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第5章 ルネッサンス攻防編
第536話 武術とは身を守る術のことだ。
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(食われる――!)
生死の境目を、ネオンはその瞬間に実感した。
(死にたくない!)
その想いが、ネオンの両手を動かした。腰に差した山刀を引き抜くと、巨熊の襲撃に備えて体の前にかざした。
だが、そのまま熊が襲い掛かれば山刀1つでは支えきれない。ネオンは巨体の重みに押しつぶされたことであろう。
それでもネオンの心から恐れは去っていた。少なくとも「ただではやられない」という闘志が、恐怖を上回っていた。
ネオンも武術家であった。
全身全霊を籠めて山刀を打ち込む。そのことだけがネオンの意識を占めていた。
「ヴォオオーッ!」
巨熊が両手を振り上げてネオンにのしかかろうとした時、黒い塊が熊の背中にぶち当たった。
巨大な背中を蹴りつけてさらに空中へ跳び上がったのは、山刀を振りかぶったクラウスだった。
後ろに振り向こうとする巨熊の頭に、両手で振り下ろした山刀を叩きつけた。全身の体重と筋力のすべてを集めた一撃は、岩のような巨熊の頭蓋骨を断ち割り、脳にまでめり込んだ。
巨熊の四肢から力が抜け、大木が倒れるように地を打った。
振り向く動きの途中だったため、巨体はネオンには当たらず、幸いにも傍らの地面に落ちた。クラウスは山刀を頭蓋骨から外すことができず、振り飛ばされて地面を転がった。
「ぐふっ。ネオン、無事か?」
打撲の痛みをこらえ、クラウスは身を起こした。その声にネオンも正気を取り戻す。
「おとう! あたしは無事だ」
山刀を構えて熊から後ずさりながら、ネオンは立ち上がった。動くと腰や背中が悲鳴を上げるが、今は痛みを頭から追いやる。歯を食いしばって、ネオンはクラウスのもとへ進んだ。
「おとう、無事でよかった」
「馬鹿野郎!」
安堵の言葉を漏らしたネオンを、クラウスはいきなり殴りつけた。
「なぜ、皆と一緒に山を下りなかった? お前一人が残って何になるか!」
「でも、おとう……!」
「命を無駄にするな! 武術とは身を守る――」
「ガァアアア!」
クラウスは最後まで語ることができなかった。死に絶えたと思った巨熊が、山津波となってクラウスの腹を襲った。熊の咢はごっそりとクラウスの腹部をえぐり取っていた。
クラウスはショック症状を起こし、白目をむいて死んだ。巨熊も最後の力を使い切り、クラウス共々地面に転がった時には息絶えていた。
◆◆◆
「武術とは身を守る術のことだ」
山道を歩きながらネオンはポツリと語った。
「親父はそう言いたかったのだろう。武術者は誰よりも命を大切にしなければならない」
「はい――」
ステファノにはネオンの背中しか見えない。その背中は泣いているようには見えなかった。
その背中は、むしろ何かを背負う人のものであった。
「山は獣たちの世界だ。人が住むところではない。我らはそれを忘れてはならない」
「はい、先生」
ネオンはそれきり口をつぐんだ。ステファノも語ることがない。
やがて2人は池のほとりにやって来た。
「ここは獣たちの水飲み場だ。水鳥にとっては餌場でもある」
そう言うと、ネオンは適当な木陰にかがみ込み、獲物を待つ態勢に入った。
池の中央近くにカルガモの集団が浮かんでいるが、ネオンにはそれを狙う様子がない。
「あのカモは狙わないんですか?」
「お前水に入りたいのか?」
ネオン師はじろりとステファノを見やって言った。
「あ」
カルガモを礫で仕留めることはできるかもしれない。しかし、死んだカルガモをどうやって手元に回収するのか?
