無敵のイエスマン

春海

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第一章

第3話  無敵のイエスマン3

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 駅から歩いて十分程度の一軒家が、僕の自宅だった。
 大きな庭がついていて、豪邸の一歩手前の家だ。
 まぁ、父親が医者で我が家は裕福だから、こんな立地の良い場所にこれほどの家を建てることができた。
 僕は自宅の玄関のドアを開けて、声を出す。

「ただいまー」
「おかえり、智也」

 母さんが仁王立ちで、僕の帰りを玄関で待っていた。

「スマホで連絡しておいただろ? クラスのカラオケ親睦会で遅くなるって」
「智也、分かってる? まだ、高校二年生だからって、油断してはいけないのよ? 医学部に進学するためには、不断の努力が必要なの」

 母さんが厳しい表情で僕にそう言う。
 母さんは、僕を産むのを機会に、医者を辞めた。それでも、父と同じ難関大学の医学部卒業生だから、そのためにどれだけ努力しなければいけないか、よく分かっているのだろう。

「大丈夫、今日はその分、夜遅くまで勉強するから」

 僕は笑顔でそう言って、その横を通り過ぎる。
 母さんはそのとき、僕の腕をつかんで、それから僕の真意を見抜くかのような鋭い眼差しで、僕を見つめた。

「絶対に浮ついた気持ちで、高校生活を送っては駄目よ。いい? 恋なんて、大学に入ってからでも、社会人になってからでもできるんだから」

 父さんも母さんも厳格な家で育てられた。だから、自分が自分の両親にされたことと同じことを僕にもしてこようとする。
 それは、とても自然なことだった。

「分かっているよ、母さん」

 僕は少し疲れながら、それでも笑顔を保ってそう応える。

「もう小学生のときのようなことはごめんよ。急に、転校しなきゃならないなんて。あのときは、本当に大変だったんだからね」

 僕の笑顔に、ひびが入りそうになる。
 分かってるよ。
 分かってるよ!
 だから、もうこれ以上、僕の無敵のイエスマンライフの邪魔をしないでくれよ。
 ほら。
 僕は、こんなにも良い子だろう?

「あのときは、心配と迷惑をかけたよ。本当に、ごめん」

 僕が頭を下げると、母さんはようやく僕の腕を離した。

「父さん、今日も遅くなるから、二人で夕食を食べるわよ」

 母さんの言葉を背に受けながら、僕は階段を上って、自分の部屋に入って部屋着に着替える。小さなため息が出て、それに驚いて、それから苦笑した。
 全く、無敵のイエスマンも、やり通すのは疲れるものだ。
 部屋の姿見の前に立つと、いかにも優しそうな笑みを浮かべた自分の整った顔が映った。
 ああ。
 これが、僕があの日から作り上げた僕。
 誰も傷つけずに、誰にも傷つけられない僕。
 無敵のイエスマン。
 でも、仕方がないだろう。
 いずれにせよ、この国は、この国に住む人々は、そういう人を求めている。
 言うことを聞き、空気を読み、嫌でもイエスと答える人間を。
 そういう人間が大好きな国で生まれたこの僕は、確実に賢明な道を歩いているように思えた。
 姿見に映る自分の姿が、自分の笑顔が、自分の中で気持ち悪いと思えたとしても。
 それでも、僕が精いっぱい作り上げた、僕の傑作品だ。
 
 翌日、また教室でいつもの繰り返し。
 高橋君に宿題を見せて、小池君の恋愛相談に乗り、副委員長である成瀬さんにサポートしてもらいながら、学級委員長としての仕事をこなす。もちろん、真面目に授業も受ける。
 昼休みに、僕は学級委員長として、放課後前のホームルームでクラスメイトたちに配布するプリントを職員室で担任の宮田先生から受け取る。
 小太りで中年男性の宮田先生は、基本的に放任主義の先生で、というより、昨年度も僕の担任だったからこそ分かるが、面倒事に巻き込まれることを嫌がる先生で、僕が昨年度と同じように学級委員長に選ばれたことを喜んでいた。

「赤崎が学級委員長に選ばれて良かったよ。これで、俺も楽ができる。赤崎なら、クラスをうまくまとめてくれるからな。今年度も頼んだぞ?」

 そんなことを平気な顔で言えるのだから、呆れてしまうくらいに清々しいほどの面倒くさがりな担任の先生だった。

「はい、任してください」

 僕は、笑顔でイエスと答える。
 そんな僕も、呆れてしまうくらいに清々しいほどの無敵のイエスマンだった。
 副委員長の成瀬さんが、僕に付き添ってくれて、プリントの半分を持ってくれている。
 僕と成瀬さんは並んで、教室に向かって廊下を歩いている。

