、事前に打診しておくべきだったと後悔するも後の祭りだ。
「そうですね……こちらでご用意する船舶にてトキオ沖で船上待機されても構いませんし、サイトベイ港でしたら待機入国者専用の宿泊施設がございますがいかがなさいますか?」
 トキオとは、アルコル諸島自治区改めヤーマ諸島連合国を取りまとめる都市国家だ。サイドベイ港とは、トキオから少し離れた場所にある通商の盛んな軍港である。
 どうしようとばかりに、クラリスが振り向く。デュラは自分には選択権がないとばかりにそっぽを向き、ターニーはどうでもよさそうだ。
「あの、一番そちらに迷惑がかからないのはどれでしょうか?」
 二人からの助け船が出ないので、クラリスとしてはそう言うしかなかった。
「いえ殿下、こちらのことはどうかお構いなく……」
(あれ?)
 クラリスは、ヘンディの手が小刻みに震えていることに気づいた。誰かを恐れている? ターニー、もしくはデュラをだろうかと。
「じゃあそうですね、トキオ沖で待機しましょう」
「かしこまりました。船を用意するまで三日かかりますので、ミザール王国にてお待ちいただけますか?」
「三日⁉」
 またしても素っ頓狂な声をあげるクラリスに、
「そりゃそんぐらいかかるだろうよ。仮にも他国の皇女さま、しかも皇太子殿下を乗せる船をパパッと用意できるかっての」
「そのとおりでございます……」
 デュラのツッコミに、額からダラダラと流れる冷や汗を拭いながらヘンディが応じた。
「参考までに訊くけど、サイドベイ港の宿泊施設とやらはすぐにチェックインできるのか?」
 クラリスが使い物にならないと見て、デュラが代表して訊く。
「そうですね……警備の都合上、最低でも四日いただけたらと」
「四日……」
 クラリスは、少しいら立ち始めていた。そりゃ自分は大陸の皇族ではあるけれど、公務でもない完全な私用でこうも待たされるのかと。
「しゃーねーな。こっちで大人しく一週間待つほうがよくね?」
「だねぇ」
 デュラとターニーのやり取りに、ヘンディが心の底から安堵したように大きく息を吐いた。そしてクラリスは初めて、それを理解する。
(そうか、震えていたのは……私が怖いからなんだ)
 仮にも七ヶ国を擁する帝国の皇太子、次期皇帝なのだ。不手際があったら、ヘンディの首が物理的に飛ぶ。
 それどころか最悪、戦争の火種になってもおかしくないのだ。
「わかりました、そうします。ターニーさん、とりあえずは引き返しましょうか」
 皇女という身分である以上、ここブルーウッズの港湾都市においても宿泊先に迷惑がかかるだろう。ならばいったん開陽の塔へ戻ろうと、クラリスは考えたのだ。
「しかたないね、そうしよう」
 こうなるとわかってたとばかりに、ターニーが意味深な笑みを見せて同意する。
「ったく、性格悪いぜ……」
 デュラが小さくつぶやいたそれに、ヘンディがビクッと反応した。この言葉はターニーに投げかけたものだったが、勘違いしてしまったのだ。
「大変もうしわけございません!」
「いや、あんたに言ったわけじゃ」
 滝のような汗をぬぐいながら、平身低頭のヘンディの顔色はもはや死人レベルで青い。
「うぅ~、温泉……海水浴……」
 席を立ちながら、クラリスが未練がましくつぶやく。
「ガキか!」
 呆れたように、デュラが嘆息して。かくして三人、開陽の塔へとんぼ帰りすることになったのだった。


「おい、ターニー。お前、こうなることわかってたろ!」
 塔に帰還するなり、早速とばかりデュラが詰問する。だが激高しているデュラとは対照的に、ターニーは涼し気な表情で。
「むしろ、なんで普通の観光客として行けると思ったのさ? デュラはともかくクラリスは、皇女として生まれて育ってきたんだ。そのぐらいわかりそうなもんだけど?」
「ほざけ!」
 互いの見解を旗印につばぜり合う二人を前にして、クラリスは黙りこくっている。
(ターニーさんの言うとおりだ……)
 気軽に城下へ出向くというかお忍びで抜け出しては、正体がばれて大騒ぎなんて一度や二度ではない。近年はそれがイヤで、城下へ抜け出す回数も少なくて。
「でもまぁ、一週間待つだけだよデュラ。といって、ここから帝都に連絡して皇室から許可をもらってあれやこれや……はっきり言って情報伝達にかかる時間を鑑みなかったとしても一週間はタイトなスケジュールだ」
「まぁな……魔導通信ホットラインがあるだろうからそこは考えなくてもいいだろうが」
「まぁゆっくりしてきなよ。ここだけの話、揺光の塔はいま留守だよ」
「ティア姉、相変わらずだな」
 ターニーからの試練を合格したとて、次に向かうはベネトナシュ王国は揺光の塔。旅の最終目的地なのだが、ターニーの弁によるとティアは不在とのことだ。
「いなけりゃいないで不戦勝にするさ。ディオーレのときもティア姉はいなかったろ」
「そうなんだけどね。ボクからの試練を乗り越えて」
 ターニーはそこまで言って、クラリスがこちらに注意を向けていないのを確認すると小声になる。
「クラリスたちがベネトナシュへ向かったら、魔電で教えてくれって言われてる」
「ティア姉にか?」
「うん」
 デュラの顔色が、曇る。人間に対して嫌悪しているティアとは、できれば会わせたくなかったのだ。
(まいったな……)
 だが、ティアばかりが難題というわけでもない。デュラは、玉衡の塔で言われたイチマルの言葉を思い出す。
『そうですね……もし「前回」と同じ試練であったらば、クラリスさんは闇落ちしちゃうかもしれませんね?』
(ターニー、なにやらかすつもりだ?)