「お前が犬を連れた猟師なら狙っても良いだろう。自分で泳いでまで取りに行く獲物ではあるまい」
他に狩るものがなければそうしても良いと、ネオン師は言う。
「そうでした。仕留めた後のことを考えなければいけませんね」
「そういうことだ。なに、鳥は水鳥ばかりではない。水に浮かばぬ鳥もいるさ」
岸辺に降りる鳥であれば、礫の的にできる。
「鳥を撃つなら立ち際、降り際を狙え」
「飛び立つ瞬間、降り立つ瞬間ということでしょうか?」
「そうだ。地面からわずかに離れた状態にある時、鳥は最も無防備になる」
地面や樹上であれば脚の力で俊敏に動くことができる。風に乗って飛んでいる時も鳥は自在に動く。
しかし、地面を離れた瞬間は揚力を得ることに必死で方向転換や急発進ができない。着地する瞬間も鳥は制動することしかできないのだと言う。
「そこを捉えて礫を撃つ。羽のつけ根が狙いどころだ。傷つければ鳥は飛べず、地面に落ちる」
頭も急所ではあるが、狙いにくい難点があった。
「……来たな。あれが降りてきたら狙ってみろ」
「はい。やってみます」
ステファノは拾い集めて置いた石を、左右の手に4つずつ握った。既にイドを鎮めて気配は消している。
ネオン師も森に溶け込むように気配を抑えていた。
2人が隠れているのは水辺から20メートルほど離れた木の下だ。梢の枝葉のお陰で上空からは姿が見えない。
降りて来たのは2羽のキジだった。
入り江のようになった岸辺を目掛けてスーッと降りて行き、地面の手前で急制動をかける。わずかながら着地のタイミングが2羽の間でずれていた。
1羽めがばさりと音を立てて着地し、羽をたたんだ。そこへ2羽めが降りて来る。
ステファノが動いたのはその時だった。
――――――――――
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
◆次回「第537話 面白い。そういう道もあるのだな。」
ステファノは木陰を避けながらすいと立ち上がった。わずかな動きを後から下りて来たキジが見つけ、慌てて逃げようと羽ばたいた。
しかしキジは既に着地の動きに入っており、すぐには新たな揚力を得られない。大きな鳥ほど機動性が低いのだった。
宙でもがくキジを狙って、ステファノは右上天の礫を放った。鋭く空気を斬り裂きながら、礫はキジの翼を捉えた。ネオン師が教えた急所であるつけ根の部分だった。
……
◆お楽しみに。
生死の境目を、ネオンはその瞬間に実感した。
(死にたくない!)
その想いが、ネオンの両手を動かした。腰に差した山刀を引き抜くと、巨熊の襲撃に備えて体の前にかざした。
だが、そのまま熊が襲い掛かれば山刀1つでは支えきれない。ネオンは巨体の重みに押しつぶされたことであろう。
それでもネオンの心から恐れは去っていた。少なくとも「ただではやられない」という闘志が、恐怖を上回っていた。
ネオンも武術家であった。
全身全霊を籠めて山刀を打ち込む。そのことだけがネオンの意識を占めていた。
「ヴォオオーッ!」
巨熊が両手を振り上げてネオンにのしかかろうとした時、黒い塊が熊の背中にぶち当たった。
巨大な背中を蹴りつけてさらに空中へ跳び上がったのは、山刀を振りかぶったクラウスだった。
後ろに振り向こうとする巨熊の頭に、両手で振り下ろした山刀を叩きつけた。全身の体重と筋力のすべてを集めた一撃は、岩のような巨熊の頭蓋骨を断ち割り、脳にまでめり込んだ。
巨熊の四肢から力が抜け、大木が倒れるように地を打った。
振り向く動きの途中だったため、巨体はネオンには当たらず、幸いにも傍らの地面に落ちた。クラウスは山刀を頭蓋骨から外すことができず、振り飛ばされて地面を転がった。
「ぐふっ。ネオン、無事か?」
打撲の痛みをこらえ、クラウスは身を起こした。その声にネオンも正気を取り戻す。
「おとう! あたしは無事だ」
山刀を構えて熊から後ずさりながら、ネオンは立ち上がった。動くと腰や背中が悲鳴を上げるが、今は痛みを頭から追いやる。歯を食いしばって、ネオンはクラウスのもとへ進んだ。
「おとう、無事でよかった」
「馬鹿野郎!」
安堵の言葉を漏らしたネオンを、クラウスはいきなり殴りつけた。
