36 / 67
第二章 フィアンセとバーテンダー
036 得たもの、消えたもの
しおりを挟む
「無事に帰還しました!」
元気良くボスのボスに挨拶をすると、思考の読めない笑みで彼は微笑んだ。
「ご無事で何よりです。もっと長くかかるのかと思っていました。ルイ、あなたの部下はしっかり挨拶をしたのに、あなたは何もないのですか?」
「……ご無沙汰しております」
ルイが。あのルイが。普段と態度が違う。少ししおらしい。
「大変よくできました」
ユーリさんが、ルイの頭を撫でている。ルイはおとなしくしている。珍しい光景に、口から変な声が漏れそうだ。というか漏れてしまった。
「ユーリさん、お土産買ってきましたよ。ギモーヴとマカロンです」
「ありがとうございます」
フランス人に買うお土産なのかと疑問だが、喜んでくれたのでよしとしよう。
「どのような方法で奪還したのか些か気になるところではありますがね」
「へへー、実は……」
「……志樹」
そんな風に呼ぶから、締まりのない顔になる。ユーリさんは仏のような微笑みでルイを見るが、ルイはフロアの様子を見たいと出ていってしまった。
「せっかく頂いたので、お土産も開けてお茶を入れましょう」
「あ、俺入れます」
満面の笑みだ。ソファーを指さされ、あの笑顔は「余計なことはするな」だ。長旅で疲れていたので、これは有り難い。
「人間関係は根っこがどっしりと根づいていれば、ちょっとやそっとでは崩れません。外面がどうであれ、例え婚約を結ぼうとも、息子を取り戻してくれ、とても嬉しく思います」
「あれ? なんで……」
「現代はネット社会ですよ。地球の反対側にいようがニュースはスマホ一つでどうにでもなります」
心なしかユーリさんの声が低くなった気がする。
「あの……怒ってます?」
「怒っているように見えますか?」
「ええと……そうですね……」
「息子を取り戻してくれたのです。感謝しかありませんよ。強いて言うならば、嫉妬しているだけです。お気になさらず」
「いやいやいや、別にそんなつもりじゃないですって! あれしか方法がなかったし、もしルイに好きな人ができたりベルナデットさんと婚約をもう一度したいんなら、俺はすぐに下がりますから」
「それはないでしょう」
穏やかに微笑むと、ルイが部屋に戻ってきた。三人でお茶をして、現状報告をして早めに就寝した。
起きたら身体中が重くてベッドから起き上がれなかった。原因は疲労と風邪。おとなしく寝ていろと上から上司二人に凄まれ、俺は起きることさえ許されない。体温計は三十八度を示していた。
ここ最近は怒濤の日々で、ゆっくりする暇もなかった。結局、外をマラソンできるくらいに回復したのは三日経ってからだった。
寝込んでいたときに食べていた残りだろうか。冷蔵庫の中にリンゴがある。ユーリさんがどこかで調達してきたミキサーもある。そして今日は、ルイもいる。交代交代看病してくれた最終日は、ルイの番だ。
リンゴをざく切りにしたら、ミキサーの中に入れる。作り置きのどくだみ茶も入れた。ぎゅるんぎゅるん鳴る音に、ルイがフロアから入ってきた。
「良いタイミング! ちょっとこれ飲んでみてよ」
「おい、冗談はやめろ」
「冗談?」
「そこにあるものはなんだ」
「リンゴの芯だけど」
「……横にあるものだ」
「魔法のドリンクかな」
俺手作りのどくだみ茶だ。ルイが好んで口にしている。俺も好きだが、ほとんどルイ専用と化している。ちなみにユーリさんが口にしたときは、朴念仁みたいな顔になった。
「色がおかしい。リンゴジュースの色ではない」
「わー、ほんとうだー、なぜかなー?」
「志樹、お前が飲め。ひと口飲め」
逃げ場がない。というより、なぜいけない味だと決めつけているのか。どくだみ茶入りのミックスジュースを飲んでみた。喉を通るどろっとしたものは、完全に刻まれていなくて少し固形として残っている。
「リンゴと、どくだみ茶の味がする。ではどうぞ」
