サヨナラの終わり

Pero

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サヨナラの終わり その37

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 その週の土曜日に安東総業へいくと、岡田が年末年始のバイを手伝えと言った。

 岡田は僕が大学に行かなくなったことに薄々気付いていた様子だったが、何も言わなかった。

「大晦日の数日前までには必ず事務所に顔を出すから、それまでは少し遠くへ行く用事がある」と僕は返事した。

 岡田は何も聞かず「ともかく頼んだぞ」とだけ言った。

 僕は江美に会いたかった。江美はまだ僕を愛してくれているはずだ。

 何か決定的な理由から、僕との関係を終わりにしようと思ったのだろう。
 その何かを僕は知りたかった。このまま会わずに別れてしまうことはできない。

 江美と会うまでは何一つ手につかなかった。
 ニューパラダイスのバイトでも失敗ばかりだったので、豆狸に一月半ばまで帰省すると伝えて休みをもらった。
 豆狸は僕が休みを申請しても文句一つ言わなかった。

 クリスマスイブの日、僕は再び京都駅から朝七時過ぎの列車に乗った。

 前回の訪問から二週間ほどしか経っていなかったので、江美の母親は驚いた様子だった。

「この前の・・・」

「はい、小野寺です。江美さんに少しでもお会いできないでしょうか?」

「ちょっとお待ちになってください」

 母親は懲りずにやって来た僕に唖然としながらも、かなり戸惑った表情をして奥に入っていった。
 しばらくして母親と江美が一緒に現れた。江美は大きな綿入れを羽織り、前に比べて少しふっくらとした感じだった。

「どうぞ、お上がりください。殺風景なところですが、さあどうぞ」

 母親は困惑した表情で僕を家に上げた。

 江美と視線が合った。

 彼女は軽く微笑んだように見えた。廊下を何度か曲がったところの和室に通された。
 その部屋は江美の部屋だった。

 真ん中にコタツが置かれ、母親は僕に「寒かったでしょう、どうぞ足を入れてください。今お茶を入れますから」と言ってすぐに出て行った。

 江美がコタツに入り「ごめんね、何も言わずにいなくなって」と言った。

 僕は江美の顔を久しぶりに見て、こみ上げてくる気持ちを抑えられず身体が震えた。

「メリークリスマス!」

 僕は心の内奥から溢れ出る震えを一気に吐き出すように言った。
 涙が出そうだった。

「そうか、今日はクリスマスイブだったんだ。家から一歩も出ないから世の中のことが分からないの。テレビは見ないし新聞もあまり読まないから」

「身体のほうは大丈夫なのか?」

「うん、大丈夫、身体は元気よ」

「急にいなくなったから死にそうだったよ。近所のおばさんが実家に帰ったようだって言ってくれたから・・・。でもどうして僕に何も言ってくれなかったんだ?」

 両親がそのとき部屋に入ってきた。
 父親も農作業服姿だった。浅黒い精悍な顔付きの父親だった。

「あなたが小野寺さんでしたか。娘からいろいろ聞いちょります。先日はわざわざお越しくださったのに、江美が会いたくないと言いよったらしくて、申し訳ありませんでした。今日はまた遠路お越しくださって恐縮です」

 父親は丁寧に言った。

 江美は両親に僕のことをどの程度まで話しているのだろう。

「私らは席を外しますから江美とゆっくり話をしてください」

 そう言って両親は部屋を出て行った。しばらく僕と江美は黙っていた。
 僕は出されたお茶をすすりながら話す言葉を探した。

「江美、僕は振られてしまったんだね。でもどうしてなんだ?赤ん坊はまたできるじゃないか。それとも、僕が・・・僕自身が気付かないところで、江美を深く傷つけてしまったのか?僕には分からないよ」

 江美は素敵だった。やっぱり江美が好きなんだ、江美と別れたくないと思った。
 僕は泣きたい気持ちを堪えて言った。

「浩一、来てくれて本当は嬉しいのよ。でも私はもう浩一を幸せにしてあげることができないと思ったの。一緒にいればいるほど浩一が可哀想で、浩一にはもっとこれから開ける人生が待っているのに、私のような女にしがみつかれてしまったら、大事な人生が台無しじゃない。
 浩一のことは大好きよ。でもね、世の中って、人生って、我慢しないといけないことってたくさんあるじゃない。だから私・・・我慢するの。浩一は大学に戻りなさい。それが一番よ。
 去年の十一月に私が浩一の大学に突然訪ねたでしょ。私は松江で嫌なことがあって、それから逃げ出したいのと、浩一と会いたいと思って松江を出たの。でもそれは私の自分勝手な行動だったの。浩一に迷惑をかけたと思っているのよ」