 だがターニー、ティアと試練を潜り抜けたとしても、最終的に保留にしている自分からの試練がある。そしてそれこそが、クラリスにとって業火に焙られるがごとく苦しい選択を伴う――すでにデュラは、クラリスにどういう試練を投げかけるかを決めていた。
「まぁいいや。あらかじめ訊いておくが、アルコルではもっとヤベーことが待ってんだよな?」
「ノーコメント」
「お前なぁ……」
「アルコルの人たちが『それは当然』とか『しかたない』って思ってることを、クラリスが受け止められるかどうかだね」
「……」
 デュラには、ターニーがクラリスにどんな試練を投げかけるつもりなのか皆目見当もつかない。だがターニーのその言い方から鑑みて、またイチマルの忠告とも合わせて『それ』がクラリスにどのような影響を与えるのかが怖かった。
 チラと、横目でクラリスを見る。クラリスは二人の会話なぞ興味ないとばかりに、持って帰った荷物から水着を出して……部屋の壁面にある大きな鏡の前であててみたりしてポヤポヤしていた。
「……ちょっと殴ってくる」
 こめかみに青筋が浮いたデュラが頭から湯気を噴き出しながらクラリスに歩みよるのを見届けたターニー、ゴクリと生唾を飲み込んで。そして間を置かず聴こえてきた、
『ボコッ‼ ドカッ‼ ガシャーン‼』
 という大きな音に、背をすくめてみせた。
「おーい、殺しちゃダメだよ……」
 その声は、デュラに届いたかどうか。
 そんなこんなで一週間、改めて三人は港へ向かう。すでに話が通っているだけあって、スムーズに桟橋に出ることができた。
 だが周囲にほかの乗客は皆無で、ものものしい警備兵たちが一列に揃ってうやうやしく一行を護る。
「旅行って感じがしませんねぇ」
 少しおもしろくなさそうにそう言うクラリスに、
「最初から旅行じゃないだろ」
 とデュラがツッコむ。ターニーは、ちょっと忌々し気な表情で無言だ。
(クラリス、君の次の試練は船上だ)
 知らぬはクラリスとデュラばかりなりだ。
 たった三人の乗客にしては不釣り合いな大きな客船が停泊していて、そこに案内される。乗り込むと同時に、警備兵たちもわらわらと後に続いた。
「軍艦かよ」
 そうツッコむデュラに、
「帝国の皇女になにかあったら大変でしょ」
 呆れたように、さも当然とばかりにターニーが言ってのけた。クラリスは、複雑そうな表情だ。
 一行は案内された船室で、ソファーに腰を下ろす。乗客がたった三人だけにしては広すぎて、並ぶ調度品も豪奢なつくりの物ばかりだ。
 気のせいかキラキラとあちこちが輝いていて、奥に部屋も複数あるようで。
 そしてここまで案内してくれた職員……どう見ても身分の高そうなアルコル人が、口を開いた。
「まずご説明させていただきます。殿下一人ではデッキに出ないようにお願いします」
「え、なぜですか⁉」
 惑うクラリスに、こればかりは当然とデュラがうなずいた。
「当たり前だろ。狙撃されたらどうすんだ」
「海上で、ですか?」
「一海里(約一・八キロ)も離れた船からでも、最新式の魔導小銃ならデッキの人間一人なら照準の範囲内だ。なんだったらデッキを爆破してもいいわけだしな」
「……わかりました。ですが、デュラと一緒ならよいですか?」
 チラと案内人に一瞥をくれて、確認するクラリス。案内人は、
「まぁデュラ師ほどの方が同伴されるなら……」
「ありがとうございます」
 そのやり取りを無言で見守っていたターニーが、横から口をはさむ。
「ボクからも確認だけど、クラリスが来訪することをアルコル側はどう捉えているの?」
「それは……観光を目的とした視察旅行であると」
(嘘だな)
 デュラの深紅の瞳が光る。なにより、案内人の目が笑っていないのだ。
(観光旅行、って言えばいいものを……観光を目的とした『視察旅行』ね)
 帝国の庇護下にあるとはいえど外国は外国だ、アルコルもといヤーマとてそれを快くは思っていないだろう。過去に何度か、帝国とは小さな小競り合いレベルの戦争はしかけたことがあるのだ。
「それでは、ごゆっくり」
 案内人が、船室を出ていく。と同時に、デュラとターニーがガッと立ち上がった。
「ターニー、わかるか?」
「うーん、四つぐらいかなとは思うんだけど」
 その二人の緊張した面持ちでの会話を見て、クラリスは首をひねる。
「なにが四つなんですか?」
 だがその問いに二人はなにも応えない。デュラにいたっては、指に人さし指をあててシーッのジェスチャーだ。
 ターニーが無言で机上のペンを手に取ると、用意されていたメモ用紙になにごとかを書き連ねた。そしてそれを、クラリスに見せる。
『ボクら二人がなにをしても、見なかったことにしてこの船室を褒めちぎるひとり言をつぶやいてて!』
 なんのことかわからなかったが、ターニーが無言でうなずくのを見てクラリスもそれにならう。
「まぁ、デュラ! 見てください、このチェスト。帝国では見ない意匠です」
 少しわざとらしかったが、そう声を張り上げるクラリス。そして花瓶が綺麗だのお茶が美味しいだのと一人でしゃべりまくクラリスをよそに、デュラとターニーは無言で家探しだ。
(なにを探しているんでしょうか?)
