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第三章 明巴

8 別荘に招かれた

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 俺が母に外泊の予定を話したのは、前日の夜であった。可能な限りさりげなく始めたのだが、案の定、母の声音が変わった。

 「その特別授業をしてくれる先生というのは、女の人?」
 「そうだよ」
 「いけません」

 受話器の穴から怒りの湯気が吹き出しそうだった。俺はやっぱりと思いつつも、まるで相手の懸念けねんには気がつかないふりをした。

 「だって折角選ばれたのに、俺だけ行かなかったら変に思われるし、みんなに遅れを取るじゃないか」
 「ユーキだけって、ほかにも誰か行くの」

 やや語調が変化した。しめた、と思う。しかし口調はあくまでも変えない。

 「アオヤギも呼ばれたし、コトリとかも呼ばれたって聞いた。余分な授業料を取られないよう、予備校には内緒で教えてくれるっていうからさ、あんまりおおっぴらには聞けなくて、全部で何人かまではわからないけど」

 ちゃんと聞いていてくれ、と祈るような思いで、エイミに言われた通りしゃべる。

 「エイミも行くのね」

 母は受話器の向こうで沈黙した。俺はだめ押しをすべきか考えて、余計なことを言うまいと決めた。ほどなく、受話器からため息がれた。

 「いいでしょう。気を付けて行ってくるのよ。ま、もいることだし」
 「誰がいるって?」
 「エイミもいることだしって言ったのよ」

 俺の耳にはどちらかというとフタミと聞こえたのだが、母が内緒で彼を送り込んでいることを知っていたので、追及しなかった。

 母はうっかりフタミの名を出したことを気に病んだのか、その後ほとんど話もせずに電話を切ったことは、俺にとってありがたかった。


 明巴の車は、狭くくねる山道を、ありえないスピードで疾走していた。カーブを曲がる度にタイヤがきしみ、車体が大きく揺れる。いつ転落してもおかしくない。そうでなければ、山肌にぶつかるとか。
 目的地へは、永久に着かないのではないか。

 そろそろ夕食時で、空腹もあって目が回る。

 「もう紅葉も終わりになって、残念ね。もう少し早く来られれば、それはきれいな景色が見られたのに」

 明巴は、運転しながら平気な顔で話しかけた。
 俺は、外の景色を眺めるどころではない。扉に取り付けられた把手とってを握る手に、力がこもるばかりである。

 時間のせいか、場所柄のせいか、山では他の車を全く見なかった。だからこそ、明巴も制限いっぱい、恐らくはそれ以上にスピードを出すことができたのだろう。恐ろしすぎて、スピードメーターを確認できない。
 でなければ、対向車と衝突して端微塵ぱみじんである。

 道もカーブの具合まで熟知じゅくちしているのだろう。何せ別荘を持っているのだ。
 ほとんど会話のないうちに、車がスピードを緩めた。急に視界が広がった。
 山の木々をバックに、看板が白く浮き上がって見える。
 俺は声を出して読んでみた。

 「梶尾射撃場かじおしゃげきじょう

 「そう。父はクレー射撃が得意なの。期間を決めて一般の人にも開放しているのだけれど、今は閉めているから私たちだけよ。別荘もここにあるの」

 明巴は車をあやつり、脇道へ入っていった。
 しばらく進むと、木立の中にチロル風の大きな木造建築物があった。個人の別荘というよりも、ペンションと呼んだ方が印象に合う。

