隣の家のありす

FEEL

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 八月も終わりに近づいて徐々に涼しい風が吹き始めていたある日。その日は酷く蒸し暑い夜だった。湿気が体にまとわりつくような不快な天気で、エアコンが効いた社内であっても、体にだるさを感じていた。
 天気が悪ければ機嫌も悪くなるもので、終始苛ついていた上司は退社前、一ノ瀬涼香に途方もない量の仕事を押し付けていった。どこでここまで貯めていたのか、とても一人で片付く量ではない嫌がらせの為だけに用意された仕事。彼女はそれでも文句を零さす事はなく必死で残された仕事を片付けていた。
 すべては愛しい娘の為だ。あきらかな嫌がらせだったとしても文句を言ってしまえばそれだけで首を切られるかもしれない。首を切られれば家族共倒れだ。そう思えば思うほど安易に口を出す事は出来なくなっていく。だからただ愚直に、与えられた事をこなしていた。モニターに表示された時計をちらりと見れば、既に零時を超えている。もう終電は終わっていて帰る事は出来なくなっていた。

 娘の事が少し気がかりだったが、幸いな事に隣人に面倒を見てもらっているから仕事に打ち込むことが出来た。我ながら無理な注文をしたと反省しているが、彼が気のいい人間で本当に良かった。
 様子を見るに娘も相当隣人に懐いているようだった。人に抱き上げられて目を覚まさないのは信頼している証拠だ。おかげで大した面識がなくても安心して任せる事が出来た。

 眩しさを感じて目を細める。窓を見てみると陽が昇り始めていた。黙々と仕事をこなしている間に結構な時間が経っていたようだ。集中が切れると体に張り付いたシャツが気になった。流石に臭いまでは出てないと思うが、このまま仕事を続けていると何か小言を言われるかもしれない、何より私自身が不快だ。席を立ってトイレに向かった。
 汗を拭きとってから戻ると、何人か出社していた。誰も彼も疲れた表情をしていて気が滅入りそうだ。だが釣られて表情を崩してはいけない。ほんの些細な事かも知れないが、少しでも私の評価を下げる要因は減らしておきたかった。
 そんな小さな努力が無駄だと気付いたのは席に戻った時だ。椅子に腰かけモニターを見てみると違和感があった。席を立った時、画面には整理していたデータが表示されていたはずだ。それなのに画面はデスクトップに戻り、壁紙が表示されていた。
 まさか。そう思った瞬間、頭から水を浴びたような気がした。急いでファイルを開いてみるが、そこにはさきほどまで入力されていたデータは一つも表示されていなかった。あるのは白く染まったマス目ばかり、仕事に取り掛かる時に見た光景と一緒だった。
 夢を見ているような気分になり、少しの間固まっていた。けれども夢から目覚める気配はない。落ち着こうと息を吐きだし、私は再び入力を始めた。とにかく少しでも進めなければ。

「おはよう」

 聞きなれた声に驚いて手を止めた。恐る恐る見ると仕事を押し付けてきた上司が出社してきたようだった。どうやら今日も暑いようで、汗を浮かべた顔は不機嫌そうにしかめている。最悪だ。どうしてこんな日に限って。
 普段から愛想の悪い人なのでいつも通りではあるのだが、こんな日ぐらいは機嫌良くいて欲しかった。彼は私がいる事に気付くとのしのしと私の近くまでやって来た。

「おはよう。昨日頼んだ仕事はどうなってる?」
「今進めている所です」
「ふーん」

 大げさにモニターを覗き込んだ上司は、わざとらしく舌打ちをした。

「これ全然進んでないよね? 昨日何してたの?」
「……すいません」

 慌てて席を立ち、頭を下げた。事の経緯を説明しようかと思ったが、何も言わずに口をつぐむ。何がどうなって消えてしまったのかわからないが、なんにしても途中で保存していればここまで最初の状態まで戻る事はなかった。これは間違いなく私の失態だ。下手に口を出してもし同じ事を言われてしまったら返す言葉がない。だからただ黙って頭を下げていた。
 下げた頭の上にねちねちとした説教が降ってくる。私は唯々「すいません」と言葉を続けて終わるのを待っていた。次第に周囲がざわつき、社内がいつもの賑わいになってきた辺りで説教は終わった。顔を上げて時計を見てみると始業時間になったいた。



 出発しそうな電車に駆け込むと同時に扉が閉まった。今日はなんとか家に帰る事が出来そうだ。
 結局、あれから終電の時間まで仕事をする羽目になった。普段から気を付けているだけに私のミスは珍しく、何かにつけて上司が小言を言ってきて大変な一日だったが、それでもなんとかやり切った。椅子に座って背もたれに体を預けると、疲労感が体にまとわりつく。もう何も考えられないくらいに疲れ果てていた。
 目的地で電車を降りてから、コンビニで適当にお弁当を買った。娘を任せているといっても、丸一日は彼も想定していなかっただろう。もしかしたらご飯を貰えずお腹を空かしているかもしれない。そう思って急いで家路についた。
 家の前まで来ると窓から明かりが見えた。どうやらまだ起きているようだ。扉を開けて部屋に入ると、娘が一人で本を読んでいた。

「お母さんっ、おかえり!」

 私を見るとありすは顔を緩ませてこちらに走って来た。

「おかえり、お隣さんは?」
「うーさん? 家だよ、お話書いてるって」

 お話と言われて首を傾げたが、彼が小説家と言っていたのを思い出して合点が言った。つまり仕事中ということだ。改めて彼には迷惑をかけていると思った。今度、何かしらお礼をしないと。しかしそれよりも今は体を休めたい。
 買って来たお弁当を置いて寝室に向かうが、娘がべったりと脚にしがみついて思うように動けない。

「お母さん、あのね、今日ね、友達と遊んだんだけどね、水風船って知ってる?」
「うん、知ってるよ」

 そう言うと、娘は目の色を輝かせて話を続ける。

「水風船にお水入れて遊んだんだけどね、ぶつかるとぱーんで割れて見ずびたしになるんだよ、それでね――」
「ごめんねありす。お母さんちょっと休みたいの」

 脚を揺すられ転げそうになっていた。意識は朦朧としていてもはや立っている事すら限界に近い。しかし娘は名残惜しそうにするばかりで放してくれなかった。

「もっとお話ししようよっ、いっぱい話したい事があるのっ」
「お母さん本当に眠たいの、明日になったら聞いてあげるから」
「やだよっ。起きたらお母さんいないもん」

 普段から大量の仕事を投げつけられていた私は始発で会社に向かう為に陽が昇る前から起きていた。もちろんそんな時間に娘が起きることはできず、眠っている娘をそのままに家を出ることが日常だった。そして帰るのは決まって終電だったから、帰るころにはやはり娘は眠っていた。だからこうして話せる機会なんてものは滅多にない。
 明日聞くとは言ったものの、寝て起きたらすぐ仕事に向かうのはわかりきっていた。それは娘も承知のようで、スーツを引っ張り駄々をこねる。

「明日出かける前にちゃんと聞くから、だから少しだけ休ませて、ね?」
「いーやーだー!」
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