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第四部 第二章 思惑に翻弄されるまで

81話 眼鏡②

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 妻?

 その発言にはさすがに驚いた。シグルズは口を閉じるのを一瞬だけ忘れた。

「………結婚、されていたのですか」

 そういう相手がいたことにも驚きだが、そもそもゲオルグに人を愛するという感情があったことや、その相手がすでに亡くなっていることなどもそれなりの衝撃を以って受け止めていた。


「厳密にはしていない。婚約しただけだ。婚約した10日後に彼女は殺された」


 また衝撃的な情報が出てきた。ゲオルグは淡々と続ける。

「彼女はこの大陸の神話と国家形成の関係性について書いた論文を上梓じょうししようとしていた。殺害されたのはその矢先のことだ。遺体は原型を留めないほど無残なかたちになって首都の大通りに放置されていた。
 俺は彼女と結婚してバナヘイムに定住するつもりだったがが変わったのさ。――動乱を起こしたのはその1年後だ」

「あの」

 シグルズは苦しくなって言葉を挟んだ。

「なぜ、陛下は俺にその話をするのでしょうか」


 帝国からは遠く離れた国の墓地。

 流血革命なんて言葉を知ることのない穏やかな空と鮮やかな緑の中に囲まれて、半生を語るのは旧世代の貴族たちを皆殺しにして権力を得た男。
 風景と起きている事象の齟齬が大きすぎる。シグルズは静かに混乱していた。

 ゲオルグは鷹のような目をさらに細めた。


「俺が国を守るのは彼女との約束だからだ」


 マントとロングチュニックの裾がひるがえる。彼は妻の名前が刻まれた墓碑に手を置いた。

「国家は彼女の子どもだ。どんな手段を使ってでも守る。そのために俺は殺さなくても良い人間を殺し、民を騙し、汚れた密約を経てあの動乱を成功させた」

 平坦な声だが凄みがあった。
 研ぎ澄まされたゲオルグの無慈悲なまでの決意がシグルズの皮膚に刺さる。

「だから俺はお前の力を利用する。帝国に戻ればヴェルスング家がお前を隠してしまう可能性がある。先手を打ってバナヘイムまで来た価値は十分にあると思っている」

 やはりこの男はヴェルスング家を警戒している。
 それに「汚れた密約」と言うのも気になる。先日は義父の死を口封じだと言っていたが、それとも関係あるのだろうか。


 ジークフリードの行方。
 義父上ちちうえの死。
 お祖父様の思惑。
 ヴェルスング家の秘密。


 フリッカ・コロンナという女性。
 大帝動乱。
 変異体の力を扱う北東の国々。


「俺は、きっと何も知らないんですね」


 自分の無知を思い知る。

 もしもその全てを知ることで分かる真実があるのなら、


「お祖父様も、義父上も、ヴィテゲも、何も教えてはくれなかった」


 何も知らない俺は、


 ゲオルグはわずかに眉をしかめて何かを告げようとした。
 が、それよりも先に彼に呼びかける声があった。




「ゲオルグ?」




 ゲオルグとシグルズが声の方向に同時に顔を向ける。

 ゲオルグよりも頭ひとつ分小さい中年の男性が、驚いた様子で立っていた。
 薄い橙色の素朴なローブを羽織っており、手には花の入った籠をぶら下げている。

「やっぱり……ゲオルグじゃないか」

 男性は小走りでゲオルグに駆け寄った。
 垂れた目尻とそこに走る皺が人の好さそうな雰囲気を醸し出している。


「先生……」


 ゲオルグも珍しく驚いた様子を隠さなかった。呟いたきり黙ってしまう。

「まさかバナヘイムにいるとは思わなかった。―――フリッカの墓参りに来てくれていたのかい」

 ゲオルグは何も言わなかった。

「いいんだ。どうせ君のことだから私に会わずに帰るつもりだったんだろう。君といい娘といい、強情な奴らばかりだね」

 その男性は優しい表情で苦笑すると、少しだけ背伸びをしてゲオルグのずれた丸眼鏡を直した。



「コロンナ先生だ。フリッカの父親で、俺のもう一人の師だ」



 ゲオルグはこちらを向くことはなかったが、この言葉がシグルズに対して述べられていることは何となく分かった。

 コロンナはゲオルグの言葉を聞いてシグルズを見る。「ゲオルグのお弟子さんかな?」と呑気に尋ねられたのでどう答えればいいか悩んでしまった。
 だが、次の瞬間にはそのお人よしの眉がぐっと寄せられて八の字になった。

「君、体調が良くないね」

 いきなり言われてシグルズはびっくりした。

「体調じゃないな、しているのか。それにその髪の色……ゲオルグ、彼は?」
「……帝国の男爵家当主で騎士家の者です。シグルズと言います」
「シグルズ……シグ、ルズ」

 コロンナは口に手を当てて考え始めた。恐ろしいスピードで独り言を言っている。おそらくバナヘイムの言葉なのだろう。シグルズには全然分からなかった。

「コロンナ先生、あの――」
「うん、決めた。ゲオルグ、シグルズ。今からうちに来なさい。お茶を出してあげよう」


 ゲオルグの呼びかけを完全に無視したコロンナは、2人の予定を勝手に決めてしまった。



 この強引さはとんでもなく誰かに似ている。

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