 建物の前には、車回しがもうけられている。
 明巴が玄関前に乗り付けると、見計みはからったように正面の扉が両開きになった。

 「お帰りなさいませ、明巴お嬢様」

 定年退職後に第二の人生を送っています、と言わんばかりの、こじんまりとした老夫婦が、2人を出迎えた。明巴は慣れた様子で、老夫婦と引き合わせた。

 「山井やまい、こちらがフジノユーキくん。ユーキ、こちらが別荘の管理をお願いしている山井夫妻よ」
 「お世話になります。よろしくお願いします」

 孫のような年齢の俺にも深々と頭を下げる山井夫妻に、できるだけ丁寧にお辞儀を返した。

 「お嬢様、荷物をお部屋までお運びします」
 「頼むわ」

 明巴の荷物を受け取ると、自然に俺の分へ手を伸ばされた。

 「いえ。私は自分で」
 「遠慮しないの」

 明巴が俺の荷物をひったくるようにして、山井夫妻に手渡した。それから、彼らに頷きかける。

 「用意はできているわね」
 「はい」
 「用意?」

 聞き返すと、明巴は唇の両端を持ち上げ、にいっと笑った。ついぞ見ない、そして何故かかげりを感じさせる笑顔だった。
 
 「面白い物を見せてあげようと思って。きっと驚くわよ」

 それから、ホテルにあるロビーのような、広々とした空間に案内された。

 応接間に相当するのだろうが、ソファの数が普通一家族で使うよりも明らかに多い。あちこちにゆとりを持って配置されているところが、まさにロビーであった。

 俺の視線に気付いて、明巴が微笑む。やや自慢気だった。

 「父が射撃仲間を集めて大会を開く時に、パーティ会場として使うの。知り合いには安く貸すこともあるわ」
 「はあ。そうですか。豪勢ごうせいですね」

 どうも住む世界が違うようだ、と、ため息しか出ない。

 山井夫人がコーヒーを運んできた。スプーンは銀器で、カップには繊細な模様が描かれていた。
 明巴の前には、別の模様が描かれたカップが置かれる。

 どこかの喫茶店では、飾り棚に様々なカップが並べてあり、客がそれを見て好きなカップを選んでコーヒーを注文するそうだ。これも1客1客が高価なのだろう。

 やや緊張しながら口へ運ぶ。砂糖もミルクも入れ忘れて、コーヒーがやけに苦く感じた。

 明巴はすっかりくつろいだ様子で、微笑を浮かべながら俺を見つめている。
 外のホテルでしか会わなかった間には、見せなかった表情である。広い空間も、すっかりお馴染みのようだ。

 俺は少しずつコーヒーを飲み、カップが空いたところで慎重に皿へ戻した。熱いコーヒーを飲んでほっとしたのか、今頃になって急に車の酔いが回ってきた。

 「ユーキ、どうしたの」
 「すみません、梶尾先生。少し、休ませて、もらっ て」

 ひどく具合が悪かった。急に視界が暗くなる。見たことのない大男が視界を横切る。幻覚だろうか。
 部屋でもない場所で眠ったら迷惑だろうな、と思いつつ、耐えきれなくなった俺は目を閉じた。


 まぶしくて、体が思うように動かせない。手足が痛む。
 泥の中からい上がるような、気分の悪さにまとわりつかれたまま、俺は目を開けた。すぐには周りが見えない。

 「あら起きたのね。間に合ってよかった」

 明巴の声がした。目が慣れると、すぐ前に、長い物をげた明巴がいた。俺は手足が縛られていることに気がついた。後ろに人の気配がする。

 「どういうことです、先生」
 「あなた、私をだましたわね」

 明巴の表情は逆光でよく見えない。空はすっかり夜の色で、辺りが明るいのは、野球場のような強いライトで照らされているせいだった。

 「何のことです」

 「あの娘に教えてもらわなければ、わからなかったわ。いきなり声をかけられた時にはびっくりしたけど。二股ふたまたかけるのはいけないことよ。しかも、彼女の大学へ私を連れて行くなんて、あなたもずうずうしいわね。それに愛人までいたんだから、正確には三股よねえ」

 「愛人?」

 「調べてみたら、隣に住んでいるじゃないの。生粋きっすいの地元弁を使うから、全然気がつかなかったわ。彼女、ご両親がこちらの出身なんじゃないかしら」

 「出身?」

 まだ頭にきりがかかったような感じである。明巴の言葉が、全く理解できない。

 いきなり猿ぐつわをかまされた。後ろから色の黒い大男が現れて、水中眼鏡のようなものを装着された。

 明巴は一歩下がって長い物を構えた。銃だった。俺は縮み上がった。

 「心配しないで。ちょっとおしおきするだけよ」

 明巴はすぐに銃を下ろし、背を向けて暗がりへ去った。大男が後から続く。俺は光の中へ1人取り残された。

 「助けてくれ」

 言葉は猿ぐつわに邪魔されて、くぐもった音に終わる。身動きしようにも、しっかりと何かにくくりつけられたようで、縛られた手足が痛むだけであった。

 ひゅん。目の前を右から左へ細長い物が飛び去った。

 ひゅん、また同じ物が目の前を過ぎた。

 ばりん。破片が、左頬を打った。

 ばりん、と破片が右側から降り掛かる。

 ひゅんばりん。頭上を通り過ぎようとした物が砕かれ、破片が降り注いだ。

 クレイ射撃だ。少しずつ霧が晴れてきた頭で、俺はやっと思い当たった。

 目をぴったり覆う水中眼鏡をかけさせたことから考えても、致命的な怪我を負わせる気はないのだろう。
 しかし、破片が降り注ぐのを防ぐことはできない。大きい破片はそれなりに痛い。角度によっては、頭に刺さる。

 暗がりにいる明巴の姿は見えない。見えない場所から狙い撃ちにされるのは、やはり恐ろしかった。いつ間違って、弾が当たるかもしれないのだ。

 ひゅんばりん、ひゅばり、ひゅっ、かん。

 銃弾が、すぐ脇を通り過ぎるのを感じ取った。気を失いたいのに、目はますます冴えた。感覚が研ぎすまされてきたのか、クレイとクレイの間が、ひどく長く感じられるようになった。

 「ユーキ様、意識はありますか」

 後ろから、聞き覚えのある声がした。俺は縛られたまま、精一杯の身動きをした。
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