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外伝、冷血な魔教の君は令和の倫理とハピエン主義に目覚められたようで
10、冷血な君は令和の倫理とハピエン主義に目覚められたようで
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SIDE 散
引っ越しをする少年が、家族と一緒に駅のホームにいる。
今日まで毎日一生懸命寄り添った教師の青年は、何度も何度も頭を下げていた。
少年が唇を動かして、言葉を紡ぐ。
それはきっと、何年先になってから思い出しても特別な出来事だろう。
彼は結局、転校することになったのだ。
彼らが来るより前に、ずっとずっと先にこのホームにやってきて、ベンチに腰掛けていた人影が熱心に視線を送っている。
マスクをつけて、眼鏡をかけて、帽子をかぶって、さらにパーカーのフードを上からかぶせて。
新聞なんて広げて、隠れている。
――不審人物。そんな雰囲気だ。
「何か言ったりしないんだね」
声をかけると、パーカーの不審人物はぎくりと視線を向けた。
私に。
なんだか人間味のない――現実味の薄い整った顔立ちの青年だ。そんな思いが顔に出ている。
名前は確か。
「ハルキ君だっけ」
私が言えば、パーカー姿のハルキ君は目を見開いた。
指をするすると動かせば、ハルキ君の目が一瞬、とろりとなる。
私という存在を受け入れるように。
ただそれだけの術に、ハルキ君は簡単にかかった。
「ああ、彼。行っちゃうね」
ホームに着いた車両に、ハルキ君の因縁の彼が乗り込んでいく。
「彼とお別れだ。君の人生ではきっと、もう彼の名前を見かけない。彼と関わることはない――君がそうしようと思わなければ、ほぼ確実に」
私が視るように示さずとも、ハルキ君は奇妙な感情の宿る目でじっと車両を見つめた。
神聖な儀式かなにかのように。
あの夜、踏切を観ていたときのように。
「人は、良い面もあれば悪い面もある生き物だ。朝に善良な一面を見せたと思えば、昼には悪の側面を見せて、夜になってみたらまた善良になっていたりする。それが、不思議だね」
そっと息を紡ぐ世界は灰色で、天からは薄くて小さな雪の欠片が降ってくる。
地面に降りる前に儚く空気に溶け込むように消えたり、無色透明の風にさらわれたりして、雪が下に積もる気配はないけれど。
それでも、ホームにいる何人かはそれに目を止めて白い息を愉しむように手を口元にあてている。
「あの子も、君も、たった十年と少ししか生きてない。この世界は情報がたくさんあって教育も充実しているけれど、知識と情緒は別のものだ」
ハルキ君の指先が赤くなっているのをみて、私の中に「寒そうだな」という感想が生まれた。
それは、自分が寒さを知っているから思うのだ。
立ち上がって、自動販売機に向かう。
ハルキ君は何が好きだろう――わからないが、無難にホットココアなんてどうだろうか?
硬貨を入れて、ボタンを押す。
がちゃんと音がして、缶が取り出し口におちてくる。せっかくだから、二人分。
「はい、どうぞ」
騒がしい音が鳴って、電車が出発する。
それを見送りながら、二人でホットココアを飲んだ。
ふわふわとあがる温かな空気は、甘い。
口に入れた液体はあつあつで、舌先を火傷しそうだ。
「やっていけないことをやっている人間は、たくさんいるね」
「うん。だから、仕返しをするのがいいと思ったんだ」
ハルキ君がスマホを眺めながら話してくれる。
「お互いに交代で気持ちよくなったんだ」
少年の声がわらっている。
白い。その吐息は、白かった。
「人の脳って、社会のルールから外れた人とかを見つけて罰すると快感を覚えるんだって」
「うん、うん。わかるよ」
私が頷くと、少年はほわりとまた息を継いだ。
「僕の隙をみつけて彼は僕を罰した。彼がいじめをしたから彼を罰した」
少年の目は美しく澄んでいた。
大人になる前の、特有の繊細さと純粋さがそこにあった。
「そして、二人して痛い、痛いってなった」
もう少し幼い頃には、青空に手を伸ばすこともあっただろうか?