 そんな二人を不思議そうに見ながらも、ターニーに言われたとおり一人芝居を続ける。さすがに十分も過ぎたあたりでネタがなくなり、
「まぁこの床の木目、不思議な模様ですね!」
 だの、果ては窓枠を指でツーッとなぞって、
「ここは掃除が行き届いていませんね⁉」
 とまるで嫁いびりをする姑さんのようなことを言い出す始末。たまらず、ターニーが口を押えて吹き出した。
(なにやってるんだか)
 デュラはあきれ顔だ。そして、
(うえぇ、もうネタ切れですぅ~!)
 そんな情けない表情を、二人に向けるクラリス。デュラとターニーは顔を見合わせると、無言でうなずきあって。
「もういいだろ、お疲れクラリス」
 そう労いの言葉をかけるデュラと、
「いやぁ、面白かったよ!」
 ターニーはそう言いながら握りしめた拳の中にあるものをデュラに手渡す。それを受け取ったデュラは、自身もまた握っていた『それら』と一緒にした。
 小さな、木の実のような大きさの金属製の魔導機械。そしてクラリスは、それらに見覚えがあった。
(盗聴器‼)
 合計五つ。ターニーが事前に察知した四つよりも一つ多い。
 と言ってもターニーは探す前からそこまで察していたのだから、まさに人を超越した存在であるといえるだろう。二人は、盗聴器を探していたのだ。
(どうする?)
 デュラが、念話を二人に飛ばした。
(ボクたちが決めていいことじゃない。クラリスに任せようよ)
 そうターニーが応じる。念話といっても、デュラとターニー間は双方向通信だがクラリスは違う。
 デュラやターニーからクラリスに念話を飛ばすことはできるが、クラリスからの発信は二人に届かない……はずだった。
(ことを荒立てたくはありません。デュラ、壊してくれますか?)
(わかった)
 クラリスのその念話を受けて、デュラが盗聴器のレシーバーを握りつぶした。それを見届けてクラリスは安堵のため息をもらす。
「ちょっと、お花摘みしてきます……」
 さすが豪華な船室だけあって、この船室内に専用のトイレがある。そしてクラリスの姿が見えなくなったのを見計らって、ターニーが口を開いた。
「デュラ、どういうこと⁉ クラリスって人間でしょ?」
「言うな。私も驚いてるんだ」
 二人の顔は、真っ青である。先ほど、確かにデュラとターニーはクラリスの念話を受信した。
 塔の賢者である六人の間では、それが可能だ。そして届けるだけならば、賢者間である必要がない。
 だが二人が受信、つまり六人以外が発信したものを受信というのは非常にイレギュラーな事態であった。
「多分だけどさ、ターニー」
「うん?」
「私『ら』……太古の昔は同一の存在だったわけじゃんか」
「あ‼ リリィディア?」
「私は吸血鬼だし、ソラは魔女。アルテ姉はエルフでイチマルが妖狐。ターニーがドワーフでティア姉が妖精……しかも、しかもだぜ?」
「なんだい?」
「今のこの時代、少数ではあるが吸血鬼もエルフもドワーフも妖精もいる。まぁ魔女と妖狐は知らんけどさ」
「あぁ、デュラの言いたいことはわかるよ。いずれも今の時代とは違う、太古の種族だよね……でも、それが?」
 真祖の吸血鬼トゥルーヴァンパイア原初のエルダードワーフ、始まりの妖精イニティウム・フェアリー。いずれもデュラとターニーそしてティアで、自らと同じ種族は現代の時間軸で一人ずつしか存在しない。
 くわえてハイエルフは亜人ならぬ亜神で、魔女なんてとうに途絶えた失われた種族ロスト・ジーナスだ。妖狐にいたっては神話である。
「だからクラリスも、最終的に人間じゃなくなる……とはソラの見立てだ」
「進化する、と?」
「覚醒といってもいいかもしれん」
 だがまだあくまで、推察にすぎない。だがさほど突拍子もない見方ではないうえに、
「もしクラリスがそうなったら……それがトリガーになっちゃうのかな?」
「リリィ復活のか?」
「……」
 信ぴょう性が高いその推察に、二人の表情は重い。『その日』はいつか、本当にやってくるのだろうかと。
『キーン……』
 不意に感じた違和感で、デュラの顔色が変わった。
「な、なんだ⁉」
 と同時に、クラリスも青い顔でトイレから飛んできた。
「今のはなんでしょうか?」
 まだ途中で慌てて出てきたのか、クラリスの片ひざのところで脱ぎかけたパンツがひっかかっている。
「いや、まず履け」
 とりあえずツッコむデュラである。それに気づいて赤面したクラリスがパンツを履き直している間、ターニーはさほど表情を変えていなくて。
「いま感じた、なんか結界を破ったような違和感……ターニーお前、知ってるだろ!」
 ターニーに、不穏な表情でデュラが迫る。
「怖いなぁ」
 そう言って苦笑いをもらし、両手でそれを制するターニー。そして、
「クラリスが海上の国境を越えたんだね」
 しれっとそう言ってのけた。
「えっと? なんか音みたいなのが聴こえたんです。ピーンというかキーンというか」
「音じゃねぇ、超音波だ」
「ふーん、そうなんだ。ボクには聴こえなかったな」
 うさん臭そうにそう言うターニーの顔色をうかがうデュラだが、それが嘘じゃないことがわかる。
「だとしても、なんで平静を装えてる? クラリスが海上の国境を越えたってなんだよ」
「仮にも帝国の皇族が国境を越えてきたんだよ。アルコル側としても、侵略されたらたまんないから普段から警戒ぐらいはするでしょ」
「結界、か?」
「だね、しかもこの一週間は無関係。もう何百年も前からアルコルは帝国を警戒して海上の国境沿いに結界を張ってる」
 ターニーのその発言を受けて、クラリスの顔色が冴えない。
「何百年も……でもそれって、範囲を考えるとかなりの魔力を消費するはずでは」
「そうだね?」
 少し悲しそうな表情で、ターニーが同意する。そしてそれを見て、デュラはすべてを悟った。
(そういうことかっ‼)
 そのとき、ひときわ大きな汽笛が鳴り響いて不意に会話が途絶えた。
(まったく、なんて題材ネタを試練にしやがるんだこのチビは!)
