あの夏をもう一度─大正時代の想ひ出と恋文─

不来方しい

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第一章 想ひ出

09 警

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 幸一はゆっくりと食べ進めている。時折、腹をさすっているのが気になって服を上に持ち上げてみた。
 顔以上に状態は悪い。包帯を巻かれているが、青い痣が隙間から見えている。
 早急にでも聞きたかったが、幸一が食べ終えるまで辛抱強く待った。
「頬、大丈夫か?」
 無理に作る笑顔が痛々しい。
 虎臣は目の奥が痛くなるが、
「僕の心配はいらない」
 自分の心配より他人の心配をするなど、頬より心の痛みが耐えられなくなる。
「美味かった。久々の飯は本当に美味い」
「水も飲むか?」
「ああ、ほしい」
 水筒ごと彼に渡すと、幸一は一気に飲み干した。
「久々って言ったが、もしかして昨日から何も食べていないのか?」
「ああ。水すらくれなかった」
「警察官にやられたのか?」
 虎臣は囁き声で訊ねた。
 水を飲んだ幸一はほうっと息を吐いた。
 熱があるのか、息が熱い。幸一は顔を上げる。
 どちらかともなくだった。必然的に、吸い寄せられるように、唇が触れ合う。が、すぐに離れた。
「八重澤、熱がある。熱すぎる」
 額に触れると、指先が徐々に暖められていく。
「風邪薬は入っていたよな」
「ああ。箱の中にある」
 新しく水をもらってきて、薬を飲ませた。目が虚ろだ。
「事情は明日良くなったら聞くよ。今日はもう寝よう」
「ああ……おやすみ」
「夜中辛くなったら、遠慮なく起こしてくれていいから」