けれど、その年頃は過ぎて、これから大人になるんだと自覚している――そんな微妙な短い期間の少年の声だ。
「それはさ、他人に叩かれて痛いのもあるだろうけれど、自分の中に自分を振り返って痛む気持ちもあるのかな」
「よく、わからない」
「そっか」
これがよいことだ。
これはよくないことだ。
この世界は、そういう価値観があふれてる。
学校でもおしえていて、ネットでも話されていて、私は「なるほど、これはよいことで、これはあまりよくないのだ。そういう価値観がこの時代の価値観なのだ」と理解をしたつもりになっていた。
ストレスの多い時代なのだという。
そのためか、物語を愛するひとたちは何も疲れることなくふわふわと心を愉しませて、幸せになれる時間をもとめている。
ハッピーエンドが良い。
そんな価値観を、私も「そうだ」と思ったのだ。
――けれど現実世界のハッピーエンドは、よくわからない。
だって、あちらもこちらも人間で、自分でもよくわからない感情を持て余していて、子供で、未熟で、彼らの人生はつづくのだ。
「おじさん、」
ハルキ君がふと呟いた。
「……お兄さんだ」
なんとなく訂正させた瞬間に、私の脳裏には彧の声が流れた。
(お前、そういうの気にするんだ!?)
ああ、彧は言いそうだ。
そう思うと、ふっと頬が緩んだ。
「おじさんは、幽霊かなにか? 最近ずっといたよね」
術が解けかけている。
気が緩んだのかもしれない。
「そうだね。おじさん、君たちが気になってたんだ。でももう成仏するから、さようなら」
ハルキ君はちょっと眩しそうな顔をして、ぺこんと頭を下げてくれた。
「ごちそうさまでした。……えっと、成仏できて、よかったですね……?」
「ふっ、そうだね。成仏はよいことだ」
この子のこれからは、どうなるんだろう。
またたまに見に来るのも、いいかもしれない――そんな思いを胸に、私は存在を薄くした。
空気に混ざるように。
風に溶けて、拡散するように。
「お幸せに」
ごくごく自然にこころからそんな言葉が零れて、自分の声があたたかく聞こえる。
――それはなかなか悪い気分ではないなと思うのだった。
引っ越しをする少年が、家族と一緒に駅のホームにいる。
今日まで毎日一生懸命寄り添った教師の青年は、何度も何度も頭を下げていた。
少年が唇を動かして、言葉を紡ぐ。
それはきっと、何年先になってから思い出しても特別な出来事だろう。
彼は結局、転校することになったのだ。
彼らが来るより前に、ずっとずっと先にこのホームにやってきて、ベンチに腰掛けていた人影が熱心に視線を送っている。
マスクをつけて、眼鏡をかけて、帽子をかぶって、さらにパーカーのフードを上からかぶせて。
新聞なんて広げて、隠れている。
――不審人物。そんな雰囲気だ。
「何か言ったりしないんだね」
声をかけると、パーカーの不審人物はぎくりと視線を向けた。
私に。
なんだか人間味のない――現実味の薄い整った顔立ちの青年だ。そんな思いが顔に出ている。
名前は確か。
「ハルキ君だっけ」
私が言えば、パーカー姿のハルキ君は目を見開いた。
指をするすると動かせば、ハルキ君の目が一瞬、とろりとなる。
私という存在を受け入れるように。
ただそれだけの術に、ハルキ君は簡単にかかった。
「ああ、彼。行っちゃうね」
ホームに着いた車両に、ハルキ君の因縁の彼が乗り込んでいく。
「彼とお別れだ。君の人生ではきっと、もう彼の名前を見かけない。彼と関わることはない――君がそうしようと思わなければ、ほぼ確実に」
私が視るように示さずとも、ハルキ君は奇妙な感情の宿る目でじっと車両を見つめた。
神聖な儀式かなにかのように。
あの夜、踏切を観ていたときのように。
「人は、良い面もあれば悪い面もある生き物だ。朝に善良な一面を見せたと思えば、昼には悪の側面を見せて、夜になってみたらまた善良になっていたりする。それが、不思議だね」
そっと息を紡ぐ世界は灰色で、天からは薄くて小さな雪の欠片が降ってくる。
地面に降りる前に儚く空気に溶け込むように消えたり、無色透明の風にさらわれたりして、雪が下に積もる気配はないけれど。
それでも、ホームにいる何人かはそれに目を止めて白い息を愉しむように手を口元にあてている。
「あの子も、君も、たった十年と少ししか生きてない。この世界は情報がたくさんあって教育も充実しているけれど、知識と情緒は別のものだ」
ハルキ君の指先が赤くなっているのをみて、私の中に「寒そうだな」という感想が生まれた。
それは、自分が寒さを知っているから思うのだ。
立ち上がって、自動販売機に向かう。
ハルキ君は何が好きだろう――わからないが、無難にホットココアなんてどうだろうか?
