隣の家のありす

FEEL

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「暑っつ……」

 痛いほどの日光が降り注ぐ中、麦わら帽子を装備した俺は、二メートルはありそうな椅子に腰かけていた。帽子以外に日差しを遮るものはなく、目の前にあるプールの反射光が顔面をじりじりと焼いていた。

『きゃー!』
「あ、飛び込まないでくださーい」

 なんでこんなところにいるのかって? お金がないからだよね。
 俺が住んでいる街には学校に用意されているような二十五メートルの市民プールが設置されている。市が運営しているこの施設は驚くほど安く、このご時世に一時間辺り百円で自由に泳げるという驚異の値段設定だった。そうなると勿論、こんな猛暑日には地元客でごった返す。しかし、必要最低限の予算でやりくりしているせいか監視員の数が足りない。仕方なく経費削減の看板求人を用意してたところに金に困った俺が出くわしたという訳だ。

『うきゃー!』
「飛び込まないでくださーーい!」

 丁度、短期バイトで時間も短い仕事はないかと思っていた俺は、チャンスを思って声を掛けてみると、面接もほどほどに即採用。プールで水に浴びながら楽に稼げると思ったら椅子に座らされ、もう二時間はこうしていた。

『ひゃー!』
「うおおぉぉい! 飛び込むなっつってるだろ!」

 助走をつけてプールにジャンプをかます子供たちはいくら注意しても言うことを聞いてくれない。座っているだけだと思っていた監視員がここまで大変だとは思わなかった。

「おー、頑張ってるな。結構結構」

 聞き覚えのある振り向くと、黒い紐を通した藁帽子を被り、ハイビスカスがこれでもかとプリントされている水色のシャツとズボンを着用している大家が満足そうにこちらを見ていた。

「しっかり働いて家賃落としてくれよ」
「いや、こんなところで何してるんですか」
「あ? プールにきてんだから泳ぎに来たに決まってんだろ」

 それは服装でわかるけど、場違いすぎるんだって。ほら、横切った子供怯えた顔して逃げてるし。

「大家さんもこういう所に来るんですね。どうせ泳ぐなら海まで行きそうなイメージでしたけど」

 陽に焼けた筋肉ムキムキの若者を大量に連れて海でバーベキューを楽しむ大家の姿を想像してみる。うん、似合いすぎる。親父って呼ばれてそう。

「それも楽しそうだが、お守りがあるからな」
「お守り?」

 聞き返すと、大家が首を動かして後ろを見る。視線の先を暫く覗き込んでいると、更衣室からありすが出てきた。

「アパートの周りを掃除してたら遊んでくれってせがまれてな、かなわんから連れてきた。おー、こっちだこっち」

 大家が大きく手を振ってありすに言うと、こちらに気付いたありすが駆け寄ってくる。

「うーさんっ、うーさんも泳ぎに来たの?」
「いいや。ルールを守らない悪ガキを見つけて怒鳴りつける仕事をしてる」
「へー、たいへんだね」

 心底どうでもよさそうに言ったありすはプールの淵に座り込んで脚だけを水につけて遊び始めた。

「しっかし、今日は暑いな……お前、ありすの面倒見といてくれよ」
「ええ……俺、仕事中なんですけど」
「子供に危険がないように見てるのが監視員の仕事だろ。ありすも子供なんだから仕事の範囲内だ。じゃ、頼んだ」

 いうだけ言って、大家は日陰に移動して座り込んでしまった。何しに来たんだあんた。
 ありすの方を見てみると相変わらず座ったままで、足をばたつかせて飛沫を飛ばしていた。