ちょっとした賭けのようなものだ。もし何かと一緒に食べたり飲んだりできれば、味覚障害をもっと緩和ができるのではないか。みそ汁に混ぜたり、肉をつけてみたり。どこまでもどくだみ茶の味がつきまとってしまうのが難点だが、期待を込めた第一歩だ。
ルイの喉が鳴る。男らしく喉仏が突き出ている。
「どうだ?」
「……どくだみ茶と、リンゴの味がする」
「ひどい感想だなあ。それだけ?」
何か言いたげに、ルイは口を噤んだ。
「味は……ああ、リンゴの味だ。久々に感じた」
「何かに混ぜても味覚が戻るってことか。例え一瞬でも、すごい発見じゃんか」
「そうだな。さすがに私もこのような方法は思いつかなかった」
美味しいとは言ってもらえなかったけれど、人生を左右する発見だと思う。
朝食は簡単にクロワッサンで済ませ、残った特製リンゴジュースはふたりで半分にした。
今日から久々の講義である。少し大人になった気分で講義を受け、教授からレポートを楽しみに待っているとやんわりとした催促を受けた。
課題以外の問題もまだまだ山積みだ。さっそくおかしなメールが届いたが、相手は奥野さんだった。帰国したとき、メールをしたら学校で待ってると返事をくれた。
──大柄で角刈りの男性の知り合いっている?
混乱し、思考が停止してしまった。大柄な男性。バイト先の上司二人であれば、そんな感想は持たないだろう。どちらも長身で、ルイは美術館にいる人、ユーリさんはオリエンタルが融合したモデルだ。そもそも角刈りではない。
──いきなりどうかした?
──特に何も。大学内でいきなり声をかけられた。花岡とは仲が良いのって聞かれたけど、どう見ても怪しかったから、誰それって答えておいたわ。
黄色い規制線が勢いよくぶち破られた。新しく張っても意味は成さない。時間との戦いだ。
──それっていつの話?
──三十分くらい前かな。
角刈りで大柄な男性といえば、俺の中でたった一人しか浮かばない。俺は前に特殊清掃員のアルバイトをしていて、重野カズアキという先輩にお世話になった。彼の家にほいほいついていき、襲われかけたのだ。
──家に送っていくよ。
──そこまでしてもらわなくていいわ。別に怖い思いもしていないし。何か事件絡みなら警察に行った方がいいよ。
──ありがとう。そうさせてもらう。なるべく今日は早急に帰ってほしい。
これだけ学生がいる中、ピンポイントで奥野さんを狙って声をかけたのだ。俺と彼女がいるところを見られ、覚えられてしまった。奥野さんはいつも漆黒を身にまとっているため、とても目立つ。
どうしよう。どうしようしか言葉が出てこない。自分の大切な人に、もし何かあったりしたら。足の裏の感覚がなくなったかのように、地に着いている感覚がない。目の前が真っ暗だ。
入れ違いに今度はユーリさんからメールが届いた。おおよその検討はつきながらも、通話アプリを開く。
──今は大学ですね? すぐに帰ってきなさい。
命令形で大ボスからの連絡だ。帰ります以外、猶予も与えてくれない。既読をつけて返事をしないという返事をした。
駅まで走り、電車に乗って久しぶりの自宅までの道のりを歩く。走りたかったが、恐怖と何かあったときのために体力を温存しておこうと脇を締めた。
自宅近くのアパートまで行くと、警察官と鉢合わせになった。目を逸らすと声をかけられた。やってしまった。
「君、名前は?」
「え? いやいや、急いでいるので!」
「ここのアパートの人? 大学生?」
「まあ、はい」
「ちょっとね、不審者がうろついているって通報があったんだ。知らない? 学生証はあるかな」
ユーリさんの不思議な笑みがぼんやりと浮かぶ。感謝だが後が怖い。
学生証を渡すと、顔を二度見されてしまった。
「花岡君ね。事情は聞いてるけどどうしてここまで問題を放っておいたの?」
「いろいろ未遂で終わっているし、家に入られたのは確証がはっきり持てなかったので。今から家に戻りたいんですけど……」
