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第五話 第34特別根拠地隊
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■戦艦武蔵艦長
猪口敏平少将 手記
(長崎造船所史料館 所蔵品
加藤憲吉氏より寄贈)
『日付:昭和十九年十一月五日
ついに不徳のため、海軍はもとより、全国民に絶大の期待をかけられたる本艦を失いしこと、まことに申し訳なし。
ただ本艦の将兵ことごとく水漬く屍とならざりしことだけは、まことにうれしく、この点、いくぶん慰めとなる。
第二機関室が最初に使用不能にされ速力を発揮できなくなったことは大打撃なりき。今回の致命傷は、魚雷命中(航空三本、潜水艦四本)にありたり。
いったん回頭しているとなかなか艦が自由にならぬこと申すまでもなし。ただただ私の技量およばず、一度も魚雷を回避しえざりしこと、まことに慚愧に耐えがたし。
比島海戦において申し訳なきことは、対空射撃の威力を十分、発揮しえざりしことにして、これは各艦とも下手のごとく感ぜられ、自責の念にたえず。
機銃はもう少し威力を大にせねばと思う。命中したものがあったにもかかわらず、なかなか落ちざりき。
敵の技量は侮りがたく、攻撃はなかなか粘り強し。具合がわるければ、態勢がよくなるまで待つもの相当多し。
陸にあがったものの、おそらく本艦の浮揚修理はかなわず。
だが本艦の装甲、主砲はいまだ無事にて、ひとたびこの沖縄に敵が来襲したらば、その力をおおいに発揮しうると信じるものなり。
以後は根拠地隊、陸軍部隊とよくよく話し協力し、活躍されることを、ただただ願うものなり。
暗いので、思ったことを書きたいが意にまかせず。悪いところは、全部小官が責任を負うべきものなることは当然であり、まことにあいすまず。
本日も相当多数の戦死者を出したり。これらの英霊をなぐさめてやりたし。
私ほどめぐまれたものはないと、平素よりつねに感謝にみちみちいたり。
今までのご愛顧に対しては心からお礼を申す。〇六〇五』
■1944年11月5日 早朝
沖縄 浦添海岸 戦艦武蔵
武蔵は那覇市の北部、浦添の海岸に乗り上げていた。
浸水により8万トンに迫る質量を持ったその船体は、たとえ低速であっても恐るべき運動エネルギーを秘めていた。
それは島の周囲に広がる脆い珊瑚礁などでは弱められる事もなく、武蔵は珊瑚礁を砕きながら突き進んだ。
そして満潮時の波打ち際あたりまで進んだ所でようやくその動きを止めた。
武蔵は右舷を陸側にして海岸にほぼ平行に座礁していた。砂浜に乗り上げる際に排土車のように砂を押し上げた事で、傾斜していた船体はほぼ水平に戻っている。
「艦長、お休みのところ失礼します。現況をまとめました。それに沖根(沖縄方面根拠地隊)が至急打合せを行いたいと……って、艦長!なにしてるんですか!!」
艦長室に報告に訪れた加藤副長が見たのは、思いつめた表情でナイフを握り締める猪口艦長の姿だった。
即座に状況を察した加藤は、すかさず猪口の手からナイフを払いのけると遠くへ蹴飛ばした。当の猪口はというと抗いもせず椅子に座ったまま項垂れている。
机に置かれた手帳をさっと読んだ加藤は、ため息をついた。そした膝を折ってしゃがむと猪口の顔を見て諭すように語りかけた。
「艦長、どうかお聞きください。我々は誰も艦長のことを恨んでなんかおりません。むしろ助けて頂いて全員感謝しております」
「しかし……一発の砲弾も放てぬまま多くの兵が死んだ。魚雷も一本も避けられなかった。私がしっかりしていれば、武蔵がもっと戦えていれば、作戦は成功したかもしれない」
猪口はゆっくりと首を振る。砲術の神様とまで持ち上げられ世界最大の戦艦を任されたはいいが、蓋を開けてみれば何もできず艦も失っている。この時、猪口は酷く自信を失っていた。
艦長の気持ちも理解はできるがと思いながら、加藤は再びため息をつくと口を開いた。
「いいですか。戦いに運・不運はつきもの、一旦退いて次の機会を待とう、一歩後退二歩前進という兵法もあると仰ったのは艦長ご自身じゃないですか。とにかく運が悪かっただけです。あの状況では誰が指揮してても結果は変わりませんでしたよ」
