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第五部 第二章 戦乙女の真意を知るまで

103話 俺は、きみに、なにも

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 グラリ、とネフィリムの体が傾く。
 台座の上から華奢な体が崩れ落ちた。

「ネフィリム!」

 シグルズはあわてて駆け寄った。
 台座周辺の床には真紅の布が敷いてあるが大した厚みはない。それに今のネフィリムは何も着ておらず、落下すれば怪我を負う可能性がある。

 剣を捨てて手を伸ばす。
 滑り込んだシグルズの体が台座にぶつかると同時に、ネフィリムの体を抱き留めることに成功した。

「ネフィリム……ネフィリム!」

 その体はバナヘイムにいたときよりも明らかに痩せていた。そして、体の至るところに鬱血痕があり、胸部も局部も腫れている。
 儀式は明らかに彼を害している。心も、体も。

「ネフィリム……」

 頭の中がぐちゃぐちゃで、ただその名を呼ぶことしかできない。
 だが何度目かの呼びかけで黒い瞳がかすかに開いた。


「なんだ……新しい神官か……?」


 ネフィリムの瞳はぼんやりとしていて焦点があっていない。
 まだ幻覚の中にいるのだ。

「神官か……? 巫女か……? 男か女か……。わたしの、からだは、だいぶ緩んでしまったが……それでもいいのか」


 ネフィリムには、俺が誰なのか分かっていなかった。


「ネフィリム……ネフィリム。 すまない、俺は……」
「どうした……、お前、何故泣いているんだ……。シない、のか?」

 シグルズの腕の中。呼吸も荒い状態で、ネフィリムはかすかに笑う。その右頬に熱い雫が垂れた。

「お前、これまでの……神官たちと、雰囲気が……違うな? まるで」
「もう喋るな、頼むから……ネフィリム」


「まるで、雪の中の城に、騎士が、助けにきてくれたとき、の―――」


 そこまで言ってネフィリムの意識は途切れた。





「健気だね」

 子どもの笑い声が聞こえる。

「空っぽの自分を埋めてくれたからって執着していた君とは大違いじゃないか」

 ヘルゲはシグルズに対して感じている侮蔑を隠そうとはしなかった。
 腹は立つ。だがそれよりも、その言葉が正鵠を射ていることのほうがよほど腹立たしかった。

 今のシグルズには、その言葉の意味が痛いほど分かる。

戦乙女ヴァルキリーとは愛に生きる神子のこと。強すぎる感情ゆえに憎しみも人一倍だが、死んでもその愛憎を忘れないという。……君のように自分自身の弱みから目を反らすために誰かを所有しようだなんてのは本当の感情からはほど遠いね。それではは成功しない」



 近くにいれば守れると思っていた。

 でも、今。
 この世界で誰よりも彼の傍にいて、彼をこの手で抱きしめていても。
 その心臓の音をもっとも近くで聞いていても。

 俺はネフィリムに何もできなかった。

 大切な人が傷だらけで弱っているのに、言葉を届けることもできなかった。


 この祭壇の空間はかなり冷えている。ネフィリムの体を抱きしめているはずなのに、どんどんと体温が奪われる。
 ネフィリムに何か布を纏わせてやりたくて、台座の上を覗く。

 神官服を着た男が横たわっている。先ほどまでネフィリムがまぐわっていた男だ。目は開いているが、一瞬見ただけでは生きているのか死んでいるのか分からなかった。

 が、その顔に見覚えがある。思いがけずシグルズは呟いた。


「ベック、メッサ―……」


 自分が怒りでノートゥングの剣を振るい、胴体を真一文字で切り付けたバナヘイムの議員。
 だが、今の彼は全身が繋がっていた。
 もしかしたらその内部は変異しているのかもしれない。

 シグルズは台座の上から目を背けた。

 ネフィリムの体を覆うにはあまり役には立たないかもしれないが、せめてその肌を少しでも人目から隠してやりたいと思う。シグルズは自分の服を割いて、ネフィリムの肩にかけてやった。


「申し訳ないけど、休憩はまだだよ」

 ヘルゲの声。

「まだ、あと巫女3人を相手してもらわないと」
「こんな状態で儀式を続ければネフィリムは死んでしまうぞ!」

 シグルズの言に、ヘルゲは再び侮蔑の色を浮かべた。

「だからそれが彼の選んだ贖罪なんだ。戦乙女ヴァルキリーは『自分は死んでも構わない』と言っていたんだから、別にいいだろう」



 騎士だ何だと口でどれだけ大層なことを言っても、
 結局いつもネフィリムを傷つけているのは俺なのかもしれない。

 彼が泣くとき、彼が辛そうな顔を見せるとき、いつも俺が関係していた。


 ここまで追い込んだのは、俺だ。




 本当は分かっていたんだ。

 気付かないふりをしていただけで。




 平民の自分が騎士男爵家の当主になって、帝国貴族界の笑いものになって。
「なぜヴィテゲではなかったのか」と親族が父に怒鳴っている声を聞いて。

 ヴェルスング家に引き取られてから、英雄だった嫡男ジークフリードも、動乱で離反した先代当主ジークムントも亡くなって。
 戦争で人をたくさん殺して褒章をもらえば、同時に「さすがヴェルスングの死神だ」と後ろ指を指された。


 愛情が欲しかった。

 誰かに愛してもらえる存在になりたかった。
 そうすれば、自分には「自分」があると納得できる気がして。

 でも、どれだけ女と遊んでも。そのときは良くても結局心の空洞は埋まらなくて。



 そんなときに、君と出会った。






「―――分かった」

 服をかけたネフィリムを優しく床に寝かし、シグルズは立ち上がった。

「俺が、残りの儀式を行う。それでどうだ」
「……君が?」
「俺はお前と同じ、完全な変異体なんだろう?」

 ヘルゲは首を傾け、少しだけ視線を彷徨わせた。

「うーん……戦乙女ヴァルキリーの儀式が人を変異させるのは分かっているけど、変異体が人間を変異させることは可能なのかな」
「お前がバナヘイムに送り込んできた刺客の巫女は人間を変異させていた」
「あれは巫女ワルキューレだよ。戦乙女ヴァルキリーのなりそこないみたいなものだ。……まあでも、試してみるのはいいかも。君は当分壊れなさそうだし」
「交渉成立だな」

 ヘルゲが片手を上げる。祭壇の隅に控えていた神官がさっと近づく。

戦乙女ヴァルキリーを休ませて。睡眠と飲食、湯浴みもだ」
「御意」

 そのやりとりを聞いて、シグルズはようやく心が落ち着く。
 ネフィリムの黒髪の感触を確かめるように優しく撫でた。

「ゆっくり休んでくれ、ネフィル。もとはといえばこれは俺の罪だ。君が背負うべきではない」


 ネフィリムを誰にも渡したくなくて剣を振るったことも確かに俺の罪だ。

 だが、それよりももっと重大なのは、


 愛情という響きの良い言葉でネフィリムを縛り付けようとしたこと。


 ネフィリムを再び横抱きにしたシグルズは、わずかに開いた唇にそっと口づけた。名残惜しいと思いながら、近づいてきた神官に引き渡す。


 だが突然、シグルズの腕が掴まれた。
 ネフィリムだった。

 うっすら開いた黒い瞳が、シグルズを見つめている。


「シグ、ルず……いかないで」

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