警察官は何を今さらという顔で、俺の後ろをついてきてくれた。二階の部屋の前で鍵を差し込む。間違いなく鍵はかかっているが、そんなものは当てにならない。世の中は施錠という正しい行いをしても、不条理を前面に出してくる輩だっているのだ。
「先に入ろうか?」
頭を振り、一歩前に出た。蒸し暑いくらいで、鼻につくような臭いはない。
何も変わらないはずの部屋を見渡した。違和感がないように見えてある。ベッドも乱れていないし、押入もそのままだ。けれど何かが違う。警察官はトイレや風呂場をチェックしている。
「何か変わったところはない?」
警察官の言葉に、ふとルイの顔が頭をかすめた。彼はなんと言っていた? ルイとの会話を思い出せ。
ルイは俺の部屋に小型のカメラを設置してくれた。秋葉原で購入し、便利な場所だと呟いていた。
「そうだ……あのとき……」
ルイから何かをもらった。ルイも誰かに渡された。あれだ。チラシだ。
ゴミ箱の中を見ても、ちり紙一つ入っていない。俺はルイからチラシを渡され、二つ折りにしてテーブルに置いたはずだ。それが無くなっている。
「どうかした? やっぱり違和感ある?」
「テーブルに置いていた紙が無くなっています。チラシなんですけど」
「チラシ?」
警察官は訝しみながら目を細めた。勘違いではないのかと、疑いの目だ。ルイからもらったものだ、勘違いなわけがない。
一応あのときの流れを説明するが、警察官の目は変わらなかった。
中までついてきてくれた警察官だが、なるべく俺の勘違いの方向で持っていきたいと見え見えだった。こうなると、被害届は出せないだろう。
警察官は何かあったらすぐに連絡がほしいと言い、帰っていった。
もう一度タンスの中なども見るが、手をつけられた跡はない。やはりチラシだけだ。疑問なのは、なぜチラシを盗んでいったのか。お金になるわけでもないし、特別変わったものでもない。メイド喫茶のチラシは秋葉原でよく配られているもので、ルイだから渡されたのでもないし、その他大勢が受け取っているものだ。
あまり意味はないかもしれないが、しっかりと鍵をかけ、駅に向かう。秋葉原はあまり行かないし土地勘はない。俺の家からだと乗り換えもしなくてはならないし、趣味や知識のつまった街は俺には少し縁が遠い。
チラシのメイド喫茶を思い出せたのは、ニュースで取り上げられたりドラマの舞台になった場所で、脳の片隅に記憶していたからだ。場所は分からないのでネットで検索すると、一番上に来るほど有名なメイド喫茶だ。
「一番人気……あいにゃん。確かこの子だ」
チラシにも人気ナンバーワンだと書いていた。見逃してしまうほど小さな文字で、しばらく休業中と書いてある。
雑多に並ぶビルの間をくぐると、イメージしていた店とは違い、わりとこじんまりとした喫茶店だった。行列を作っていたためすぐに目を引いた。
ガラス越しには忙しく動き回るコスプレをした女性の姿が見える。これでは話を聞くことは不可能だし失礼だ。並んでいる男性からは、非難めいた目で見られる始末。
意を決し、俺は列の最後尾に並んだ。
元気良くボスのボスに挨拶をすると、思考の読めない笑みで彼は微笑んだ。
「ご無事で何よりです。もっと長くかかるのかと思っていました。ルイ、あなたの部下はしっかり挨拶をしたのに、あなたは何もないのですか?」
「……ご無沙汰しております」
ルイが。あのルイが。普段と態度が違う。少ししおらしい。
「大変よくできました」
ユーリさんが、ルイの頭を撫でている。ルイはおとなしくしている。珍しい光景に、口から変な声が漏れそうだ。というか漏れてしまった。
「ユーリさん、お土産買ってきましたよ。ギモーヴとマカロンです」
「ありがとうございます」
フランス人に買うお土産なのかと疑問だが、喜んでくれたのでよしとしよう。
「どのような方法で奪還したのか些か気になるところではありますがね」
「へへー、実は……」
「……志樹」
そんな風に呼ぶから、締まりのない顔になる。ユーリさんは仏のような微笑みでルイを見るが、ルイはフロアの様子を見たいと出ていってしまった。
「せっかく頂いたので、お土産も開けてお茶を入れましょう」
