隣の家のありす

FEEL

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 兎山直久が住むアパートの一階部分。一番端の部屋に大喜紗綾の部屋がある。小説が入った封筒を胸に抱えた大喜は部屋に戻ると玄関扉を閉めた。

「んふっ、んふふ、ふふふふふふふふふふ……」

 堪らず溢れてくる至福の感情が、抑えきれずに笑みとなってこぼれ出てきてしまった。大喜は笑い声を絶やすことなく封筒に目を落とす。

「いやったー! 先生の生原稿、げええっとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 喜びのあまり、ガッツポーズを取ってしまっても、もう片方の腕で封筒に皺ひとつ付けないよう大事に抱えている大喜紗綾。彼女は兎山直久のファンだった。

「はぁ~、ちょっと読んだだけだけど。今回も脳が溶ける程の情報量でおかしくなっちゃいそう、早く続き読も~」

 机に封筒を置いてから、スキップ交じりでケトルに水を入れてスイッチを入れた。お湯が沸くまでの間も意識は小説に向かったままだ。封筒を見てからケトルに視線を戻すと、お湯はまだ沸いていない。すぐさま封筒に視線を戻し、またケトルを見る。勿論お湯は沸いていない。

「う~~、我慢できないっ」

 辛抱堪らず、封筒から原稿用紙の束を取り出すと、兎山が作った物語に私はすぐさまのめりこんだ。彼の創造する世界はとても難解で、辞書でしかお目にかからない言葉が山のように出てくる。余白を埋め尽くされた文章の列は紙を黒塗りにしたかと錯覚してしまうぐらいだ。読解には根気と時間が必要だ。
 だけど、苦労を経て解読した彼の世界は毎回無限の広がりを見せてくれる。世界に住む人間の価値観。特殊な気候が構築する空の変化。文化によって作られた街並みと風習。そのすべてが、現実社会から解脱するツールとして機能してくれていた。
 私が最初に彼の作品を見たのは些細な偶然だった。

仕事を家に持ち帰った私は資料作りの参考にとネットを巡回しているとき、間違って広告バナーをクリックしてしまった。飛ばされた先は小説投稿サイト。当時の私は小説なんて読んだことがなく、勿論興味もなかったから戻ろうとした時、兎山の作品が目に入って手を止めた。

 タイトルを一瞥して、私は何に惹かれたのかわからなかった。しかし、妙に目についたリンクをそのままにしておくことが出来ずに、作品を覗いた。少し読み進めるだけで私は気づいた。彼の作品が目に入ったのは、神の啓示だったのだと。
 なぜなら内容はまさしく試練の書。一見だけでは理解できず、辞書を引いて何回も読み直してやっと意図が汲み取れたと思えば、先に進むと理解したはずの文章から違う意図が汲み取れてしまう。仕方なく読み直してみれば、またしても解釈が食い違ってしまう。
 私は仕事を忘れて解読作業をこなし続け、気が付けば朝になっていた。部屋に差し込む陽の光を浴びた私は、もう作品の――彼の虜になっていた。

「――あ、やっば」

 ふと我に返って顔を上げた。ケトルを確認してみると、中のお湯はぬるくなっていた。もう一度スイッチを入れて、今度こそケトルに集中した。コーヒーカップにインスタントコーヒーをスプーン山盛り三杯入れてから、お湯を注ぐ。

「さて、読み耽る前に終わらせますか」

 コーヒーを一口飲んでから、兎山の小説を持って寝室に入った。書斎と寝室を兼ねている部屋の中はおびただしい程の原稿用紙が積まれていて、壁には一面に兎山の小説が張り付けられている。私一押しの名シーンセレクションだ。
 慣れた手つきでコピー機を起動してから、原稿用紙を固定しているクリップを外して一枚一枚丁寧にコピー機で複製していく。一ページにつきコピーは三枚。読書用、解析用、保管用だ。これで兎山に返却したとしても、ゆっくり真理に迫ることが出来る。

「はぁ……」

 出来上がったコピー原稿を確認する。四角い枠内に敷き詰められた漢字たちが原稿用紙に溶けだして、まるで模様のように見えてきて、最早言語には見えない。なんという事だ。彼の手にかかれば並べられた言葉たちですらも一つの表現方法になってしまうのか。もはや神。兎山直久は活字不足になりつつある現代社会に降り立ったメシア救世主に違いない。神兎山神。
 彼の事を考えていると胸が熱くなる。信徒である私は、彼の作品の為ならばすべてを差し出せる所存だ。

「うふ、ふふふ、ふふふふふふふふふふ……」

 部屋の中ではコピー機の悲鳴のような機械音と共に、厄介オタ大喜の笑い声が静かに響いていた。
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