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第四部 第二章 思惑に翻弄されるまで

81話 眼鏡①

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 シグルズは宿の天井を無言で眺めている。

 昨夜は眠れなかった。
 ここのところ睡眠が浅い日が続いていたが昨夜は決定的だった。一睡もできていない。

 ゲオルグに言われたこと、ゲオルグの命令。
 すべてが突然のことでシグルズを戸惑わせる。

 それに……


『お前が化け物になってしまったら元も子もない。これ以上ネフィリムには会うな』


 シグルズの変異についてはグンターが報告したのかもしれない。
 スリュムの一件を考えれば、シグルズとネフィリムが儀式を重ねることでいずれ“変異体”になってしまうことは想像がつく。

 ネフィリムを守るためなら自分が化け物になることは構わないと思っていた。
 どんな姿になろうと、己が彼の騎士としての使命を全うできるなら。


 俺が、ネフィリムから離れる?
 そんなことに耐えられるはずもない。

 しかしゲオルグの意図が分からない以上、軽率に彼に逆らってはならない。


「それにしても、あの皇帝の本性がまったく分からん……」


 カドモスの毒で瀕死になったシグルズを救ってくれたり、赤子ヴィテゲを連れてきたり。
 優しいのかと思えば他者の弱みを握って交渉を有利に進めるしたたかさを見せ、昨日のように残酷な表情を見せることもある。



「俺のことを考えているのか、シグルズ。健気じゃないか」



 いつの間にか部屋に入ってきたゲオルグは、寝台で横たわりながらぶつくさ言っていたシグルズを気持ち悪いほどの笑顔で見下ろしていた。
 皇帝の髪の毛はボサボサで、髭も伸びていた。眼鏡もずれている。

「………おはようございます。陛下」
「おはよう。良い朝だな。たくさん眠れたか」

 軟禁状態で迎える朝が快適なわけがない。眉を寄せて睨み返す。ゲオルグは全く表情を変えない。
 シグルズは寝台から降りた。

「で、今日から俺はどうすればいいのですか」
「昨日いろいろあってな。少しの間滞在して様子を見る必要が出てきた」
「……いろいろ?」

 議会の話だろうか。

「バルトには夜に会う予定だ。だからシグルズ、今日はお前と親交を深めるために時間を使おうと思ってな」

 シグルズは反射的に親交という言葉の意味を考えた。

 ―――こいつ何を言ってるんだ?


「心の声が漏れているぞ若造」
「……失礼いたしました。皇帝陛下が他国にいることも異常ですが、一介の騎士男爵と親交を深めるというのもあまり聞かない話といいますか」
「お前、俺のことが知りたいんだろう?」

 シグルズはゲオルグとの会話が心底苦手だと痛感した。

「………………………まあ、そう、ですね………」
「決まりだな。すぐに外出の準備をしろ。あまり待たせるなよ」

 髪の毛ボサボサの皇帝に向ける視線に言外の意味を最大限込めてやった。
 心の中で「近衛特兵ロイヤル・ガードも眼鏡のずれくらい直してやれよ」と呟いた。



 ◇



 そして朝ごはんも食べずに連れてこられたのが首都郊外の墓地だったので、シグルズは改めて「親交」の意味を問い直していた。

 郊外の墓地は緑が多く、花壇も美しく整えられていた。人の姿はなく鳥の声が響く。
 広大な敷地に背丈の低いアーチ形の石が並んでいる。

 ゲオルグは無言で進み。墓地のちょうど真ん中あたりに建てられている墓石の前に立った。
 
 墓石は綺麗に磨かれ、しおれたばかりの花が置いてある。誰かが定期的に参っている墓なのだ。



 墓石に刻まれた文字は帝国語だった。

「フリッカ・コロンナ」と書いてある。


 ゲオルグはただ墓石を眺めているだけだったので、仕方なくシグルズが聞いた。

「知り合いですか」

 黄金色の目がこちらを向く。

「俺は田舎にある子爵家の次男坊だった。当主を継ぐのは兄と決まっていたし、爵位にも領地にも興味がなかったからひたすら趣味の学問に没頭していた」

 ゲオルグが語りだした。何の話だろうと思ったが、それが皇帝に即位する前のゲオルグの話だと気付く。

「学者になりたかった俺は、学問研究が盛んなバナヘイムに留学した。父や兄が爵位や身分を誇りとし、領地を広げることに固執するその心情が理解できなかったから、逆にその動機を知りたくなって国家制度の仕組みを学びに行ったんだ」


 8年前の大帝動乱の後、帝国中で新皇帝に関する噂話が流れた。

 どこかの大衆新聞の一節に“皇帝ゲオルグは学者志望の温厚な人物で、流血革命を起こすような男ではなかった”と書かれたことは多くの帝国人が知っている。
 ゲオルグの浮世離れした雰囲気がもともとの学者肌から来ているのだと思えば腑に落ちる。


「バナヘイムでは大学に通った。当時まだ一護民官ごみんかんだったバルトは政治学の講師をしていた。そして、同時期にバナヘイムに来ていた隣国の御曹司とも知り合った」

 トールのことだろう。

「トールの父、コール・デイ・ワーグナーはバナヘイムの護民長官を務めた政治家だ。あいつは父親を尊敬している青臭いガキで性格もひねていたが、頭の回転は早くて話も合った。たまにこちらが驚くほどの理想論を吐くので付き合ってて飽きなかった」
「あなたもトールも口の悪さはそっくりですね」

 皮肉を言ったつもりだったがゲオルグは黙ってしまった。気に障ったのかと思ったが、皇帝は少しだけ俯いた後に渇いた笑いをこぼした。

「いや。俺たち以上に口が悪いやつがいた。それがこいつだ」

 墓石を指さす。


「フリッカ。国家論学者にして神話研究者。わずかな間だが俺の妻だった」

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