「あ、俺入れます」
満面の笑みだ。ソファーを指さされ、あの笑顔は「余計なことはするな」だ。長旅で疲れていたので、これは有り難い。
「人間関係は根っこがどっしりと根づいていれば、ちょっとやそっとでは崩れません。外面がどうであれ、例え婚約を結ぼうとも、息子を取り戻してくれ、とても嬉しく思います」
「あれ? なんで……」
「現代はネット社会ですよ。地球の反対側にいようがニュースはスマホ一つでどうにでもなります」
心なしかユーリさんの声が低くなった気がする。
「あの……怒ってます?」
「怒っているように見えますか?」
「ええと……そうですね……」
「息子を取り戻してくれたのです。感謝しかありませんよ。強いて言うならば、嫉妬しているだけです。お気になさらず」
「いやいやいや、別にそんなつもりじゃないですって! あれしか方法がなかったし、もしルイに好きな人ができたりベルナデットさんと婚約をもう一度したいんなら、俺はすぐに下がりますから」
「それはないでしょう」
穏やかに微笑むと、ルイが部屋に戻ってきた。三人でお茶をして、現状報告をして早めに就寝した。
起きたら身体中が重くてベッドから起き上がれなかった。原因は疲労と風邪。おとなしく寝ていろと上から上司二人に凄まれ、俺は起きることさえ許されない。体温計は三十八度を示していた。
ここ最近は怒濤の日々で、ゆっくりする暇もなかった。結局、外をマラソンできるくらいに回復したのは三日経ってからだった。
寝込んでいたときに食べていた残りだろうか。冷蔵庫の中にリンゴがある。ユーリさんがどこかで調達してきたミキサーもある。そして今日は、ルイもいる。交代交代看病してくれた最終日は、ルイの番だ。
リンゴをざく切りにしたら、ミキサーの中に入れる。作り置きのどくだみ茶も入れた。ぎゅるんぎゅるん鳴る音に、ルイがフロアから入ってきた。
「良いタイミング! ちょっとこれ飲んでみてよ」
「おい、冗談はやめろ」
「冗談?」
「そこにあるものはなんだ」
「リンゴの芯だけど」
「……横にあるものだ」
「魔法のドリンクかな」
俺手作りのどくだみ茶だ。ルイが好んで口にしている。俺も好きだが、ほとんどルイ専用と化している。ちなみにユーリさんが口にしたときは、朴念仁みたいな顔になった。
「色がおかしい。リンゴジュースの色ではない」
「わー、ほんとうだー、なぜかなー?」
「志樹、お前が飲め。ひと口飲め」
逃げ場がない。というより、なぜいけない味だと決めつけているのか。どくだみ茶入りのミックスジュースを飲んでみた。喉を通るどろっとしたものは、完全に刻まれていなくて少し固形として残っている。
「リンゴと、どくだみ茶の味がする。ではどうぞ」
ちょっとした賭けのようなものだ。もし何かと一緒に食べたり飲んだりできれば、味覚障害をもっと緩和ができるのではないか。みそ汁に混ぜたり、肉をつけてみたり。どこまでもどくだみ茶の味がつきまとってしまうのが難点だが、期待を込めた第一歩だ。
ルイの喉が鳴る。男らしく喉仏が突き出ている。
「どうだ?」
「……どくだみ茶と、リンゴの味がする」
「ひどい感想だなあ。それだけ?」
何か言いたげに、ルイは口を噤んだ。
「味は……ああ、リンゴの味だ。久々に感じた」
「何かに混ぜても味覚が戻るってことか。例え一瞬でも、すごい発見じゃんか」
「そうだな。さすがに私もこのような方法は思いつかなかった」
美味しいとは言ってもらえなかったけれど、人生を左右する発見だと思う。
朝食は簡単にクロワッサンで済ませ、残った特製リンゴジュースはふたりで半分にした。
今日から久々の講義である。少し大人になった気分で講義を受け、教授からレポートを楽しみに待っているとやんわりとした催促を受けた。
課題以外の問題もまだまだ山積みだ。さっそくおかしなメールが届いたが、相手は奥野さんだった。帰国したとき、メールをしたら学校で待ってると返事をくれた。
──大柄で角刈りの男性の知り合いっている?