「そんなこと、絶対にないよ、江美」

「聞いて、私の話を。私、赤ん坊ができたと分かったとき、黙って安来に戻ろうと思ったのよ。そして両親には詳しい説明をせずにひとりで子供を育てようと。
 でも、本当に悩んだの。もう悩み過ぎて気がおかしくなりそうだったわ。あんなに悩んだのは初めて。それで浩一の仕事場まで行ってしまったのね。ホテルで私が妊娠したことを伝えたとき、浩一はまさかって言ったわよね、憶えている?」

「憶えていないよ、そんなこと言ったのかな」

「言ったのよ、まさかって。私はがっかりしたの。でもね、そのあと浩一はとても気遣ってくれて、私と一緒になるって本気で言ってくれたわ。嬉しかった。
 でも、もうその気持だけでいいの、本当にいいのよ。浩一の気持ちは分かったから、大学へ戻りなさい。神様が私と浩一の赤ん坊をさらっていったのよ。それが答えだと思っているわ」

「嫌だよ、江美。僕は別れたくないよ。君だけに一杯辛い思いをさせて悪かったと思っているんだ。元にすぐ戻れないなら、ときどき会うだけでも僕は我慢するよ。だから・・・」

「だめよ浩一、もう私たち元に戻れないわ。もう友達にも戻れないの。誰が悪いということじゃないの。これはすべて運命なのよ。人生って、好きだから、愛しているからずっと一緒にいられるとは限らないのよ。分かるわね、浩一なら」

 江美はそう言って泣いた。

 江美が静かに泣いている姿を見て、僕はもっと江美に言おうとしていたことの全部を失った。


「ともかく行けるところまで行って、宿があれば泊まるし、なければ駅舎にでも泊めてもらうよ」

 江美も彼女の両親も、遅い時間だから泊まっていけば良いと言ってくれた。
 でも、江美の家に一泊でもさせてもらったなら江美への未練が捨てきれなくなる。

 泊めてもらった翌日の別れの辛さに、僕は耐える自信がなかった。
 丁寧に礼を言って辞した。

「あなたの気持は充分いただきました。わざわざこんな遠い田舎まで何度も来てくださって、それでもう私らはあなたに何の恨みも感じておりません。
 むしろ江美とお付き合いくださって感謝しております。あなたは男だ。これからまだまだ将来があります。どうぞ江美のことは気にせず頑張ってください」

 父親は穏やかな表情で言った。

 僕は込み上げる気持を抑えられなくなりそうだった。
 江美が駅まで送ると言うので甘えた。

 駅まで歩く途中、江美は僕の右側を歩き僕の腕を取った。
 腕を取られていると、初めて江美と松江城の天守閣に登ったときのことを思い出した。

 あの時も江美はさりげなく僕の右手を抱えるように取った。
 僕は未練が捨てきれなくなりそうだった。江美への言葉を探し続けているうちに駅が近づいてきた。

「浩一は去年のクリスマスイブも、私が泊まっていったらって言ったのに帰ったわね。憶えている?」

「もちろん憶えているよ」

「あれから一年が経つんだわ。あっという間ね」

 本当にあっという間だ。この一年、さまざまな出来事があったが、今はそれを思い起こすこころの余裕が、ただのひとかけらもなかった。

 こころが混乱しているうちに駅に着いてしまった。
 もう会えないと思うと身体が震えだした。そして感情がこみ上げてきた。

「江美・・・江美を抱えて連れて帰りたいよ」

「私だって・・・」

「辛いよ、江美。嫌だよ、こんなの」

 僕は生まれて初めて嗚咽して大声で泣いた。男として恥ずかしいくらいに泣いた。
 駅員や乗客が数人いたが僕は江美を抱きしめた。

 この温もりや匂いをもう感じることができないと思うと、辛さでどうにかなってしまいそうだった。

 列車の到着時刻が来た。

「江美、もう行っていいよ。見送られると列車に乗れないから」

「分かったわ、浩一。それじゃ元気でね」

 江美の顔も涙で濡れていた。江美は駅舎を出て行った。そして道路に出る手前で振り返って叫んだ。

「浩一、絶対に頑張らないとだめだよ。浩一、頑張れ!浩一、頑張れ!」

 江美は大きな声で泣きながら叫んだ。そして身体を翻して行ってしまった。

 僕は流れ出る涙も気にせず、彼女が転ばないようにと祈り、その姿が見えなくなるまで見送った。

 それから列車に乗った。

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