隣の家のありす

FEEL

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 聞く耳を持たない娘に内心辟易としていた。あまりに強くひっぱるものだからスーツが伸びて皺が出来ていた。こんなみっともない姿だとまた小言を言われてしまう。出かける前にアイロンをかけないと。それにお風呂だ。身体はすっかりべたついていて少し体臭がきつい気がした。となればお風呂にも入らないといけない、考えれば考えるほど、休む時間がない事に気づき、焦燥感が溢れ出てくる。
 その間にも娘はしつこくスーツを引っ張り続け、何かが千切れた音がした。見てみるとスカートのスリット部分から紐が垂れ下がっていた。手に取って確認してみると、少し裂けてしまったようで必要以上に脚が露出してしまっている。これじゃあ仕事に着ていくことが出来ない。そう思った瞬間、頭の中が燃えたように熱くなった。

「なんてことしてくれたのよっ‼」

 怒声に我に返ると娘が怯えた瞳をこちらに向けていた。その姿を見て、自分が怒鳴りつけたということにやっと気が付いた。どれだけわがままを言われ時も、無理を言われた時も、娘を怒鳴った事なんて一度だってなかった。私の人生は娘の為だけにある。そう思っているからこそ、今まで身を粉にしてやってきたのだ。それなのに、私はなんて事をしでかしてしまったんだ。
 仕事の失敗なんて比べ物にならないくらいの焦りと罪悪感で、体が凍ってしまったようだった。じっと見つめる娘の顔に、どんどん涙が溜まっていくのが見えた。いよいよ溢れだしそうになると、娘は顔面に力を入れてぐっと堪えた。

「……ごめ、なさい」

 嗚咽交じりに謝る娘を見て、私が先に限界を迎えた。瞳からは止めようもなく涙が溢れて、叫ぶように声を上げた。

「ごめん、ごめんねぇ。こわかったよねぇ」

 言いながら、娘の身体を抱きしめて何度も謝った。溢れるように口から洩れる謝罪の言葉は何度も何度も続いていた。すると耳元から娘のすすり泣く声が聞こえてきた。押し殺すような声は徐々に大きくなり、嗚咽から叫び声に変わっていく。気が付けば二人揃ってリビングの真ん中で泣き喚いていた。

「お母さん、ありすに怖い思いさせちゃったね……許してくれる?」

 娘の長い癖毛を指で梳きながら聞くと、袖で顔を拭いてから歯を見せて笑顔を作ってくれた。なんて可愛いんだろう。久しぶりに見る太陽みたいな笑顔に照らされて、私もずっと忘れていた笑顔になれた。



 作業をしていたら突然女性の泣き声が聞こえて驚いた俺は、ありすに何かあったのかと部屋を飛び出した。部屋の前まで行き、扉を叩こうと思ったがそこで止まった。何か変だ。聞こえる声はありすに近いものだったが、わずかに違う。となれば次に思い浮かぶのはありすの母親、一ノ瀬涼香だ。一児の母が大声で泣いているのだとしたらそれも大事なのだが、安易に踏み込むのは躊躇してしまう。少なくとも俺だったら、号泣しているところに駆けつけられたら恥ずかしさで死ねる。別の意味で泣いちゃう。号泣して夜の帳に駆け出しちゃう。
 とりあえず様子を窺おうと扉の前で立っていると、泣き声が二つに増えた。今度は間違いなくありすの声だった。俺はもっと困惑した。親子揃って深夜に号泣するなんて、いったい中で何が起きてるの? 幽霊がホラー小説でも書いてるの?
 躊躇している間に声は徐々に小さくなっていき、次第に笑い声に変わっていった。しかし声に力はなく、扉を挟むとくぐもって聴こえるのが不安感を煽る。