猪口は答えない。
ああもう面倒くさい。加藤は説得の方針を変えた。こうなったら忙しくして忘れさせるしかない。
「とにかく!沖根がすぐにでも話をしたいそうです。私や航海長じゃ無理です。艦長しか相手できませんから、シャンとしてください。GF(連合艦隊司令部)からも今日中に何か言ってくるでしょう。それに陸軍のほうも話があるそうです。寝てる暇なんて無いですからね!」
「わかった。すまなかった。迷惑をかけた」
残りをすべて押し付けて、自分だけ逃げるのは卑怯だと理解したのだろう。猪口は頷くとノロノロと立ち上がった。
「お分かりになって頂けたようで安心しました。差し出がましい事を言って大変失礼いたしました。一応、艦長がお疲れだと言って軍医長を呼んでまいります」
そして加藤は去り際に手帳から問題のページを破り取った。部屋の隅に転がるナイフも拾う。
「勝手ながら、これは小官がしばらくお預かりいたします。艦長はもう少しお休みになっていて下さい。沖根の方には適当に言っておきますので」
戦後、加藤は猪口にそのページを返そうとしたが、猪口の希望もあってずっと手元に保管していた。そして1985年に武蔵を建造した長崎造船所に史料館が出来た時にそれを寄贈した。
だがあの日の艦長室での出来事は生涯だれにも言うことはなかった。
■1944年11月5日 夕刻
戦艦武蔵
海岸に突然あらわれた巨大戦艦に、沖縄の陸軍と海軍、そして周辺住民は大騒ぎになった。とりあえず箝口令が敷かれ、沖縄方面根拠地隊が自主的に兵を出して周囲を立ち入り禁止にする措置をとった。
連合艦隊司令部には昨夜のうちに顛末が報告がされていたが、武蔵に命令が来たのはようやく午後になってのことだった。その頃には猪口の様子も通常に戻り、加藤は内心で胸をなでおろしていた。
「残念ながら、沖根では受け入れられないそうです」
沖縄方面根拠地隊から武蔵を訪れた前川新一郎大佐の表情は、心の底から残念そうだった。
沖縄方面根拠地隊、通称「沖根」は、日本海軍が今年4月に南西諸島防備強化のため新設した部隊である。航空隊や設営隊を含めれば1万名近い規模を持つが、現地招集の兵士も多く、特に陸戦能力の面では装備・練度ともに陸軍に比べると見劣りがする。
猪口ら武蔵の首脳部は、おそらく武蔵は沖根の指揮下にはいるものと予想していた。
だが連合艦隊司令部から最初にもたらされた指示は違っていた。ミッドウェー海戦後の時と同様に、艦の乗員を隔離して情報を隠蔽、敗北の情報が拡散するのを防ぐことを優先したのである。
『戦艦武蔵乗員は艦に留まり、それをもって第三四特別根拠地隊を編成、沖縄防衛に貢献すべし』
つまり、艦から勝手に出るな、大人しくしていろ。それが連合艦隊司令部からの命令だった。
1944年末当時、大本営海軍部作戦課(第一部)は沖縄を舞台にした最終決戦に傾倒していた。
とは言っても既に捷一号作戦で水上部隊は壊滅している。戦える艦が無い以上、主戦力は基地航空隊しかないが、それも既にやせ細り搭乗員の技量も低下している。だからこそ海軍は特攻を主体にした作戦を計画していた。
この「最終決戦」により戦局の転回を目指していたが、その実は後先考えない独りよがりの散り際、面子を立てる事が目的であったともいえる。
つまり海軍作戦部にとって、武蔵は既に戦力として見做されていないという事だった。
「もちろん、出来うる限りの協力はしましょう。何かありましたら連絡してください」
そんな社交辞令を残して前川大佐は沖根へ帰っていた。
数日後、戦艦武蔵は除籍となった。
海軍に半ば見捨てられた形の武蔵であったが、陸軍、特に沖縄防衛を担当する第32軍は戦艦武蔵に対して別の考えを持っていた。
【後書き】
冒頭の手記は、実際に猪口艦長が書いた最後の手記を参考にしています。
自害された訳ではないですが、退艦を拒否して艦と運命を共にされようとしていました。
史実では、戦艦武蔵乗員の生き残りは本土に戻されず、隔離されるか戦場で摺りつぶされるかして、ほとんどが悲惨な最後を遂げています。
本作では3000名を超える乗員のほとんどが生存したまま沖縄に座礁しました。その全員の責任を負っていることを自覚した猪口艦長が次話より覚醒します。