 デュラは今すぐにでも、クラリスを連れて引き返したかった。これは温泉だの海水浴どころじゃない、それどころか……。
『そうですね……もし「前回」と同じ試練であったらば、クラリスさんは闇落ちしちゃうかもしれませんね?』
 今ひとたび、イチマルの発した言葉がデュラの脳内をリフレインする。もしこの事実をクラリスが知ったら、言葉どおりクラリスの精神メンタルは崩壊してしまうかもしれない。
 だが同時に、クラリスが次期皇帝となるならば知っておかなくてはいけない事実でもあるのがデュラには歯がゆかった。
 イチマルが言うように『前回』と同じ試練だとするならば、現皇帝にしてクラリスの母であるディオーレ・カリストは健在だ。それを乗り越えたことの、なによりの証左で。
(クラリス……信じてるぜ?)
 それをクラリスが知ったとき、どうするか。なにをどう考え、動くか。
「私の予想、外れてるといいんだが……」
 おそらくだが自分の予想は当たっているだろう。それを思い、デュラは大きなため息をついた。


 やがて船は、アルコル諸島自治区あらためヤーマ諸島連合国を束ねる都市国家・トキオにあるトキオ湾に入る。そして煌びやかで豪奢な異国情緒あふれる建造物が沿岸に見えてきたかと思うと、やがて大きな港に入港した。
 乗るときとは逆に、護衛兵たちが先に下船。三人はあとに続く。
「すごい……」
 帝都・ドゥーベ市国にも勝るとも劣らない高度な文明を感じさせるな街並みに、クラリスは息を呑んだ。そして居並ぶ建物はどれも立派で、帝国を構成する七ヶ国のどことも似ていない独自の雰囲気を漂わせている。
「クラリス・カリスト殿下のお成りである!」
 魔導音声拡大機からそんな呼びかけがされて、兵隊たちがガッと一様につま先をそろえた。
「大げさ……って言っちゃダメなんでしょうね」
「まぁ気持ちはわかるよ、クラリス。外国貴賓としての公式訪問じゃないとはいえな」
 そして一台の馬車まで、三人は案内された。
「パレードとかやるようではなくて、安心しました」
 ホッと胸をなでおろして安堵するクラリスに、デュラとターニーも同意したのか無言でうなずく。馬車はほどなく一台のみで出発するが、その馬車の等級グレードが人目を引くのか、すれ違っていく島民たちが振り向いては二度見していく。
「警備は……ついてるな」
 窓の外をちらりと見やって、デュラがつぶやいた。
「まぁそりゃそうだろうね。むしろいなかったら、そっちのがびっくりだよ」
 ターニーも、デュラと反対側にある車窓の外を気にしながら同意する。二人にはさまれるようにして、クラリスが中央に座っていた。
「この馬車はどこに向かっているのですか?」
 そう問うクラリスに、
「知らずに乗ったのかよ!」
 思わず勢いこんでツッコんでしまうデュラだ。友好国とはいえど外国に皇太子が一人、気を抜いてはいけない。
「普通に、旅館ホテルに向かってるだけだよ。こちらの政府が用意してくれたみたい」
 だがターニーのその言葉に、クラリスの顔色は曇る。
「どうせ私たち以外、宿泊客は誰もいないんでしょう?」
「……まぁ警備上、しかたないよね」
 そう言ってターニーは、苦笑いしきりだ。
「温泉あんのか?」
 もう車窓の外に興味はないのか備え付けのガイドブックに目を落としたままでデュラが訊くのに、
「ボクが知るわけないだろ。この旅のコーディーネイターでもなんでもないよ⁉」
 心外だとばかりに、ターニーが声を張り上げた。
「……って言いたいところだけど」
「ん?」
「あるよ。しかも海上遠景オーシャンビューが一望できる豪華旅館の最上階。温泉は貸し切りだし、プライベートビーチもあるらしい」
「そりゃありが……てーのかな?」
「デュラの気持ちもわかります」
 盛り上がりかけたところをデュラが疑問を呈し、クラリスが同意する。つまりは温泉も海水浴も、この三人以外は護衛兵しかいないのだろうと。
「まぁとりあえずはね、温泉と海水浴。そして海の幸で英気を養おうよ」
 ターニーは朗らかにそう提案するが、デュラはうさん臭そうにそれを見つめる。
(なに考えてやがる?)
