アオハルのタクト

碧野葉菜

文字の大きさ
上 下
10 / 70
余興曲(バディヌリー)

9

しおりを挟む
「ええ加減やめたら」

 一重瞼の鋭い視線が尖る。ぬっと長い腕が伸びてきて、ぴっちり上まで閉めたシャツの襟ぐりを掴む。
 
「やめるわけないやろ、持ってかなアカンからな、春歌に」

 平気でその名前を口にできるなんて、意外と自由人かもしれん。
 持ち上げられた布に釣られ、顎と足が浮く。軽い圧迫感、首を絞められるような、懐かしい感覚にケホッと咽せた。
 
「なにをしてるんですか!」

 急ぎ迫ってきた足音と同時に、焦りと叱りが混じった声がこだます。
 やって来た先生が、俺を掴んでいた柳瀬やなせの腕を必死に引き剥がす。力から解放されると、地に足をつけて、呼吸とシャツを整えた。
 助けに入ったんは、俺のクラスの担任やった。一年生の時と同じ、すらっとした、神経質そうな若い女性。ポニーテールにした長い黒髪だけが、あいつと重なる。
 
「ちょうどよかった。今日の面談で、進路を話す予定でしたよね」

 そう言って横に立つ先生を一瞥すると、戸惑うように眉を顰めて俺を凝視した。
 正面に立つ柳瀬は濁った瞳で俺を見ている。幽霊みたいな顔つきの男に、わざと聞こえるように口を開いた。

「先生、俺、高校を卒業したら音大に行きます。そこで学びながら、留学もして、ピアニストとして成功してみせます」

 柳瀬に目をやったまま宣言したけど、先生が感激する様子が伝わってくる。廊下を歩く他の生徒たちの視線は、尊敬と羨望に満ちている。
 第六感てやつか。憧れていたから、欲していたから、視覚に頼らんでも敏感に察知する。
 俺を取り囲む空気が、ピアノで結果を出せば出すほど変わってゆく。環境は同じやのに、状況だけで世界はこんなにも変わる。凡人では見ることができん、天才の景色は最高に気持ちがええ。
 不意に窓から吹き込む春風。彼女の名前に似ているのに、やけに爽やかなそれが、憎々しい目を向けるアクアマリンを揺らした。

「人殺しに、まともなピアノなんか弾けるんか」

 なんで、こんなふうに言われるってわかっていたのに、俺は柳瀬に声をかけたんやろう。
しおりを挟む

処理中です...