「なぜ、皆と一緒に山を下りなかった? お前一人が残って何になるか!」
「でも、おとう……!」
「命を無駄にするな! 武術とは身を守る――」
「ガァアアア!」
クラウスは最後まで語ることができなかった。死に絶えたと思った巨熊が、山津波となってクラウスの腹を襲った。熊の咢はごっそりとクラウスの腹部をえぐり取っていた。
クラウスはショック症状を起こし、白目をむいて死んだ。巨熊も最後の力を使い切り、クラウス共々地面に転がった時には息絶えていた。
◆◆◆
「武術とは身を守る術のことだ」
山道を歩きながらネオンはポツリと語った。
「親父はそう言いたかったのだろう。武術者は誰よりも命を大切にしなければならない」
「はい――」
ステファノにはネオンの背中しか見えない。その背中は泣いているようには見えなかった。
その背中は、むしろ何かを背負う人のものであった。
「山は獣たちの世界だ。人が住むところではない。我らはそれを忘れてはならない」
「はい、先生」
ネオンはそれきり口をつぐんだ。ステファノも語ることがない。
やがて2人は池のほとりにやって来た。
「ここは獣たちの水飲み場だ。水鳥にとっては餌場でもある」
そう言うと、ネオンは適当な木陰にかがみ込み、獲物を待つ態勢に入った。
池の中央近くにカルガモの集団が浮かんでいるが、ネオンにはそれを狙う様子がない。
「あのカモは狙わないんですか?」
「お前水に入りたいのか?」
ネオン師はじろりとステファノを見やって言った。
「あ」
カルガモを礫で仕留めることはできるかもしれない。しかし、死んだカルガモをどうやって手元に回収するのか?
「お前が犬を連れた猟師なら狙っても良いだろう。自分で泳いでまで取りに行く獲物ではあるまい」
他に狩るものがなければそうしても良いと、ネオン師は言う。
「そうでした。仕留めた後のことを考えなければいけませんね」
「そういうことだ。なに、鳥は水鳥ばかりではない。水に浮かばぬ鳥もいるさ」
岸辺に降りる鳥であれば、礫の的にできる。
「鳥を撃つなら立ち際、降り際を狙え」
「飛び立つ瞬間、降り立つ瞬間ということでしょうか?」
「そうだ。地面からわずかに離れた状態にある時、鳥は最も無防備になる」
地面や樹上であれば脚の力で俊敏に動くことができる。風に乗って飛んでいる時も鳥は自在に動く。
しかし、地面を離れた瞬間は揚力を得ることに必死で方向転換や急発進ができない。着地する瞬間も鳥は制動することしかできないのだと言う。
「そこを捉えて礫を撃つ。羽のつけ根が狙いどころだ。傷つければ鳥は飛べず、地面に落ちる」
頭も急所ではあるが、狙いにくい難点があった。
「……来たな。あれが降りてきたら狙ってみろ」
「はい。やってみます」
ステファノは拾い集めて置いた石を、左右の手に4つずつ握った。既にイドを鎮めて気配は消している。
ネオン師も森に溶け込むように気配を抑えていた。
2人が隠れているのは水辺から20メートルほど離れた木の下だ。梢の枝葉のお陰で上空からは姿が見えない。
降りて来たのは2羽のキジだった。
入り江のようになった岸辺を目掛けてスーッと降りて行き、地面の手前で急制動をかける。わずかながら着地のタイミングが2羽の間でずれていた。
1羽めがばさりと音を立てて着地し、羽をたたんだ。そこへ2羽めが降りて来る。
ステファノが動いたのはその時だった。
――――――――――
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
◆次回「第537話 面白い。そういう道もあるのだな。」
ステファノは木陰を避けながらすいと立ち上がった。わずかな動きを後から下りて来たキジが見つけ、慌てて逃げようと羽ばたいた。
しかしキジは既に着地の動きに入っており、すぐには新たな揚力を得られない。大きな鳥ほど機動性が低いのだった。
宙でもがくキジを狙って、ステファノは右上天の礫を放った。鋭く空気を斬り裂きながら、礫はキジの翼を捉えた。ネオン師が教えた急所であるつけ根の部分だった。
……
◆お楽しみに。
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