混乱し、思考が停止してしまった。大柄な男性。バイト先の上司二人であれば、そんな感想は持たないだろう。どちらも長身で、ルイは美術館にいる人、ユーリさんはオリエンタルが融合したモデルだ。そもそも角刈りではない。
──いきなりどうかした?
──特に何も。大学内でいきなり声をかけられた。花岡とは仲が良いのって聞かれたけど、どう見ても怪しかったから、誰それって答えておいたわ。
黄色い規制線が勢いよくぶち破られた。新しく張っても意味は成さない。時間との戦いだ。
──それっていつの話?
──三十分くらい前かな。
角刈りで大柄な男性といえば、俺の中でたった一人しか浮かばない。俺は前に特殊清掃員のアルバイトをしていて、重野カズアキという先輩にお世話になった。彼の家にほいほいついていき、襲われかけたのだ。
──家に送っていくよ。
──そこまでしてもらわなくていいわ。別に怖い思いもしていないし。何か事件絡みなら警察に行った方がいいよ。
──ありがとう。そうさせてもらう。なるべく今日は早急に帰ってほしい。
これだけ学生がいる中、ピンポイントで奥野さんを狙って声をかけたのだ。俺と彼女がいるところを見られ、覚えられてしまった。奥野さんはいつも漆黒を身にまとっているため、とても目立つ。
どうしよう。どうしようしか言葉が出てこない。自分の大切な人に、もし何かあったりしたら。足の裏の感覚がなくなったかのように、地に着いている感覚がない。目の前が真っ暗だ。
入れ違いに今度はユーリさんからメールが届いた。おおよその検討はつきながらも、通話アプリを開く。
──今は大学ですね? すぐに帰ってきなさい。
命令形で大ボスからの連絡だ。帰ります以外、猶予も与えてくれない。既読をつけて返事をしないという返事をした。
駅まで走り、電車に乗って久しぶりの自宅までの道のりを歩く。走りたかったが、恐怖と何かあったときのために体力を温存しておこうと脇を締めた。
自宅近くのアパートまで行くと、警察官と鉢合わせになった。目を逸らすと声をかけられた。やってしまった。
「君、名前は?」
「え? いやいや、急いでいるので!」
「ここのアパートの人? 大学生?」
「まあ、はい」
「ちょっとね、不審者がうろついているって通報があったんだ。知らない? 学生証はあるかな」
ユーリさんの不思議な笑みがぼんやりと浮かぶ。感謝だが後が怖い。
学生証を渡すと、顔を二度見されてしまった。
「花岡君ね。事情は聞いてるけどどうしてここまで問題を放っておいたの?」
「いろいろ未遂で終わっているし、家に入られたのは確証がはっきり持てなかったので。今から家に戻りたいんですけど……」
警察官は何を今さらという顔で、俺の後ろをついてきてくれた。二階の部屋の前で鍵を差し込む。間違いなく鍵はかかっているが、そんなものは当てにならない。世の中は施錠という正しい行いをしても、不条理を前面に出してくる輩だっているのだ。
「先に入ろうか?」
頭を振り、一歩前に出た。蒸し暑いくらいで、鼻につくような臭いはない。
何も変わらないはずの部屋を見渡した。違和感がないように見えてある。ベッドも乱れていないし、押入もそのままだ。けれど何かが違う。警察官はトイレや風呂場をチェックしている。
「何か変わったところはない?」
警察官の言葉に、ふとルイの顔が頭をかすめた。彼はなんと言っていた? ルイとの会話を思い出せ。
ルイは俺の部屋に小型のカメラを設置してくれた。秋葉原で購入し、便利な場所だと呟いていた。
「そうだ……あのとき……」
ルイから何かをもらった。ルイも誰かに渡された。あれだ。チラシだ。
ゴミ箱の中を見ても、ちり紙一つ入っていない。俺はルイからチラシを渡され、二つ折りにしてテーブルに置いたはずだ。それが無くなっている。
「どうかした? やっぱり違和感ある?」
「テーブルに置いていた紙が無くなっています。チラシなんですけど」
「チラシ?」
警察官は訝しみながら目を細めた。勘違いではないのかと、疑いの目だ。ルイからもらったものだ、勘違いなわけがない。
一応あのときの流れを説明するが、警察官の目は変わらなかった。
中までついてきてくれた警察官だが、なるべく俺の勘違いの方向で持っていきたいと見え見えだった。こうなると、被害届は出せないだろう。