硬貨を入れて、ボタンを押す。
がちゃんと音がして、缶が取り出し口におちてくる。せっかくだから、二人分。
「はい、どうぞ」
騒がしい音が鳴って、電車が出発する。
それを見送りながら、二人でホットココアを飲んだ。
ふわふわとあがる温かな空気は、甘い。
口に入れた液体はあつあつで、舌先を火傷しそうだ。
「やっていけないことをやっている人間は、たくさんいるね」
「うん。だから、仕返しをするのがいいと思ったんだ」
ハルキ君がスマホを眺めながら話してくれる。
「お互いに交代で気持ちよくなったんだ」
少年の声がわらっている。
白い。その吐息は、白かった。
「人の脳って、社会のルールから外れた人とかを見つけて罰すると快感を覚えるんだって」
「うん、うん。わかるよ」
私が頷くと、少年はほわりとまた息を継いだ。
「僕の隙をみつけて彼は僕を罰した。彼がいじめをしたから彼を罰した」
少年の目は美しく澄んでいた。
大人になる前の、特有の繊細さと純粋さがそこにあった。
「そして、二人して痛い、痛いってなった」
もう少し幼い頃には、青空に手を伸ばすこともあっただろうか?
けれど、その年頃は過ぎて、これから大人になるんだと自覚している――そんな微妙な短い期間の少年の声だ。
「それはさ、他人に叩かれて痛いのもあるだろうけれど、自分の中に自分を振り返って痛む気持ちもあるのかな」
「よく、わからない」
「そっか」
これがよいことだ。
これはよくないことだ。
この世界は、そういう価値観があふれてる。
学校でもおしえていて、ネットでも話されていて、私は「なるほど、これはよいことで、これはあまりよくないのだ。そういう価値観がこの時代の価値観なのだ」と理解をしたつもりになっていた。
ストレスの多い時代なのだという。
そのためか、物語を愛するひとたちは何も疲れることなくふわふわと心を愉しませて、幸せになれる時間をもとめている。
ハッピーエンドが良い。
そんな価値観を、私も「そうだ」と思ったのだ。
――けれど現実世界のハッピーエンドは、よくわからない。
だって、あちらもこちらも人間で、自分でもよくわからない感情を持て余していて、子供で、未熟で、彼らの人生はつづくのだ。
「おじさん、」
ハルキ君がふと呟いた。
「……お兄さんだ」
なんとなく訂正させた瞬間に、私の脳裏には彧の声が流れた。
(お前、そういうの気にするんだ!?)
ああ、彧は言いそうだ。
そう思うと、ふっと頬が緩んだ。
「おじさんは、幽霊かなにか? 最近ずっといたよね」
術が解けかけている。
気が緩んだのかもしれない。
「そうだね。おじさん、君たちが気になってたんだ。でももう成仏するから、さようなら」
ハルキ君はちょっと眩しそうな顔をして、ぺこんと頭を下げてくれた。
「ごちそうさまでした。……えっと、成仏できて、よかったですね……?」
「ふっ、そうだね。成仏はよいことだ」
この子のこれからは、どうなるんだろう。
またたまに見に来るのも、いいかもしれない――そんな思いを胸に、私は存在を薄くした。
空気に混ざるように。
風に溶けて、拡散するように。
「お幸せに」
ごくごく自然にこころからそんな言葉が零れて、自分の声があたたかく聞こえる。
――それはなかなか悪い気分ではないなと思うのだった。
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