作者のモチベーションアップになりますので、よろしければ感想をお願いいたします。
猪口敏平少将 手記
(長崎造船所史料館 所蔵品
加藤憲吉氏より寄贈)
『日付:昭和十九年十一月五日
ついに不徳のため、海軍はもとより、全国民に絶大の期待をかけられたる本艦を失いしこと、まことに申し訳なし。
ただ本艦の将兵ことごとく水漬く屍とならざりしことだけは、まことにうれしく、この点、いくぶん慰めとなる。
第二機関室が最初に使用不能にされ速力を発揮できなくなったことは大打撃なりき。今回の致命傷は、魚雷命中(航空三本、潜水艦四本)にありたり。
いったん回頭しているとなかなか艦が自由にならぬこと申すまでもなし。ただただ私の技量およばず、一度も魚雷を回避しえざりしこと、まことに慚愧に耐えがたし。
比島海戦において申し訳なきことは、対空射撃の威力を十分、発揮しえざりしことにして、これは各艦とも下手のごとく感ぜられ、自責の念にたえず。
機銃はもう少し威力を大にせねばと思う。命中したものがあったにもかかわらず、なかなか落ちざりき。
敵の技量は侮りがたく、攻撃はなかなか粘り強し。具合がわるければ、態勢がよくなるまで待つもの相当多し。
陸にあがったものの、おそらく本艦の浮揚修理はかなわず。
だが本艦の装甲、主砲はいまだ無事にて、ひとたびこの沖縄に敵が来襲したらば、その力をおおいに発揮しうると信じるものなり。
以後は根拠地隊、陸軍部隊とよくよく話し協力し、活躍されることを、ただただ願うものなり。
暗いので、思ったことを書きたいが意にまかせず。悪いところは、全部小官が責任を負うべきものなることは当然であり、まことにあいすまず。
本日も相当多数の戦死者を出したり。これらの英霊をなぐさめてやりたし。
私ほどめぐまれたものはないと、平素よりつねに感謝にみちみちいたり。
今までのご愛顧に対しては心からお礼を申す。〇六〇五』
■1944年11月5日 早朝
沖縄 浦添海岸 戦艦武蔵
武蔵は那覇市の北部、浦添の海岸に乗り上げていた。
浸水により8万トンに迫る質量を持ったその船体は、たとえ低速であっても恐るべき運動エネルギーを秘めていた。
それは島の周囲に広がる脆い珊瑚礁などでは弱められる事もなく、武蔵は珊瑚礁を砕きながら突き進んだ。
そして満潮時の波打ち際あたりまで進んだ所でようやくその動きを止めた。
武蔵は右舷を陸側にして海岸にほぼ平行に座礁していた。砂浜に乗り上げる際に排土車のように砂を押し上げた事で、傾斜していた船体はほぼ水平に戻っている。
「艦長、お休みのところ失礼します。現況をまとめました。それに沖根(沖縄方面根拠地隊)が至急打合せを行いたいと……って、艦長!なにしてるんですか!!」
艦長室に報告に訪れた加藤副長が見たのは、思いつめた表情でナイフを握り締める猪口艦長の姿だった。
即座に状況を察した加藤は、すかさず猪口の手からナイフを払いのけると遠くへ蹴飛ばした。当の猪口はというと抗いもせず椅子に座ったまま項垂れている。
机に置かれた手帳をさっと読んだ加藤は、ため息をついた。そした膝を折ってしゃがむと猪口の顔を見て諭すように語りかけた。
「艦長、どうかお聞きください。我々は誰も艦長のことを恨んでなんかおりません。むしろ助けて頂いて全員感謝しております」
「しかし……一発の砲弾も放てぬまま多くの兵が死んだ。魚雷も一本も避けられなかった。私がしっかりしていれば、武蔵がもっと戦えていれば、作戦は成功したかもしれない」
猪口はゆっくりと首を振る。砲術の神様とまで持ち上げられ世界最大の戦艦を任されたはいいが、蓋を開けてみれば何もできず艦も失っている。この時、猪口は酷く自信を失っていた。
艦長の気持ちも理解はできるがと思いながら、加藤は再びため息をつくと口を開いた。
「いいですか。戦いに運・不運はつきもの、一旦退いて次の機会を待とう、一歩後退二歩前進という兵法もあると仰ったのは艦長ご自身じゃないですか。とにかく運が悪かっただけです。あの状況では誰が指揮してても結果は変わりませんでしたよ」
猪口は答えない。
ああもう面倒くさい。加藤は説得の方針を変えた。こうなったら忙しくして忘れさせるしかない。
