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別れのとき

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 その日の晩、フラムはアブニールの中に溜まった有害物質をすべて取り除いたと告げた。
 長いようで短いガイディングがようやく終わったのだ。早く健康な体を取り戻してフラムに協力したいと思っていたはずなのだが、フラムの手が離れていくときには一抹の寂しさを感じてしまった。

「これからも闘うたびに有害物質は溜まるから、定期的に俺のもとを訪ねてくれ。なんなら毎日でもいいぜ?」

 出来るなら毎日通いたいという本音を押し隠し、アブニールは肩を竦めた。だが現実は、これからしばらくフラムには会えなくなる。

「さすがにそりゃ無理だな。少なくともこの一件が片付くまで、俺はここに近づけねえだろ?」

 アブニールが守護獣騎士団に匿われていることを敵方に悟られるわけにはいかない。そんなことをしたら、アブニールが騎士団の協力者だという事実を知られてしまうかもしれないのだ。協力関係にあると気取られてしまえば警戒され、アブニールに接触してこなくなり、囮作戦は失敗に終わる。
 だからアブニールはあくまでも刺客に襲われて重傷を負い、独自に怪我の治癒を行っていたという事にしなくてはならない。その為に、夜遅いこの時間に兵舎を去ろうとしているのだ。

「念のためにもう一度、作戦を確認しておくか?」

 フラムはいつになく心配性で、昨日の昼間から何度も同じことを聞いてくる。心配せずとも、とっくにそらんじられるほどに覚えてしまった。もともと記憶力はいい方なのだ。一度聞けば十分なのに、二度も三度も聞かされたから、強い力で頭を殴っても忘れられそうにない。

「おいおい。俺のことがそんなに信用できねえのか?」

 フラムが明らかに不安そうなので、アブニールは努めて明るく振舞った。決して強がりや虚勢などではない。この十年間の経験に裏打ちされた自信だ。
 フラムは無理矢理口元に笑みを浮かべて、アブニールの頬を撫でてきた。

「わかってる。ただ、離れがたいだけさ。お前を一秒でも長くここに引き留めたくて悪あがきしてんだよ」

 頬を撫でた手は背中に回り、アブニールを引き寄せる。アブニールはベッドに腰掛けたまま身体を傾け、大人しく彼の胸に身を預けた。離れたくないのはアブニールも同じだ。ずっとこうしていたい。時が止まってしまえばいいのにと、叶いもしない望みを心の底から抱いてしまう。

(……キスがしたい)

 ふいに、そんな欲望が頭をもたげた。この温もりから離れている間の寂しさを埋める何かしらが欲しかった。
 しかし口に出す勇気はない。ただ、そっとフラムから離れて視線を絡ませる。相変わらず眠たそうな眼だが、思いのほか力強い輝きを放っている。
 この眼差しに、アブニールは恋をした。
 日々、生きることだけを考え生きてきたアブニールが、はじめて生存以外の何かを望んだ。この男が欲しいと、貪欲に思っている。

(けど、俺とあんたじゃ住む世界が違いすぎるもんな)

 自分はふさわしくないだとか、卑屈な事を考えているわけじゃない。ただアブニールは常に現実的だというだけだ。
 暗殺者で身寄りのない自分には、王族で騎士団長のフラムはあまりにも遠いのだ。
 それに何もかもを失う辛さを知っているアブニールは、再び大切な存在を手に入れることに臆していた。今でも想像するだけで胸が引き裂かれそうなのだ。片恋が恋人に昇華してしまったら、きっと彼の死を受け入れられず狂ってしまう。

「……そろそろ、行く」

 だから名残惜しい気持ちを振り切って、フラムの腕から逃れる。それからはもうフラムの方へはあえて視線を向けないように心がけ、鞄を拾い上げた。ドアではなく窓から屋外に出る。

「ニール……」

 フラムが窓際に立つ気配があった。背中に引き留めたいという視線をひしひしと感じる。だが、アブニールは振り向かないまま、手を振った。あえて軽い口調で別れの言葉を口にする。

「じゃあな、団長様。世話になった」

 踵を返したがる足に鞭打って、アブニールは駆け出した。
 表通りは通らず兵舎を囲う雑木林を突っ切り、出来るだけ人目に付かない道を選んで一度街の外にある拠点を目指した。
 そして夜が明けたら何食わぬ顔で街に戻ってくる。まるで怪我が治って仕事を探しに来たかのように振舞うのだ。

(たった数日間だってのに、ずいぶん久しぶりに帰った気分だ)
 
 複数のうち一つの拠点は、王都を囲う森の東側、川沿にある廃屋だ。
 元は木こりあたりが住んでいたのだろうが、アブニールが発見した時にはだいぶ自然に浸食されて朽ちかけていた。自分の手で修繕して寝泊まり出来るようにした。
 もう夜更けなのでランプは使わず、何でも屋で身に着けた技能で自作したベッドに寝転がった。
 早く動き出したくて気が急くが、陽が昇るまでは何もできない。だから今は身体を休めておくことにしたのだ。
 だが困ったことに、久しぶりの安物の布団が寒くてなかなか寝付けない。薄っぺらい毛布にくるまっていると、見かねたノワールが潜り込んできた。

「ありがとな。ノワール」

 寒い日や雪の降る土地で休む日には、こうして体温を分かち合って暖を取った。とはいえ本当はノワールに体温がないことも分かっている。ただ暖かくなったという思い込みで、寒さをしのいでいた。
 だが今のアブニールは子供のころに置き去りにした、他人のぬくもりを思い出してしまった。
 フラムの匂いがないだけで、フラムの体温がないだけで、静かな息遣いが聞こえないだけで、こんなにも寂しい。
 せっかく後ろ髪を引かれる思いを振り切って別れを告げたのに、早速後悔している自分に気付いて、アブニールは自嘲するような笑みを浮かべた。
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