「相変わらずだね、宮田先生」

 成瀬さんが呆れた顔で廊下の窓から晴れている春空を眺めながら言う。

「いっつも、赤崎君に面倒事を押しつけて、トラブルを起こさせないように期待してさ」
「あははは」

 僕は、困った表情を浮かべてから笑う。

「赤崎君も、優しすぎるんだよ。誰に対しても、何でもかんでも引き受けてさ」

 成瀬さんが、早歩きして、僕の前に立って僕と向き合った。僕は足を止める。

「ねぇ、赤崎君」

 成瀬さんが、頬を赤くしながら、じっと僕を見つめてくる。
 僕は笑顔で黙ったまま、続きを促すように頷く。

「私にだけは、弱いところ、見せてもいいんだからね? 私にだけは、だよ?」
「もうすでに、プリントを半分持ってもらっているじゃないか」

 僕は笑顔を崩さずに言う。

「そうじゃなくて」

 成瀬さんは、語気を強めて言った。

「いっつも、赤崎君は笑顔で、優しくて、何だか心配になるときがあるの」
「笑顔で、優しい。実に健全な高校生じゃないか」

 僕は、内心ひやりとしながらも、笑顔を保つ。

「何だかね、ときどき、私、思っちゃうの」

 成瀬さんが、じっと僕を見据えた。

「赤崎君が、いつか無理して壊れちゃうんじゃないかって」

 僕が、壊れる?
 違うよ、成瀬さん。
 もう。
 僕は、壊れているんだよ。
 あの日、正義のヒーローを気取ったあのときから。
 分不相応なことをしてしまってから。
 徹底的にいじめられて。
 自分の弱さを自覚して。
 それから、僕は無敵になろうと思った。
 無敵に。
 でも、そんなの、僕という一人の、一般人よりは頭も運動神経も音感も多少良いだけの僕一人の人間には、とても困難な目標で。
 だから、僕は、壊れてしまっていた僕は、疲れ果ててしまっていた僕は、最も自分にとって安易な方法を取った。
 それが、無敵のイエスマンだ。
 もう、分不相応なことはしない。
 僕には、それがお似合いだ。
 ぼっちにならずにすむし。
 モテるつもりはないが、女子たちから熱っぽい視線を向けられ。
 かといって、俺つえええとハーレムを作ることもしない。
 調和の取れた人間関係を構築して、その完全で気味の悪い世界で生き続ける。
 それにさ、成瀬さん。
 この世界は、いや、特にこの国は、そういう場所じゃないか。
 出る杭は打たれ続ける。
 みんなで、寄ってたかって。
 それを嬉々としてやるのが大多数なこの小さな島国の中で。
 僕の無敵のイエスマンという選択肢は、むしろ、僕がこれ以上壊れないための最善の選択肢なんだよ。

「心配してくれて、ありがとう」

 僕は笑顔を深くして、成瀬さんに言った。

「でも、僕は無理してないし、壊れもしないよ」

 そう、もうこれ以上壊れはしない。壊れたくない。

「僕は今の自分のこと気に入っているんだ」

 気持ち悪いとは思いつつも、ね。
 ただ、相反するように。
 僕はこれ以上ないくらい、僕をこれ以上壊さない今の僕自身のことを自慢に感じていた。
 不健全なことは間違いないけど。
 それでも、今の僕は僕の傑作品だ。

「今日、田口さんとカラオケに二人っきりで行くんでしょ?」

 成瀬さんが、やや不機嫌そうな表情で僕に聞いてきた。

「そうだよ、せっかく誘ってくれたんだし。それに、田口さんはクラスにうまくなじめていない。そんな田口さんと学級委員長である僕が少しでも分かり合って、田口さんを少しでもクラスになじませてあげられるチャンスだと思っているんだよ」

 正直、田口さんが、あの拒絶ギャルが僕のことをなぜ誘ったのか、未だに分からないが。
 田口さんにも、敵視はされたくない。
 無敵のイエスマンとしては、田口さんとも仲良くしておきたいのだ。
 あんな性格の田口さんだから、僕には恋愛感情など抱いてはなさそうだし。
 田口さんが僕だけをカラオケに誘った目的は分からないが、断るわけにはいかなかった。
 それにその目的は、放課後に田口さんに直接聞けばいい。

「やっぱり、赤崎君は優しすぎるよ」

 また、成瀬さんは廊下の窓から春空を眺めて、ため息をつくようにそう言った。
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