警察官は何かあったらすぐに連絡がほしいと言い、帰っていった。
もう一度タンスの中なども見るが、手をつけられた跡はない。やはりチラシだけだ。疑問なのは、なぜチラシを盗んでいったのか。お金になるわけでもないし、特別変わったものでもない。メイド喫茶のチラシは秋葉原でよく配られているもので、ルイだから渡されたのでもないし、その他大勢が受け取っているものだ。
あまり意味はないかもしれないが、しっかりと鍵をかけ、駅に向かう。秋葉原はあまり行かないし土地勘はない。俺の家からだと乗り換えもしなくてはならないし、趣味や知識のつまった街は俺には少し縁が遠い。
チラシのメイド喫茶を思い出せたのは、ニュースで取り上げられたりドラマの舞台になった場所で、脳の片隅に記憶していたからだ。場所は分からないのでネットで検索すると、一番上に来るほど有名なメイド喫茶だ。
「一番人気……あいにゃん。確かこの子だ」
チラシにも人気ナンバーワンだと書いていた。見逃してしまうほど小さな文字で、しばらく休業中と書いてある。
雑多に並ぶビルの間をくぐると、イメージしていた店とは違い、わりとこじんまりとした喫茶店だった。行列を作っていたためすぐに目を引いた。
ガラス越しには忙しく動き回るコスプレをした女性の姿が見える。これでは話を聞くことは不可能だし失礼だ。並んでいる男性からは、非難めいた目で見られる始末。
意を決し、俺は列の最後尾に並んだ。
1
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
煙草屋さんと小説家
男鹿七海
キャラ文芸
※プラトニックな関係のBL要素を含む日常ものです。
商店街の片隅にある小さな煙草屋を営む霧弥。日々の暮らしは静かで穏やかだが、幼馴染であり売れっ子作家の龍二が店を訪れるたびに、心の奥はざわめく。幼馴染としてでも、客としてでもない――その存在は、言葉にできないほど特別だ。
ある日、龍二の周囲に仕事仲間の女性が現れ、霧弥は初めて嫉妬を自覚する。自分の感情を否定しようとしても、触れた手の温もりや視線の距離が、心を正直にさせる。日常の中で少しずつ近づく二人の距離は、言葉ではなく、ささやかな仕草や沈黙に宿る。
そして夜――霧弥の小さな煙草屋で、龍二は初めて自分の想いを口にし、霧弥は返事として告白する。互いの手の温もりと目の奥の真剣さが、これまで言葉にできなかった気持ちを伝える瞬間。静かな日常の向こうに、確かな愛が芽吹く。
小さな煙草屋に灯る、柔らかく温かな恋の物語。
後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜
二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。
そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。
その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。
どうも美華には不思議な力があるようで…?
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
愛を騙るな
篠月珪霞
恋愛
「王妃よ、そなた一体何が不満だというのだ」
「………」
「贅を尽くした食事、ドレス、宝石、アクセサリー、部屋の調度も最高品質のもの。王妃という地位も用意した。およそ世の女性が望むものすべてを手に入れているというのに、何が不満だというのだ!」
王妃は表情を変えない。何を言っても宥めてもすかしても脅しても変わらない王妃に、苛立った王は声を荒げる。
「何とか言わぬか! 不敬だぞ!」
「……でしたら、牢に入れるなり、処罰するなりお好きに」
「い、いや、それはできぬ」
「何故? 陛下の望むままなさればよろしい」
「余は、そなたを愛しているのだ。愛するものにそのような仕打ち、到底考えられぬ」
途端、王妃の嘲る笑い声が響く。
「畜生にも劣る陛下が、愛を騙るなどおこがましいですわね」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる