電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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小さな恋人

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〈加賀編〉

「ただいま」
 帰宅すると、足音が近づいてきた。子どもが走るような、どたどたとやかましい音だ。
 光でも遊びに来てるのか、と思ったが、違った。小さな男の子が現れた。
「おかえりなさい」
 輝く笑顔で出迎えた、エプロン姿の男の子。
「えっと? どちらさま?」
「きょうのメニューは、かがさんの、だいすきな、カレーライスです!」
 何かの台本でも読んでいるかのように、ハキハキと宣言すると、満足げにどうだ、という感じで胸を張った。
「うれしい? うれしいっていって」
「うん、嬉しい。カレーライスは大好きだけど、君は誰?」
「たくさんおかわりしてね」
「お、おう」
 なぜか質問に答えない男の子が、俺の手を小さな両手で握り締め、リビングに引っ張っていく。部屋の中を見まわした。俺の大切な宝物の姿がない。
「あれ? 倉知君は?」
「はーい」
 男の子が手を挙げる。
「ん?」
「くらちななせ、よんさいです!」
「え?」
「もっかいやって」
「は?」
「くらちななせくーんって、もっかい」
 ああそうか、と思い出した。この子は倉知か。そうだった、四歳になったんだった。
「倉知七世くーん」
 幼稚園の先生になったつもりで呼んでやると、四歳の倉知が「はーあーいーっ!」と声を張り上げて手を振りかざす。愛しさが胸にこみあげてくる。思わず抱きしめて「よくできました」と褒めてやった。
「あれ? 何? なんだっけ、なんかすげえ大事なこと忘れてる気がするけど」
「あっ、わすれてた」
 倉知がわざとらしく手を叩く。
「カレーライスたべるんだった」
「あー、そうだっけ?」
 倉知がいそいそダイニングの椅子を引いた。テーブルには湯気を上げたカレーが二皿並べられている。
 俺は倉知の作るカレーが大好きだ。果たして四歳児がカレーを作ることができるのかはわからないが、そんなことはどうでもよかった。
「食うか」
「くう」
 二人で向かい合い、「いただきます」と声を揃える。着替えた覚えがないのに、いつの間にかスーツから部屋着になっていたが、気にならなかった。
「美味い。やっぱ倉知君のカレーは最高だな」
「えへへ。うでにのりをかけたよ」
 もしや「腕によりをかけた」と言いたかったのかもしれないが、この間違い方はきっと母の受け売りだろう。口元にカレーをつけた倉知が照れ笑いしている。
 真ん丸なむき出しのおでこが可愛いな、と思った。小さな手で大きなスプーンを持って、口に運ぶ一生懸命さも可愛い。椅子とテーブルが大人の高さだから、食べにくそうだがその不自由さが可愛さに拍車をかけている。
 ああ、くそ、本当に宝物だ。
「かがさん、あのね、きょうね、おともだだちとね、でんしゃごっこした」
「ん、そうか。なんかお前のおともだち、変じゃない?」
「ぼくのおともだだち、へんじゃないよ」
 むきになる倉知に、キュンと胸が鳴った。いつもぼくって言ってたんだったか? なんだ? 可愛くないか? どうなってる? いや、別に、可愛いのはいつもだな。うん、倉知はいつも可愛いんだった。
「ぼくのおともだだちはけんたくん」
「うん、やっぱ変だな。おともだち、ゆっくり言ってみて」
「おともだだち」
 だが一個多いから違和感があったのか、と気づく。
「お、と、も、だ、ち」
「お、と、も、だ、だ、ち」
「え? なんで?」
 笑えてきた。倉知は知らん顔でカレーを食べている。
「可愛いな、おい」
 耐え切れず、スプーンを放り投げて倉知に飛びついた。頬ずりをするとくすぐったそうに、でも嬉しそうに、可愛い顔で笑って身をよじる。
 可愛い、くっそ可愛い、食べてしまいたい。
 我慢できずにイガグリ頭にかじりついた。倉知が笑いながら「たべられちゃう」とじたばたしている。可愛い。おのれ。この可愛い物体め。
「ぼくおふろはいりたい」
 倉知が俺の腕の中で落ち着いた声で言った。今まではしゃいでいたのにトーンダウンの仕方が極端だ。
「うん、そうだな、入ろう。お前カレーまみれだもんな」
 風呂に入ることにした。
 脱衣所でいそいそと服を脱いでいると、下半身だけ丸出しになった倉知が両手を上げて立ち尽くしていることに気づいて二度見する。
「え? 何それ、何してんの? 元気玉?」
「ばんざいしてるの」
「ん? ああ、こういうこと?」
 服をめくって脱がしてやった。真っ裸になった倉知が風呂場にすっ飛んでいく。
 小さな尻を眺めながら、なんだっけ、と首をかしげる。
 やっぱり何か忘れている。
「倉知君って、こんなだっけ? あれ? もうちょっと大きくなかった?」
 股間にぶら下がる小さな物体を見ながら訊いた。倉知はきょとんとしていたが、「ぼく、おっきくなったよ」と口をとがらせた。
「よんさいだよ」
「そうだったな、よしよし」
 頭を撫でると機嫌を直して笑顔を満開にさせる。
 何もかもが腑に落ちないが、可愛いからなんでもよくなった。
 髪と体を洗ってやり、向かい合った格好で倉知を膝にのせ、湯船に浸かる。
「かがさんかがさん」
「ん?」
「だーいすき」
 無邪気な笑顔。涙が出そうだ。込み上がってくる愛情。倉知の頬を両手で挟んで「うん、俺も」と返してやる。つかんでいた倉知の顔に、唇を寄せる。丸くてつるつるのおでこに軽く吸いつくと、倉知がおおはしゃぎで抱きついてくる。抱きとめて、幸福感に身をゆだねる。
 なんて愛しい存在だ。すべてのパーツが小さくて、頼りなくて、簡単に壊れてしまいそうだ。
 頭も、耳も、肩も、腕も、爪だって、全部が嘘みたいに小さい。
「すげえな、何これ。やわっこい」
 体がぷにぷにしている。指が沈んで、すぐに骨の感触。指を押し返す、弾力のある柔らかい筋肉とは大違い。
 なぜだか筋肉が、懐かしい。バキバキに割れた腹が、恋しかった。
 いーち、にーい、さんまのしっぽ、ごーりーらーのむーすーこー、なっぱーはっぱーくさったとうふ。
 倉知の甲高い声がバスルームに響く。
「お前よくこんなの知ってるな」
「おとうさんがおしえたよ」
「あー、なんかお父さんっぽい」
 お父さん。そういえばこいつには家族がいるのに、どうして俺と暮らしているのだろう。どういういきさつで四歳児を預かっているのか、記憶があやふやだ。
 なんだっけ?
 なんだか上手く思考できない。考えようとする力がほぼゼロだ。
 まあいいか。
 風呂から上がり、バスタオルで体を拭いてやった。大人しく身を任せる小さな体が愛おしい。
「ちがう」
 パジャマを着せようとすると、倉知が険しい顔で拒絶した。
「じぶんでする」
「あ、そうですか」
 床に尻をついて、片脚ずつパンツに脚を通し、次にズボンを履く。引っかかってなかなか履けないでいる。なんともまどろっこしく、つい手を出してやりたくなったが、黙って見守った。
「かがさん、うたって」
「え?」
「パジャマのうた」
「何それ」
「ぱじゃまでお、じゃ、ま!」
「あー、なんかあったな」
 歌詞がおぼろげだったが、リクエストに応えて適当に口ずさんでやると、得意満面になり、歌に合わせて袖を通し、歌い終わる頃には完成した。
「つぎははみがき」
 自分で歯ブラシに歯磨き粉をつけて、ぎこちない動きで磨いている。やがて俺に歯ブラシを突きつけて泡だらけの口で「しあげはかーがーさーん」と言った。
「可愛い」
 抱きしめた。スリスリが止まらない。倉知が俺の腕の中で暴れている。
「しあげするの!」
 半泣きになっている。すいませんと謝って、倉知の頭を膝にのせた。倉知が小さな口を開けて目を閉じる。
「はは、目は閉じなくてもいいんだぞ」
 歯を磨いてやりながらそう言うと、倉知が恐々と目を開けた。
「お前、キスのときはガン見するのにな」
 倉知が不思議そうな顔で俺を見上げている。
「あれ?」
 今俺はなんて言った?
 まあいいか。細かいことがことごとくどうでもいい。
「よし、寝るか」
「ねる」
 倉知とベッドに潜り込む。小さな体がふところに潜り込んでくる。すっぽりと収まるサイズ感が可愛い。存在自体が可愛い。存在してくれてありがとう。
 もう、本当に、愛してる。
「かがさん」
 くりくりの目が俺を見上げてくる。ずっと、こいつを見ていたい。頭を撫でながら「うん」と返事をする。
「おきて」
「……え?」
「起きてください」
 急に声が低くなった。
「遅刻しますよ」
 ハッと目を開けた。
 優しい顔がにこりと微笑む。一瞬、誰だっけ、と混乱した。
「何か楽しい夢でも見てました?」
「え、夢?」
 そうだ、夢だ。
 倉知だ。もう四歳じゃない。立派な二十歳の男だ。
 覚醒すると安堵した。でもどこか、寂しいような、残念のような。
「あー、すげえ、やばい、忘れたくない」
 幼い笑顔が、ぼんやりと薄れていく感覚。
「どんな夢見てたんですか? 寝ながら笑ってましたよ」
「うん、すげえ可愛い夢」
「可愛い夢?」
 体を起こして倉知を見る。面影がある。あれは俺が勝手に作り上げた妄想の産物ではなく、本物の、四歳の倉知だったのかもしれない。
「倉知君、おともだちって言える?」
「え?」
「おともだち」
「なんですか? おともだち?」
「おっ、言えるじゃん。やったー、偉いぞ」
「寝ぼけてます?」
 笑いながら真後ろに倒れ、枕に頭を沈めた。目を閉じる。今からもう一度眠ればまだ間に合う。すぐに会える気がした。
「朝ご飯、食べないんですか?」
「うん、食べる」
 たかが夢だが、ものすごく名残惜しい。
「倉知君」
 目を閉じたまま、両手を掲げた。倉知が小さく息をつく音。仕方ないな、という響きを含んでいる。ベッドがかすかに揺れて、倉知の体温が覆いかぶさってくる。肉厚な体の手触りと、大人の男の重み。
「大きくなったな」
 しみじみと言うと、倉知が吹き出した。
「おかげさまで」
「なあ、今度お前の小さいときのアルバム見せてよ」
 きっとそこには、わずかな時を共有した小さなあいつが、写っている。

〈おわり〉
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