 そうこうするうちに馬車は旅館に到着し、従業員たちに手厚くもてなされながら部屋に案内されて。そしてデュラの懸念は杞憂だったとばかりに、なにごともなく三人は露天の大浴場へ向かった。
「相変わらずチチでけーのな、ターニー」
「デュラも似たようなもんでしょ。つか『チチ』言うな!」
 お気楽ご気楽な二人に比べ、クラリスはちょっと居心地が悪そうで。
「クラリス、どうした?」
「いえ……私も小さくはないのですが、お二人にはかなわないなぁと」
「なんの話だ⁉」
 デュラとクラリスのそんな会話に、ターニーが無遠慮に割って入る。
「だから、デュラが言うところの『チチ』の話でしょ。でもクラリス、君もナイスボディだよ? 身長もこの中で一番高いしさ」
 ターニーが一三〇センチ前後、デュラが一六五センチほどで、クラリスは一七〇センチを少し越したあたりだ。三人とも鍛えてるだけあって腰回りに余計な脂肪などなく引き締まっているのだが、身長が高いだけあってクラリスのすらりと伸びた脚は長い。
「うーん、アルテさんほどあれば良かったんですが」
「あれと比べちゃダメだろ」
 天権の塔に住まうハイエルフのアルテは、実に一九〇センチ近い。胸も尻も標準よりあるけれども大きすぎずの絶妙なバランスで、デュラの言うとおりアルテと比べれば生けとし生けるすべての女性が見劣りしただろう。
「あー、言っとくけど。胸の話、ティアには厳禁ね」
「と言いますと?」
 ターニーのその忠告に、デュラが吹き出した。
「あー、確かに。ティア姉、胸の話はコンプレックスだもんな」
 そう言って笑うも、すぐに真面目な顔になって。
「いやマジで厳禁な。殺されかねん」
「いくらなんでも、そんなことで殺され……」
 冗談だと思いそこまで言いかけて、それでも真剣な表情のデュラに気づいてクラリスは押し黙った。
「わかりました、気をつけます」
 なんとかそう言うのがやっとで。
「何度か言ってるけどさ、ティア姉はマジで人間を毛嫌いしてる」
「えぇ、らしいですね?」
「ティア姉は……まぁ一万年生きてるわけよ」
「はい」
「一万年前のことだ、人間の王に命令された人間たちによる妖精狩りが行われてな」
「⁉」
 自らが住まう帝国が一万五千年もの永きにわたって栄えているのは知っているし、皇城にはそれらの歴史を示す古い書物もある。クラリスは勉強だけはちゃんとしてきたつもりだったが、それは初耳だった。
「あぁ、安心しろクラリス。そのころはまだ、ポラリス大陸のすべてがカリスト帝国だったわけじゃない。ティア姉の一族が『狩られた』のは帝国外でのできごとなのさ」
「狩られた……」
 自らの先祖がしでかしたことじゃないとはいえ、『狩られる』という言葉が一種族に対して使われるのかとクラリスは戦慄する。いったい一万年前に、なにが起きたのかと。
「そしてティア姉含め、全」
 そこまでデュラが言いかけたときに、ターニーがその口を強引にふさいだ。
「モゴモゴ(ターニー)?」
 口をふさがれたデュラが、わけわからないといった顔でターニーをうかがう。
「あとはボクが続ける。ティアに念を押されてることもあってさ、いい?」
 デュラがうなずいたのを確認して、その口を封じていた手を離すターニー。
「その妖精狩りで、ティアだけが一人生き残ったんだ」
「そんな……」
「生き残ったといってもね? 眼球はえぐられ羽や髪をむしり取られ、皮膚は剥がされ……それはもうひどいものだったらしいよ」
「ひっ⁉」
 青ざめるクラリスを見ながら、デュラは首をかしげる。
(おいターニー、どういうことだ? ティア姉を含め、始まりの妖精族はそれで一度滅んだろ)
(なんか自分が与える試練にかかわることだから、ティアだけ死んでなかったことにしといてほしいってさ)
 実際にティアはそのときに最初の死を迎え、再び『自分に転生』したのだ。
(それも内緒にしといてって)
(了解だ、ターニー)
 そんな二人の念話でのやり取りを知らないクラリスは、次にどんな言葉がターニーの口から出てくるのかと戦々恐々である。
「どうしてそんなことを人間がしたと思う?」
「見当がつきません……妖精側から戦争をしかけたわけじゃないんですよね?」
「もちろん。人間たちの言い分はこうだ、『人間じゃないから気味が悪い』」
「……ひどい」
 思わず両手で口を覆うクラリス、その凄惨なティアを始めとする古代妖精族の過去を知って指先が震える。
「確か当時は、人間以外の亜人が妖精族しかいなかったんだっけ?」
 自分は知っている内容だったが、クラリスのためにそう補足するデュラだ。
「らしいね。ベネトナシュなんて一万年前は、辺境もいいところだったから」
「だからと言って……」
 クラリスの表情が、怒りで歪む。どうしてそんな惨いことができるのかと。
「それと、もう一つ理由があってね」
「ん? ターニー、それ私も知ってるやつか?」
「どうだろ。ティアは話してるとは思うけど……続けていい?」
「あぁ、ごめん」
 そしてターニーの口から出たのは、いずれも悍ましいものばかりだった。妖精族は髪や羽、眼球に皮膚そして筋肉に臓物。
 その神に愛された魔力が宿る霊体のすべてを持て余すことなく解体され、人間を治癒するための薬を造るために生成されていったのだ。そしてそれはときに、『若返り』『不老』のためにも搾取された。
「ティアは、その当時からの生き残りだよ。だから、人間に対してあまりいい感情を持っていないんだ」
 そんなの、人間を恨んで当たり前だ。クラリスの涙が、次から次へとあふれて止まらない。
「そしてこれが重要なんだけど、ティアの命はもう残り少ない」
「え……」
「クラリスたちが揺光の塔にたどり着くのと、ティアの命の灯が消えるの……どっちが先かはボクもわからない」
 あまりにも、そのあまりにも衝撃的な事実にクラリスは絶望して二の句が告げないでいる。人間たちに仲間を殺され、自らも理不尽な理由で蹂躙されて。
 そしてその命が一万年を経た今、風前の灯火となっていることに。
「ま、暗い話はここまで。クラリスには人間だからって理由で、そう冷たくは当たらないと思うよ?」
 ターニーがその場を取り繕うようにフォローを入れるも、
「デュラもそう思いますか?」
 といきなりクラリスに振られてデュラは言い淀む。
「えっと……そ、そうかな? いやそうだな!」
「……」
「まぁなんだ。私とソラ、アルテにイチマルそしてターニーもそうなんだけど、ティア姉にはこの五人に共通したイメージがある」
「なんでしょうか」
「ひとことで言うとポンコツってことだな」
「ポ⁉」
 先ほどまでとは打って変わっての内容に、クラリスの脳内が追い付けない。
「悪い奴じゃないんだ、ティア姉も。そりゃ人間嫌いだけど、ここ一万年間ずっと人間に復讐したことはないしな」
 そう言いつくろうデュラに、
(そうだっけ?)