 幸一は驚異的な回復を見せて、次の日には熱は下がっていた。
 一時的な可能性もあり、本日も休校となって助かったところはある。平熱になったとはいえ、幸一の身体はぼろぼろだ。
「昨日、校庭にある小屋の近くで絵を描いたって話しただろう。俺が絵を描いているところを校舎から見ていた生徒がいて、それで俺が疑われたんだ」
「たったそれだけで?」
「無理やり吐かせようと警察官に警棒で殴られるわ蹴られるわ……この有り様さ。そもそも仏さんになった生徒は知らないし、何度言っても向こうは判ってくれなかった。だから最後の手段を使うしかなかった」
「どうやって解放されたんだ?」
「俺は金融会社社長・八重澤正一の息子だ。父が知ったらどうなるだろうなって。案の定、俺を殴っていた警察官は顔が真っ青になったんだ。酔っ払った父さんが『警察官に知り合いがいる』って言ってたのを思い出して、それも話したんだ」
 金融会社の社長ともなれば、それなりの地位を持っている。
 親の名を出すなど不服でも、そうするしかないだろう。
「このまま切り抜けられなかったら、八重澤は死んでいた可能性もある。よく命あって戻ってきた」
「……殴られている最中、一番に浮かんだのはお前の泣き顔だった」
「僕の?」
「あの夏、洞窟で泣きそうになっているお前の顔だったんだ。あんな悲しませるような顔にしたくないって思っていた」
「あれは……八重澤との別れが辛かったんだ……っともかく、無事とは言い難いけど、本当に良かった。それで、犯人については何も聞いていないのか?」
「警察官は生徒がやったんでないかって勘ぐってはいる。連続なのかこれっきりなのか、時間が経ってみないと何とも言えないな」
 扉が叩かれ、虎臣は布団から距離を開けた。
「どうぞ」
 血の気が引いた表情の柏尾が猪の如く入ってくる。
「大丈夫かよ……なんたってそんなひどい顔なんだ」
「なかなかの二枚目だろう?」
「ああ、お前は最高だ。くそ、殺人事件なんてなんで起こったんだ」
「柏尾は野球部だったよな? 校庭で怪しい奴とか見ていないのか?」
 柏尾は首を振る。
「見てない。テスト期間中はそもそも部活禁止だろ。校庭にすら行ってない。他の野球部連中もそうだと思う。外で部活動をする生徒は事情聴取をされたんだ。八重澤は何をしてそんな顔になったんだ?」
「校庭で絵を描いていただけだ。それで疑われた」
「でも、その間は犯人も近づけなかったってことだよな。そもそも死体があったかも判らないか」
「小屋の中は見ていない。近くの桜の木を描いたんだ」
「ちょっと見せてよ」
 幸一は机に置いてある画帳を開き、柏尾へ渡す。
「上手すぎだろ……」
「趣味で描いているだけだ。ただの暇つぶし」
 幸一の夢は画家だが、柏尾に言うつもりはないのだろう。
「これ、小屋は空いていなかったのか?」
 桜の木の横の小屋もしっかりと模写されている。
「あまり気にせずそのままを書いただけだ。小屋には一切手を触れていない」
「絵の小屋には鍵がかかってるぞ」
「あ。そうだ……警察官が『お前が鍵を壊したんだろう』と怒鳴って殴ってきたんだ」
「壊した?」
 もう一度絵を見てみる。鍵は壊されてもいないし、しっかりと扉が閉じていた。
「これ、証拠になるんじゃないのか? 少なくとも八重澤が絵を書いていた時間帯に犯人はここへ来ていない」
「それだ。八重澤、もう一度警察官に言うんだ。それか八重澤の父さんに」
「父さんになら俺も事情を説明したい」
「すぐにでも言うべきだ」
 立ち上がろうとする八重澤へ肩を貸し、廊下に出た。
 他の生徒たちが詰め寄ろうとするが、柏尾は大声を上げて散らした。
 八重澤が電話を終えるまで隣で待った。柏尾も横にいてくれるのは心強い。
「ふー……。父さんも警察官とやりとりをしている最中らしい。後で警察官がここに来るよう伝えるから、絵を渡してほしいそうだ。あとで父さんも来て、病院へ行くことになった。柏尾、もう大丈夫だから部屋に戻ってくれ」
「何かあったらすぐ扉を叩けよ。また叩かれでもしたら俺が追っ払ってやるぜ」
「ああ、頼んだ」
 幸一の口調は弱々しい。部屋に戻ると、彼はすぐに布団に倒れた。
「大丈夫か? 痛み止めは飲むか?」
「一つ飲んでいるから平気だ。本当は、お前とふたりきりになりたかった。身体より心が弱まっているんだ。未知の体験が続きすぎて、心が追いつかない」
「誰だってそうなる。これだけ身体を痛めつけられたんだ」
 しばらくすると、今度は別の警察官がやってきた。
 幸一を連れていった偉そうな態度ではなく、やけに腰が低い。
 絵を一枚切り取って渡すと簡単な聴取をされ、最後には「お父さんによろしく」と言い残して去った。
「けっこうばたばたしているな。この様子だと、犯人が捕まるまで休校にかるかも」
「本田、おいで」
 手招きをするので、一緒に布団へ横になった。
 幸一の体臭に混じり、薬の香りがいっそう強い。
 腕を広げ、幸一の頭をそっと乗せた。
 幸一は身をよじりながら、足を絡ませてくる。
 虎臣は彼の足を軽く蹴った。
「なんか、避けていないか?」
「お前の身体を心配しているんだ……っ…………」
 発汗する身体は布越しでも湿っぽく、熱も抜け切れていない。欲望とともに吐き出したくとも、見つめ合う瞳はそさせてくれない。
「いつもどうやって処理をするんだ?」
「なんでそんな話になるんだ。お前、本当に寝た方がいい」
「このままだと寝られない。身体を拭いてくれないか?」
「…………判った」
 廊下では、生徒がちらほらと事件の噂話をしていた。
 見知らぬ生徒は聞きたそうにこちらを見やるが、虎臣は気づかないふりをし、桶にぬるま湯を入れて部屋へ運んだ。
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