「おい、そんな事してると水が飛んで迷惑だろ。さっさと泳いでこいよ」
「ここで大丈夫」
「何その遠慮。いいから遊んでこいよ」

 促してみてもありすは動かない。置物のように固まってしまっていた。……はっはーん。もしかしてこいつ、

「さては、泳げないなお前」
「……ソンナコトナイヨ」

 視線を逸らしたありすはロボットのように答える。どうやら図星のようだ。

「あーそうなんだ。ありすさん泳げないんだ? それなのにプール来ちゃったんだ?」
「……」
「えー、かわいそー。目の前にこんな冷たいお水があるのに、満喫できないなんてかわいそー。うん、でもそうだね。泳げないなら仕方ないよね?」
「……も」
「も?」
「もう、腹を切るしか……」

 体を震わせて表情を歪めたありすは腹に拳を当てて、切腹の真似をした。武士か、そんな事で腹切ってたら武士絶滅するわ。
 別にありすの年齢で泳げない事は不思議なことではないと思うが、反応を見るに、泳げないというのはありすにとっては中々恥ずかしい事のようだ。

「良かったら泳ぎ教えようか?」
「いいのっ⁉」

 何気なく言うと、ありすは目を輝かせてこちらを見た。

「俺もそんなに得意じゃないけどそれでもいいなら」
「おしえておしえてっ!」

 何度も頷き、子犬のように無邪気にはしゃぐ姿を見ると教える方も悪い気はしない。やる気が出てきた俺はプールに入ってありすの方を見た。

「よーし、じゃあとりあえずバタ足から教えるから、プール入ってこい」

言ってからありすを待つが、ありすは中々入ってこない、波で足を揺らしながらこちらをずっと見ている。

「……まさかプールに入るのも無理なの?」
「おぼれて……しぬ……」
「どんだけ深いと思ってるの?」

 子供が入ることを想定されたプールなので水深は浅めなのだが、ありすは水面を眺めて怯えた表情を見せていた。周りの子供たちはプールの中をキャッキャッ騒ぎながら歩き回ってるんだけど。

「浅いから大丈夫だよ。風呂みたいなもんだって」
「……本当?」

 頷くと、ありすは息を吸い込み、覚悟を決めた表情でゆっくりプールに入る。脚から腰、腰から体と水の中に沈めていき、肩まで浸かった辺りで足がついた。

「な、ちゃんと足つくだろ」
「うんっ」

 得意げな顔をしてこちらを見る。さっきまでの怯えた表情は完全に消え去っていた。

「ありすはひとつ成長した」
「あー、えらいえらい。それじゃ、次は顔を水につけてみようか」
「それは無理」

 手を前に出して首を振ったありすは言下に言った。

「淵に手をついてたら大丈夫だっての。ほら、さっさとやれっ」
「ありすにはまだ早い」

 ごねるありすを説得し続け、結構な時間が経ってからやっとありすは練習を始めた。



「大分水に慣れてきたんじゃないか」
「うんっ」

 顔を水につける練習を始めて三十分。プールサイドから話しかけると、ありすはすっかりいつもの表情に戻っていた。

「ありす、もう泳げるかもしれない」
「あー、そりゃよかったな」

 顔をつけれるようになっただけで泳ぎ方は教えてないんだけど、その自信はどこから来るのか。まぁ、水に対して苦手意識がなくなったみたいだし、この分だとすぐに泳げるようになるだろう。
 そんな事を考えていたら、子供の騒ぎ声に交じって大人の声が聞こえてきた。

「何だ何だ?」

 声のする方へ顔を向けると、激しく水飛沫を上げる少女がいた。最初は暴れて遊んでいるのだと思っていたが、見ているとどうにも様子がおかしい。そう思ったのと同時に声が聞こえた。

「監視員さん! 女の子が溺れてる!」
「はぁ⁉」

 立ち上がり、少女の近くまで走っていくとパニックを起こして暴れているようだった。ただならぬ雰囲気に子供たちは怯えていて、大人はどうしたらいいのか困惑している。最悪の状況だ。

「ありすに任せて」

 不意に聞こえたありすの声に振り返ると、淵から手を離したありすが少女の元に向かおうとしていた。
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