 とターニーが念話で確認を入れる。
(そういうことにしといてくれ。過去になんかやってたとはイチマルが言ってたことがあるけど、私は知らん!)
(あ、そうだね)
 この六賢者、一万五千歳を超えるアルテを長女格として一万年生きてきたティアが次女格だ。続いてイチマルが八千歳でソラが五千歳、ターニーが四千歳でデュラが三千歳前後である。
 デュラやターニーが知らない歴史が、ティアにはあるのだ。
「まぁポンコツっちゃーポンコツだけど、別のイメージもある」
 このネタは掘り下げちゃだめだと本能で察して、デュラが強引に話題を変えた。
「別の?」
「ああ。ティア姉は『最強にして最弱の妖精』なんだ」
「どういうことでしょう? 最強と最弱は相反する言葉ですけれども?」
「それ言ってるの、デュラだけじゃん」
「ターニーはちょっと黙ってろ」
「へいへい」
 デュラいわく、ティアがその小さな体内で含有する魔力。それはこの世界を数度滅ぼしてもなお余りあるほど無尽蔵で。
「だからこの世界で神以外で最強は半分神であるアルテ姉なんだが、そのアルテ姉を倒せる可能性を唯一持ってるともいえるな。ただ腕っぷしは弱いから、そこらへんのチンピラに簡単に負けてしまう」
ティア師マスター・ティアのこと、ますますよくわからなくなってきました……」
 その日の晩は、新鮮な海の幸に舌鼓をうつ。セイシュと呼ばれる透きとおった独自の酒も嗜み、三人は束の間の平穏を貪った。
 タタミと呼ばれる独自の草を編み込んだ床板の上に、布団を敷いて寝るのがここアルコルの風習だ。クラリスは不思議そうにタタミを撫でながら、
「ベッドじゃないんですね、アルコルは。でも寝心地が良さそうです!」
 と酔いも手伝ってかテンションが高い。
「ったく、ここになにしに来たのか忘れてるだろ、クラ……ん?」
 そう言いつつも自身も酒をかっくらっていたデュラだったが、力尽きて布団に突っ伏したクラリスに気づく。瞬く間に寝入ったクラリスの頬は上気して赤く染まり、小さな寝息が聴こえてきた。
「しゃーねーな」
 デュラは立ち上がって、クラリスの布団をめくる。そしてクラリスを抱いて布団に寝かせると、
「おやすみ」
 そう言って掛布団をかぶせた。そしてしばらくの間、クラリスが本当に寝入ったのかどうかを確認――。
「ターニー、話がある」
「なんだい?」
「お前がクラリスに投げかける試練のことだ。かの海上の国境に張られてた結界、あれは膨大な魔力を消費するだろ」
「だね」
「魔石かと思ったが、あれは人が産み出した魔力が使われてる。それも一人や二人じゃねぇ」
「……ティアなら一人でも楽勝で張れるだろうけどね」
「話を逸らすなよ、ターニー。つまり『そういうこと』がアルコルで行われてるのか? ここ何百年も?」
「そりゃアルコルの首長の命令ではあるけど、誰もが納得してやってることだ」
「だけどっ! それをクラリスが知ったら⁉」
「クラリスは次期皇帝だ。知らなきゃいけない……違う?」
 悲しそうな表情でそう問いかけてくるターニーに、
「違わないけど、さ」
 この事実を聴かされたとき、クラリスはなにを思うだろう。やはり今からでもクラリスの手を引っ張ってとんぼ帰りしたい、デュラはそんな衝動に襲われている。


 すべてが、終わった。
 いま三人は、ミザールへ帰る船舶の中だ。例によって例のごとく、乗客として乗船しているのはこの三人だけである。
 デッキで、クラリスが遠くの水平線を見ながら一人佇んでいた。その視線は虚ろで、果たして海が見えているのかどうかも不明だ。
 クラリスが知ったのは、衝撃の事実だった。この小さな島国は、数千年前の建国時から常に帝国から侵略されるかもしれないという恐怖に怯えてきた。
 常に『帝国に付き従う』という低姿勢でへり下り、土地や人民が蹂躙されるのを防いできた。そして表向きは、自治を許してもらっているという立場を維持し続けてきたのだ。
 でもそれは永遠ではない。いつ帝国が侵略してくるかわからないし、その結果として帝国に組み込まれてしまうかもしれないのだ。
 そこで島国ゆえに重要視したのが、海上での防衛線。とりわけ帝国からの皇族や軍隊の闖入に、国力を上げて注視してきた。
 そしてそれらが国境を越えたときにわかるよう、また有事の際には水際で阻止できるように軍事結界を張ることにしたのだ。だがその結界を張って維持するにあたって、莫大な魔力が必要になる。
 宿泊二日目、ターニーに案内されて三人は旅館の屋上に臨む。そしてその煌びやかな遠景の中で、ターニーが指差した海沿いの施設。
「あれは?」
「魔力工場だよ」
「魔力……工場?」
「うん」
 灰色の、コンクリート打ちっぱなしの壁。窓一つなく、パッと見は正四角形の石の箱にしか見えない。
「このアルコルにとって、海上防衛は大事なんだって話はしたよね」