「~~ままよっ」

 意を決した俺は扉を叩いた。暫くの静寂の後、鍵が開く音が聞こえてゆっくりと扉が開かれた。

「あぁ――兎山さん――こんばんは――」

 しゃがれた声がゆっくりと言うと、部屋の中には髪の毛が乱れた女性が立っていた。目は赤く腫れあがり、下目蓋から顎にかけて、皮膚が溶けたようにでろでろになっていた。女性は顔にかかった髪をそのままに笑顔を作ると、「とりあえず――どうぞ――」とおどろおどろしい声で部屋の中に案内してきた。
 悲鳴を上げそうになったがなんとか堪えて玄関から部屋の中を覗いた……別に変わった様子はない。目の前の方を覗けば。

「うーさんだー」

 聞き覚えのある声が部屋の奥から聞こえた。ありすの声だ。内心かなりびびっていた俺は聞きなれた声に表情を緩ませた。だがそれも一瞬だけで、忙しない足音と共にやってくる生き物を見て俺は凍り付いた。
 毛玉だ。くしゃくしゃの黒髪で全身を覆った毛玉が近づいてくる。戦慄した俺はもう一方の幽霊を見るが、毛玉がやってくるのを微笑ましそうな様子で眺めていた。なんてことだ。一ノ瀬一家はどこにいってしまったのだ。困惑している間に脚元までやってきた毛玉は俺の足に体を押し当てた。

「あっ」

 同時に毛玉は息を漏らした。ズボン越しに何やら暖かいものを感じてぞっとした。毛玉がゆっくりと離れたから触れていた場所に手を伸ばしてみると、手に濡れた感触がした。確認してみると手には液体が付着している、どろりとした粘着質な体液。それを見た俺は気の抜けた声と共にその場で崩れ落ちた。

「ええっ⁉ どうしたんですか兎山さんっ」
「うーさんが力尽きたっ」
「うわあああぁぁぁ」

 近づいてくる不思議生物にとうとう悲鳴を上げた俺は改めて顔を覗いて気付いた。

「一ノ瀬さん?」

 名前を呼ぶと幽霊の方が不思議そうに頭を傾げた。よく見ると顔はでろでろに見えるが肌には生気を感じられる。これもしかして、汚れてるだけ???

「と、いうことはこの毛玉は――」

 毛玉に手を突っ込んで掻き分けてみるとありすの顔が出てきた。なんだか楽しそうな表情をしていたが、目元が腫れあがっているのを見てさっきまで聞こえた泣き声を思い出す。色々と合点がいった俺は安堵の息を吐きだして肩を落とした。

「お騒がせしてしまってごめんなさい」

 一ノ瀬さんは畏まった態度で頭を下げた。騒音と驚かせてしまった事、二つの意味での謝罪だと思う。さっきまでの恐ろしい表情は単なる化粧落ちだったようで、指摘すると恥ずかしそうにしてから顔を洗っていた。ありすの毛玉はよくわかんない。
 俺は一ノ瀬さんから号泣の理由を聞いた。仕事に追われて精神的にまいっていた事、それでありすに強く当たってしまった事、一ノ瀬さんは気に病んでいたようだが大人も完璧じゃない。どうしようもなくなったら声を荒げてしまう事くらい、仕様がない事だと思う。そう言うと一ノ瀬さんは再び頭を下げた。

「しかし、よっぽど人手が足りないんですね。そんなに仕事を押し付けられるなんて」
「人手は、足りてない事はないんですけど……」

 つっかえた物言いに俺は首を傾げた。

「仕事の量が多いのは確かです。でも分担して処理すれば問題なく終わるはずなんです。だけど一部の人は私に仕事を押し付けて先に帰ってしまうから……」

 どこか諦めた表情で言う一ノ瀬さんは悲しそうにしていた。確か前に話をした時、彼女は仕事を減らすことが出来ないと言っていた。それだけ頼りにされている優秀な存在なのだと勝手に思っていたが、想像したものとはどうにも違うようだった。

「断ればいいんじゃないですか?」
「仕事を頼んでくるのは上司に当たる人なんです。それに性格も高圧的で反発しようとすると怒鳴られてしまって、結局私が折れる形で引き受けちゃって。今度はそのやりとりを見ていた人まで仕事を頼んできて、気が付けば今の状況に……」
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