アオハルのタクト

碧野葉菜

文字の大きさ
上 下
22 / 70
夢想曲(トロイメライ)

12

しおりを挟む
 壁沿いにあるアップライトピアノ、長い髪と同じ色の蓋に添えた手。重いんやないかって、代わりに開けてやろうとしたら、いらないって目で動きを止められた。

「お節介」
「紳士って言え」
「子供できたら、絶対過保護になりそう」

 ここは照れるとこなんやろうか。俺たちが恋人やったら、春歌が健康な体やったら、ありきたりな若い男女の未来を語り合えたやろうか。
 ポーンと音が鳴る。ピアノの蓋を開けた春歌が、鍵盤を一つ押さえた。また一つ、もう一つと、白魚のような手が次第に速度を増す。
 ドレミなんて関係ない。思いつくまま鍵盤を指先で弾くだけ。まるで音と戯れるように。
 
「拓人って、指揮者みたいな名前だよね」

 鍵盤に目をやったまま、春歌が言った。でたらめな演奏の中で、俺も幼い頃、同じ考えを持ったことを思い出す。

「指揮者はコンダクター、持ってる棒が指揮棒で……」
「タクト」

 バーンと低い音が鳴る。俺の名前と同じそれを呼びながら、両手で一気に鍵盤を押し込んだ。防音ルームやなかったら、近所迷惑になったやろう。

「いいね、音楽の申し子って感じで。私に合わない名前とは大違い」

 両手を鍵盤に置いたまま、俯く春歌。後ろに立つ俺からは、その表情は窺い知れん。
 春歌――春の歌のように、朗らかな子に育ってほしい。そんな願いを込めたと、春歌の母さんから聞いたことがある。
 残念ながらその通りにはならんかった。それでも俺は、彼女がこの名前でよかったと思う。成長して漢字の意味を知った時、春歌の名前に「歌」が入っているとわかって嬉しかった。俺の「タクト」と同じ、音楽繋がりやって。

「ねえ、拓人、勝負しない?」

 ぐるりと振り返った春歌が、突然の提案をした。面食らった俺は、怪訝な顔で立ち尽くす。

「拓人は、プロのピアニストになりたいんだよね?」

 春歌の前でそう宣言したことはない。結果がついてきたら言おうと思いながら、ここまで来てもうた。だけど春歌にはお見通しなんやろう。コンクールで失敗する度、あの公園のベンチにおることを知ってるんやから。
しおりを挟む

処理中です...