「はい。そしてそれには、莫大な魔力が必要だとも」
「うん」
 そう返事をして、ターニーは黙りこくる。その口が開いたときにどんな事実が明かされるのかを知らないクラリスと、察しているデュラ。
 重苦しい時間が刻々と流れて、ようやくターニーが口を開いた。
「このアルコルの国ではね、魔力持ちといわれる国民が一定数いる。それは生まれつきだったり、後天的に目覚めたり」
「はい、私も魔法が使えます」
「うん。だけどクラリスだけじゃなく、魔法が使える人は法律の範囲内なら自由に使えるよね」
「ですね?」
「でもここ、アルコルでは違うんだ」
「違うと言いますと?」
 ターニーは無言で、もう一度その施設を指さした。
「アルコルで魔力持ちはね、あの建物に送られる。そして四肢を拘束され、ひたすら魔力を搾取されるだけの日々を送るんだ」
「え?」
「もちろん、食事は支給されるし睡眠時間も保証されてる。でもあの施設に入ったが最後、朝起きてから寝るまでずっと。食事時間以外はひたすら魔力を搾り取られるという日課を、死ぬまで繰り返すんだ」
「あの、おっしゃることがよく?」
 クラリスのその問いに、ターニーは応えない。だから代わりに、デュラが口を開いた。
「さっきターニーが『魔力工場』なんて言ってたけどさ、実質的には『魔力牧場』だな。軍事境界結界を張るための膨大な魔力は、ここの国民から非人道的ともいえるやり方で搾取してんのさ」
「なっ⁉」
「そうだろ? ターニー」
「うん。クラリスはそれを知って、ひどいと思うかい? 助けてやりたいと」
「当然です!」
 今すぐにでもそうしかねない剣幕のクラリスに、ターニーは黙って首を振った。
「あの施設には常時、五千人前後が『働いて』いるんだ。そしてその五千人は全員、自分たちの『役目』に納得している」
「そんなはずが⁉」
「まぁ最後まで聞きなよ。魔力工場に送られた場合、残された家族には十分すぎる報酬が国から毎月支給される。もちろん、家族に楽させたいとかそういう理由で納得してる人もいるだろうけど」
「違う理由で納得している人もいると?」
「そう。まぁそこはところ変われば品も考え方も変わるとしかいいようがないんだけどさ。あの工場で自身の魔力を提供している人は、ほぼ全員が自分の意思で入っているんだ」
「……」
 クラリスにとっては、信じがたい話だ。突拍子もなさすぎて、そして誰が好き好んで自らの生命と尊厳が蹂躙される選択をするのかと。
「すべては、このアルコル……彼らがヤーマと称しているこの国を護るためさ」
「護……る?」
「そう。そりゃクラリスから見たらさ、さっきデュラも言ってたようにまるで乳牛の牧場だよね。乳を搾り取られるためだけに拘束された、さ」
「はい、そうとしか思えません」
 そう言いながらも、クラリスは気づいている。国に自身の生命を投げ出した人たちの、思いと矜持を。そしてそれは、続けてターニーが発した言葉で確信に変わった。
「あそこで魔力を提供するために入った人たち、彼らは全員自分たちのことを『軍人』だと思ってるんだよ」
 小さな島国の、一人ひとりは矮小な存在であるここの国民たち。だが巨大な帝国の脅威の前に、愛する家族や慣れ親しんだ土地が侵されるのを防ぐべく……もう何百年も前から、こうして国民一丸となって護り続けていたのだ。
「事実、過去に何度かあったらしいよ、帝国側の侵略……だけどそのことごとくが、『人間の盾』ともいえる海上結界によって阻まれてきた歴史がある。そしてアルコルの民たちは、それを誇りに思っているんだ」
「そんな……」
「今も、あの『魔力工場』からは海上結界を構成するための魔力が絶え間なく放出され続けてる。だからクラリスの皇族としての血がその結界に入ってきたと知って、あの工場で『働く』人たちは緊張しただろうね?」
「そんなの……そんなの信じられません!」
 口では信じないと言いつつも、それが真実であることをクラリスは確信していた。ただやり切れなくて哀しくて、思いっきり否定したかっただけで。
「幸いにして君のお母さん、現皇帝のディオーレはさ。アルコルとは友好関係を強固にする国策で臨んでる。だけどその三代前かな、そのときの皇帝はアルコルを植民地にするべく野心をたぎらせていたんだ」
 もうクラリスは否定も肯定もできず、ただただ立ち尽くしてターニーの言葉を聴いていた。
「だからディオーレがいくら友好を装っていても油断はできないと考えていて、そして皇帝が交代したらいつでもそれを帝国側が覆すかもしれない恐怖と隣合わせなんだ」
「私は……」
「わかってる。これを知ったクラリスならば、ディオーレがそうしたようにアルコルとは親密な関係を維持拡大してくれる皇帝になる」
「もちろんです‼」
 鼻息荒く、勢いこんでクラリスが半ば叫ぶように拳を握る。そんなクラリスをターニーは優しく見つめながら、それでも。