「とにかく!沖根がすぐにでも話をしたいそうです。私や航海長じゃ無理です。艦長しか相手できませんから、シャンとしてください。GF(連合艦隊司令部)からも今日中に何か言ってくるでしょう。それに陸軍のほうも話があるそうです。寝てる暇なんて無いですからね!」
「わかった。すまなかった。迷惑をかけた」
残りをすべて押し付けて、自分だけ逃げるのは卑怯だと理解したのだろう。猪口は頷くとノロノロと立ち上がった。
「お分かりになって頂けたようで安心しました。差し出がましい事を言って大変失礼いたしました。一応、艦長がお疲れだと言って軍医長を呼んでまいります」
そして加藤は去り際に手帳から問題のページを破り取った。部屋の隅に転がるナイフも拾う。
「勝手ながら、これは小官がしばらくお預かりいたします。艦長はもう少しお休みになっていて下さい。沖根の方には適当に言っておきますので」
戦後、加藤は猪口にそのページを返そうとしたが、猪口の希望もあってずっと手元に保管していた。そして1985年に武蔵を建造した長崎造船所に史料館が出来た時にそれを寄贈した。
だがあの日の艦長室での出来事は生涯だれにも言うことはなかった。
■1944年11月5日 夕刻
戦艦武蔵
海岸に突然あらわれた巨大戦艦に、沖縄の陸軍と海軍、そして周辺住民は大騒ぎになった。とりあえず箝口令が敷かれ、沖縄方面根拠地隊が自主的に兵を出して周囲を立ち入り禁止にする措置をとった。
連合艦隊司令部には昨夜のうちに顛末が報告がされていたが、武蔵に命令が来たのはようやく午後になってのことだった。その頃には猪口の様子も通常に戻り、加藤は内心で胸をなでおろしていた。
「残念ながら、沖根では受け入れられないそうです」
沖縄方面根拠地隊から武蔵を訪れた前川新一郎大佐の表情は、心の底から残念そうだった。
沖縄方面根拠地隊、通称「沖根」は、日本海軍が今年4月に南西諸島防備強化のため新設した部隊である。航空隊や設営隊を含めれば1万名近い規模を持つが、現地招集の兵士も多く、特に陸戦能力の面では装備・練度ともに陸軍に比べると見劣りがする。
猪口ら武蔵の首脳部は、おそらく武蔵は沖根の指揮下にはいるものと予想していた。
だが連合艦隊司令部から最初にもたらされた指示は違っていた。ミッドウェー海戦後の時と同様に、艦の乗員を隔離して情報を隠蔽、敗北の情報が拡散するのを防ぐことを優先したのである。
『戦艦武蔵乗員は艦に留まり、それをもって第三四特別根拠地隊を編成、沖縄防衛に貢献すべし』
つまり、艦から勝手に出るな、大人しくしていろ。それが連合艦隊司令部からの命令だった。
1944年末当時、大本営海軍部作戦課(第一部)は沖縄を舞台にした最終決戦に傾倒していた。
とは言っても既に捷一号作戦で水上部隊は壊滅している。戦える艦が無い以上、主戦力は基地航空隊しかないが、それも既にやせ細り搭乗員の技量も低下している。だからこそ海軍は特攻を主体にした作戦を計画していた。
この「最終決戦」により戦局の転回を目指していたが、その実は後先考えない独りよがりの散り際、面子を立てる事が目的であったともいえる。
つまり海軍作戦部にとって、武蔵は既に戦力として見做されていないという事だった。
「もちろん、出来うる限りの協力はしましょう。何かありましたら連絡してください」
そんな社交辞令を残して前川大佐は沖根へ帰っていた。
数日後、戦艦武蔵は除籍となった。
海軍に半ば見捨てられた形の武蔵であったが、陸軍、特に沖縄防衛を担当する第32軍は戦艦武蔵に対して別の考えを持っていた。
【後書き】
冒頭の手記は、実際に猪口艦長が書いた最後の手記を参考にしています。
自害された訳ではないですが、退艦を拒否して艦と運命を共にされようとしていました。
史実では、戦艦武蔵乗員の生き残りは本土に戻されず、隔離されるか戦場で摺りつぶされるかして、ほとんどが悲惨な最後を遂げています。
本作では3000名を超える乗員のほとんどが生存したまま沖縄に座礁しました。その全員の責任を負っていることを自覚した猪口艦長が次話より覚醒します。
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