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1章、悪役は覆水を盆に返したい。

8、木の芽雨、珂雪抱いて色に惑う(SIDE:憂炎)

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    SIDE 憂炎ユーエン

 外で芽雨めあめが降り始めて、洞窟内部に雨音が優しく遠く響いている。
 
「ね、寝てる……」 

 憂炎ユーエンの目は、初めて見る『元師匠』の寝顔に釘付くぎづけだった。

 自分にとって近いようで手の届かない雲の上の存在だった人、佳人かじんとして有名な元師匠。
 憂炎ユーエンにとって特別な存在である『魔教の高位魔人』――音繰オンソウが、今は自分の腕の中にいて、とても無防備だった。痩躯そうくを脱力させて憂炎ユーエンの腕の中で、眠っていた。
 
 白皙はくせき珂雪かせつの肌は心配になるほど儚い気を魅せていて、頬も腕も脚も肉薄で痛々しいくらい痩せている。
 記憶の中でいつも美しく潤む艶をみせていた射干玉ぬばたまの黒髪は短く切られていてうなじのあたりが無防備だ。
 
 唇はそれでも淡く色づいていて、肉感的な官能さを感じさせる。すこしひらいていて、内側があえかに濡れていて――吸い付きたくなる。
 
 ほっそりとした首筋や鎖骨、はだけた胸元はあまりになまめかしく、弱々しい気配が――なにかを

「……」
 憂炎ユーエンの喉がこくりと鳴る。
 匂いを追うように、そっと抱きかかえる元師匠に顔を近づけて、呼吸を確かめるように唇を近づける。
 
 誘惑の果実めいた唇に触れそうになる――、

「……っ、私はなにを……」

 憂炎ユーエンは誘惑に唇を寄せかけた自分にハッと気が付いて、あわてて視線を逸らした。
 数度、気を落ち着かせるように呼吸すれば、胸いっぱいに音繰オンソウの体臭が甘やかに感じられて動揺してしまう。
 
 なんと妖しく甘美な香りだろう……花のような蜜のような、いつまでも感じていたくなるこの匂い……。

 
 今なら、この魔人を好きにできる。
 弱っているこの人を、力に物言わせてどうとでもできる。
 衝動のままに蹂躙じゅうりんし、征服し、かせて、泣かせて……。
 

 !!
 

「公子様、憂炎ユーエン様、しっかりなさいませ。獣欲にまどっての軽挙けいきょはなりませんぞ!」
 
 ――冷たい刃のような声が、鋭く耳朶じだを打つ。
 
 銀色の狼耳をぺたりと伏せて、博文ブォウェン叱咤しったしてくれている。
 
 博文ブォウェンは、魔教の中では新参で異端の類――元正派の魔人。
 憂炎ユーエンにとっては、頼れる腹心的存在だ。
 
 他の魔人たちには冷たく嫌悪感を剥きだしにして接するこの銀色の魔人は、憂炎ユーエン個人に特別な忠誠を誓ってくれているのだ。
 
博文ブォウェン、私は正気だ……それにしても、この師の色香いろかは恐ろしいな。美しい。そう、綺麗なんだ私の師は。回復したらもっと麗しい。それはもう。それはもう」
憂炎ユーエン様?」

 憂炎ユーエンの記憶の中の師、音繰オンソウはその取り巻き弟弟子たちとよく遊んでいた。
 いわゆる大人の遊び――ありとあらゆるたわむごと奔放ほんぽうで、精通していた。

 憂炎ユーエンが身の周りを世話していた時代の師は、弟弟子たちといっしょに享楽の宴を催しては老若男女構わず抱いたり抱かれたりのしていたのだった。
 
 享楽的きょうらくてき艶笑えんしょうしながら、ひどく冷めた目をして。
 大して楽しくもなさそうにしながら。
 自分の美貌に盛りつき、獣のように欲情する者らが心底愚かしくて馬鹿馬鹿しいと蔑むように見下す瞳は、この世の者と思えぬくらい美しかった。
 
 憂炎ユーエンはそれを見て、『あんな風に冷然と見下されたくはないものだ』という反発心を抱くと同時に、『見下されてもいいからあんな風に師に触れてみたい』という劣情を覚えて大いに戸惑ったものだった。

「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ、問題ない」

「して、いかがなさいます?」 
 安堵あんどした様子で博文ブォウェンが方針を問う。

「いかがって――いや、抱かないぞ」
「公子様、抱くかどうかのお話じゃありませんっ。今なら、目撃者もいませんよ。滅ぼしてしまってもよいわけです。……でも、そのご様子から察するに、魔教の香主こうしゅ様にお知らせ申して、以前のようにチー家の御屋敷おやしきでおやすみいただくのでしょうか?」

 憂炎ユーエンは勘違いに気付き、目を瞬かせた。

 チー家とは、門派のトップ、宗主の家だ。
 魔教の現香主教主の氏がチーというのである。
 
 そして、音繰オンソウはフルネームがチー 音繰オンソウといい、現在の香主教主の直系血族なのだ。
 二十年前、突如として姿をくらますまで、音繰オンソウとその弟子憂炎ユーエンはずっとチー家の御屋敷おやしきで生活していたのだった。

「そうだな。生家、チー家の御屋敷おやしきにお帰りいただく。ご自身の以前のお部屋でゆっくり精を養って頂こう」

 語る胸中に、つい先ほど投げかけられた音繰オンソウの声が蘇る。

『私を殺したいのだろう――殺してもいいよ』
 
 ――憎らしい、殺してやりたい。
 そんな想いが確かにあったように思う。

 ……なのに、『殺してもいい』と言われた瞬間、反射のように憂炎ユーエンは首を振ったのだった。
 
 憂炎ユーエンは腕の中の憎い魔人を見つめて、自分の心に問いかける。

(……この魔人を殺さないのだな、私は?)

香主こうしゅ様にも、当然ご報告するぞ――それと、博文ブォウェン
 
 憂炎ユーエンは過去を思い出して、さわさわと胸の奥に得体の知れない感情が渦巻くのを感じながら足早に洞窟を後にしたのだった。
 
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