「だけどクラリスが皇帝に即位したとしてもいずれは、誰かに帝位を譲る日が来る。アルコルとしては、クラリスの次の皇帝がいつ牙を剥くかもしれない……そんなことに備えないといけない」
「私は……私はっ‼」
 反論したいけれど、先のことはわからない。言いたいことが喉まで出かかってるような、でもそれがなんなのかわからない……そんな歯がゆさがクラリスを襲う。
「だからクラリスが皇帝になって、どんなにアルコルと友好関係を築いても……あの工場が稼働を止めることはないんだ」
 気の毒なくらい真っ青な顔で無言で震えているクラリスを、デュラが心配そうに見守っている。本当なら今すぐにでもクラリスの耳をふさぎたい、ターニーの口をふさぎたい――そんな衝動を、押さえながら。
「それともクラリス。君はアルコルに侵略して土地を奪い取り、あの工場を閉鎖でもするかい?」
 それは今日まであの工場で魔力を搾取されるだけの、いや提供し続ける生涯を送ってきたアルコル国民たちの生命と尊厳を水泡に帰すやり方だ。確かにターニーの言うとおり、アルコルの悲しい歴史を終わらせる一つの手段でもあるのだろう。
 だけどクラリスの中で、その答えが出ることはなかった。
 ――船は間もなく、大陸とアルコルを隔てるクーレ海上にある国境を通過する。すでに豆粒ほどの大きさにしか見えない、アルコル最北端のシュラ島を遠くに見やりクラリスの表情が引き締まった。
「クラリス、大丈夫かな」
 少し離れた場所でそれを見つめるデュラが、心配そうにつぶやく。
「あれでダメになるような人間なら、さっさとダメになって次期皇帝を新たに選出してほしいね」
 その隣、少し冷淡にターニーが言い放つがデュラは眉をひそめただけで反論はしなかった。そして、まさに海上の国境を通過するその瞬間――。
「『魂魄心鎖陣シンクロ二ゼーション』、展開‼」
 クラリスが叫んだ。クラリスが得意とする、他者から浴びせられる魔力波と自分の魔力波を同調リンクさせる魔法だ。
「クラリス⁉」
 さすがに予想外だったのもあって、デュラが狼狽する。ターニーも、無言ながらクラリスの一挙手一投足を注視して。
「あ……」
 クラリスの脳内に、映像ビジョンが流れ込んできた。『魔力工場』内で四肢を拘束された五千人の……『軍人』たちだ。
 それは老若男女、子どもから老人まで多岐にわたった。彼らは一様に手足に管のようなものが繋がれており、それらは見たこともない魔導機械に接続されている。
 いずれも全裸で、逃亡防止のためなのか寝台や壁に太い鎖で繋がれていた。その異様ともいえる光景に、クラリスはギリッと歯を噛みしめる。
 そしてクラリスにそれが視えるように、彼らにもまたクラリスが視えていた。無論、視えなくても国境を通過するカリスト帝国の皇太子であるクラリスの魔波動を感じとってはいたけれど。
『アルコル……ヤーマのみなさん、聴こえますか?』
 クラリスが『心話』を投げかけると、その五千人の表情に一気に緊張が走った。
『私はクラリス、クラリス・カリスト。カリスト帝国の皇太子にして、次期皇帝になる者です』
 五千人たちがクラリスに投げかけるのは……敵意。その誰しもが、クラリスに対して無言でにらみつける。
 クラリスは一瞬だけひるんだものの、すぐに気を取り直して。
『私は約束します! カリスト帝国の次期皇帝として、ヤーマのみなさんと一緒に手を取り合いともに歩むことを! ともに在り、ともに栄えてゆく努力を怠らんことを‼』
 そのクラリスの決意表明が意外だったのか、五千人たちは怪訝そうな表情で互いに顔を見合わせた。そしてそれはやがて、彼らの一部に安寧の表情をもたらす。
 だがあくまで一部だ、誰しもがクラリスの決意表明を真に受けたわけではない。またクラリスの『約束』が、クラリスの次代以降も継続されるとは限らないのだ。
 だから、かの魔力工場は今後も稼働し続ける。
 船が国境から離れていくにつれ、クラリスの中に展開されている映像も少しずつぼやけていった。そしてほどなくして、それらは完全に視えなくなって。
「必ず、約束します……」
 それでもクラリスは、それを口にする。なんども、なんどもつぶやく。
「クラリス……」
「もう大丈夫みたいだね。彼女の治世下になった帝国がどう発展していくか楽しみだよ」
「けっ、よく言うぜ。この加虐趣味のチビっ子が」
「デュラ、ひどくない⁉」
 潮風に乗って二人の会話が聴こえたのか、クラリスがプッと吹き出した。
 船はやがて、ミザール王国の領海に入る。と同時に、その巨大な大陸の遠影が水平線上に見えてきた。
 次なる目的地は、この旅の最終地点・ベネトナシュ王国は揺光の塔。そこには『始まりの妖精イニティウムフェアリー』、人間嫌いのティアが待っている――。
しおりを挟む

処理中です...