薫る薔薇に盲目の愛を

不来方しい

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第一章 盲目の世界

02 永遠に続く恋

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 五月に入り、何度目か判らない朝を迎えた。
「蓮君、いる?」
「ええっ?」
「どうしたの? そんなに驚いて。おはよ」
「おはようございます……や、だって、午前中にかずと先生が来ることってないから……」
「そうだね。今日は早番なんだ。朝ご飯は食べた?」
「食べました。卵が乗ってました」
「いいね。俺も今日はご飯に目玉焼きを乗せて食べてきたよ」
「おんなじ」
「同じだね」
 心臓が狂い始め、いっそ止まってくれたらこんな苦しい思いをしなくて済むのに、と解放を願ってしまう。
 今日はプラネタリウムで流れるような、天体の解説をするCDだ。星座や惑星の説明が流れるだけのCDだが、蓮は家でも聞くほど好きだった。
「蓮君、窓のカーテン開けるよ」
「はい」
 まだ包帯は取れていないが、日光を目に当ててもいいと医師からお許しが出たばかりだ。
 光はこれほど人にとって重要なものか、思い知らされる。
「気持ちいいねえ」
「当たり前にあった日常が戻ってきたって感じです。少しだけ、僕って恵まれていたんだなあって思います」
「そっか。そんな風に思えたなら、大きな一歩だね。ちょっとお散歩しない? 外に行こう」
「行きたいです!」
「おいで」
 手を宙に浮かせていると、柔い圧力で握られる。
 動揺を悟られたくなくて、俯いたまま立ち上がった。
「歩いて……そう、そこに腰下ろして」
 車椅子はゆっくりと動き出した。ドアを開ける音も人によるが、車椅子の動かし方も個性が出る。
 母はとにかく自分が動かしやすいように動かし、かずとは親切で暖かみがある。
「じゃあ、外に出るよ」
 外は緩やかな風に乗り、薔薇ではない何かの花の香りがした。
「これって何の花ですか?」
「これは藤だよ。病院から離れたところで咲いているけど、香りが風に乗ってきたみたいだね」
 かずとは車椅子を固定し、ベンチに座った。
「かずと先生」
「なに?」
「先生のこと、もっと知りたいです」
「あはは、そんなに話しても面白くもないよ」
「僕は楽しいです。先生の好きな食べ物とか、普段なにしてるとか」
「好きな食べ物は、そうだなあ……チーズとか、イカの塩辛とか」
「お酒飲むんですか?」
「飲むけどたしなむ程度かな。塩辛なんて、ご飯と一緒に食べたら美味しいんだから。今度やってごらん」
「挑戦してみます」
「いいね、そういうの。食わず嫌いせず、なんでもやってみようって言えるのは、素晴らしいことだよ」
 かずとと一緒に過ごした時間はほんのわずかだが、今まで感じたことのない想いに締めつけられ、戸惑う日々も多かった。
 それが恋だと気づいたとき、すとんと枠に当てはまった。声だけでまさか恋に落ちるのは思わなかった。声だけでは物足りなくなり、今度は顔も見たくてたまらなくなった。
「先生、」
「ん?」
「好きです」
 もし目と目が合った状態であれば、こんなに大胆な告白はできるだろうか。
 回りにどれだけ人がいるのかも見えないし、彼がどんな表情を浮かべているのかも判らない。
「──……俺も好きだよ。でも、友愛のような意味ではないのかな」
「あの……ええと……」
「きっと、蓮君は特別に好きって言いたいんだよね」
「は、はい……そうです」
 自分で告白したのに、そう言われると恥ずかしくて身体中が熱くなる。
「ごめんね。蓮君の気持ちには答えられない」
 一縷の望みすら叶わないと、心のどこかで思っていた。それでもはっきり伝えられると、手足の感覚がなくなる。
「俺が……身体が弱いからですか?」
「そうじゃないよ。蓮君の人生を奪うわけにはいかないんだ。君はこれからもっとたくさんの人と知り合って、恋をする。俺が邪魔しちゃいけないって思う。からかってるわけじゃないよ」
「はい……先生はそんな人じゃありません。もし、高校を卒業しても先生のことが好きだったら、もう一度告白をしてもいいですか」
「俺としては、蓮君が新しい恋を見つけてくれることが望みかな」
 今度こそ完全に振られてしまった。出会って一か月程度でも、気持ちの大きさは誰よりも負けないつもりだった。
「蓮君の目が良くなるように、祈っているからね」
 ぐっさりと言葉の矢が刺さる。
「先生……ありがとうございます」
「こちらこそ、どうもありがとう。蓮君と出会えて嬉しい」
「先生は、付き合ってる人がいるんですか?」
「ううん、……付き合ってる人はいないよ」
 間のある言い方に、ほんの少しの違和感を感じた。
「五月だっていうのに風が冷たくなってきたね。曇ってきたし、雨が降るかもしれない。そろそろ中へ入ろうか」
 手を取って車椅子へ乗せてもらうが、短い会話しか交わせなかった。



 なぜもっと気の利いたことを言えなかったのかと、翌日になって後悔する。
 かずとは昨日で病院を去り、他の先生へ問いつめても個人情報の問題があると絶対に教えてもらえなかった。
 彼を理解したのは、チーズやイカの塩辛が好きなこと、そして薔薇の花を病室へ持ってきてくれていたこと。
 彼の名字も年齢も顔も知らず、蓮は目が完治して退院することになった。



 彼が残してくれたものはとても大きかった。
 迎えにきたのは母ではなく、東京にいる祖父と祖母だった。
 都会の高校へ編入することになり、祖母が言うには「病院の先生に説得されて、息子と離れて暮らす決意をした」らしい。
 あの癇癪を起こす危険人物の説得をできそうな人物は、ひとりしか思い浮かばなかった。
 入院している間は苦しくても涙一つ流さなかったのに、初めて自室で号泣した。
 シャツの色や抱き枕の色が変わるほどに涙を流し続け、気づいたら畳の上で意識を手放していた。
 得たものは大きく、失ったものも大きい。
「かずと先生……」
 声にしてみると目尻から涙が零れた。ひとすじの涙は畳に吸い込まれていき、あれだけ泣いたのにまだ流れる液体があったのだと色濃く染まる畳を見つめる。



 前の高校よりも偏差値の低い学校だったが、蓮は有意義な生活を送ることができた。
 ストレスの根元だった母と離れると、成績は上がり友達も増えた。生きることは、こんなに楽しいものなんだと初めて思えた。
 原因不明であるが、ストレスを抱えたり緊張すると目が見えづらくなる後遺症は残ってしまったが、あのときのことがあったからこそ今に繋がっているのだと笑えた。
 春になると思い出すのは、一か月ほど味わった初めての恋。
 かずとは幸せでいてくるだろうか。恋をしているだろうか。結婚しているだろうか。
 いつか傷が良い想い出に変わるとき、彼の幸せを心から願いたい。



 蓮は祖父と祖母の家で高校生活を終えた。充実した日々に感謝し、卒業式の日はおこづかいで薔薇の花を購入した。
 二人は泣いて喜んでくれ、何度も「ありがとう」と口にした。
 用意されていたサプライズは桶に入った寿司で、祖母の手作りのおかずも何品か並んでいる。
 祖父の手元にはイカの塩辛もある。
「なんだ? 美味しすぎて泣いちゃったか?」
 酔っ払った祖父は上機嫌に笑った。
「うん。久しぶりの寿司、美味しい」
「そうかそうか。もっと食べんしゃい」



──かずと先生、ごめんなさい。もうちょっとだけ、あなたを好きでいさせて下さい。
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