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 第三節「杯の魔女、あるいは神敵【魔王】の帰還」

SCENE-048 未練がましい

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「ねぇ――」

 長命種の気が済むまで付き合っていたら時間がいくらあっても足りはしない。

 ただでさえ飽きっぽい伊月が、ぐーっと腕を突っ張って体を離そうとすると。黒姫奈の姿をしたドラクレアは存外素直に離れていった。



 どのみち、正面の女から離れた伊月の背後にはキリエがいたので、接触面積自体はそれほど変わらない。

 後ろから腕を回してきたキリエがすり……と頬を寄せてくるのを、まるで空気か何かのようにスルーして。伊月はようやくじっくりと、ドラクレアと同じ匂いのする女の姿形をつぶさに観察した。

「これって本当に黒姫奈わたしが昔使ってた体? それともドラクレアが私のことを好きすぎてアストラルボディの形がそうなっちゃった、ってだけ?」
「お前が捨てた体だよ」

 ようやく口を開いた黒姫奈ドラクレアの声が、伊月の鼓膜を低く震わせる。

 体が同じなら声帯も同じはずなのに。そんな声も出せるのかと、まったく別人のものと言われても違和感のないその響きに、伊月は目を瞬かせた。

「お前が使うと言うなら返すけど」
「都築の手垢がついた体を?」
「いらないなら、私にちょうだい」
「……変なことに使わないなら」

 所有欲を向けられている、という点では同じようなものでも、黒姫奈のことを自身のコレクションに加えようとしていた都築と黒姫奈個人に執着しているドラクレアでは、その体を欲している理由も伊月との関係値もまるで違うので。伊月のお古・・を都築のお手つきだとわかっていてなお欲しいと言うなら、まぁいいでしょうと。伊月の返事はあっさりとしたものだった。

「変なこと、って?」
「その体から血を吸ったり、ダッチワイフ代わりにされたら流石に気分が悪いわよ」
 他の誰かが黒姫奈の体にそんな真似をしたと知れば、伊月は相手を八つ裂きにするまで気が済まなかっただろうが。ドラクレアなら死体相手によくやるわ、と呆れ混じりに顔をしかめるくらいで済ませてやれる。

 なにせ、黒姫奈はキリエに自身を殺させているので。黒姫奈の死後、霊魂が抜けて空になった体を、ドラクレアにだけは好きにする権利があったことを認めてあげてもいいと、そんなふうに考えていた。

 もちろん、黒姫奈の生まれ変わりレナトゥスである伊月が戻った今からそんな真似をされてはさすがに業腹なので、釘を刺しておくことも忘れはしなかったが。



 伊月の明け透けな物言いに、その後ろで背もたれになっていたキリエがぶるっと体を震わせる。

「お前の死体でそんな気分にならないよ!」

 あらぬ誤解を受けたというだけにしては悲痛な声を上げたキリエ――本霊ドラクレアとは比べ物にならないほど感情豊かな分霊――は勢いよく首を振りたくり、伊月の体へ回した腕に縋るよう、必死めいた力を込めた。

 キリエならそうかもね、と。伊月も軽い調子で頷いてみせる。

 今やキリエは可愛さ余ってパートナーを食べてしまうタイプの竜種だが。実際にそうできるほどの度胸というか、覚悟はない。

 伊月を丸呑みにして一つになるより、素気無くされようと一緒にいられることを喜ぶ穏健なタイプだということは、とっくに理解できていた。

 キリエにここぞというとき、自制できるだけの強い理性があることも。

「ドラクレアが違うならいいけど、吸血鬼にはわりといるわよ。心が壊れてたり霊魂が入ってなかったりして静かな方が煩わしくなくていい、ってタイプ。もちろん見つけたら片っ端からぶち殺してるけど」
「お前は討滅士だったからそういうろくでもない吸血鬼ばかり見てきたのかもしれないけど、本当はパートナーを大事にしない吸血鬼の方が少数派だからね? 少なくともジキルはそういうふうに設計したんだから、くらい血が濃かったらお前に無体なことをするなんて考えられないくらいなんだよ……?」

 吸血鬼がとある魔術師によって作り出された人造種、生まれてから五千年も経っていない比較的新しい人種だということは、一般教養の範疇だろうが。そこから更に踏み込んで、第一始祖の実子ヴラディスラウス・ドラクレアがジキルの手元でモルモット同然に育てられた〝世界で最初のダンピール〟だということも、伊月は把握している。

 ただし。かつて青い血の異能者ブルーブラッドだった伊月にとっては珍しいことではないにせよ、その知識をいつ、どこで、どのようにして手に入れたのかという、異能を得る以前の〝思い出〟に含まれる情報はさっぱり覚えていなかった。

「人造種ってそこまで融通が利くの? 体質とかだけじゃなくて、個人の思想みたいなものまで?」
「ジキルはあれで本当に天才だし……都築の血縁者だよ? 星龍家が理性薄弱なのはロキからの悪性遺伝って話で、いくら気をつけていても自分ではどうにもならないらしいから、そのことへの保険も兼ねてそういうふうにしたんだよ。理性で欲望に抗えなくても本能の方でブレーキがかかるように、って」
「へぇー……」
第一始祖ドラクルの血統はジキルが生み出した中でも、そういう意味では一番安全だよ? パートナーに執着する竜の性質とパートナーに尽くす吸血鬼の性質が結びついているから、私はお前の言うことならなんだって聞くし、どんなに理不尽な目に遭わされても、お前さえいてくれたらそれで幸せを感じられるようにできているんだから」

 そこまで言われると、さすがになけなしの良心が痛む。

 要するに、ていのいい奴隷のようなものだと捨て身にもほどがあるアピールの仕方をされて。あまりよろしくない性格をしている自覚のある、さしもの伊月も思わず渋い顔になった。

「血が欲しいのはお前の魔力と感情目当てで、死体を相手にしたって意味がない。お前を抱くのだってそうだよ。お前が気持ちよくなって私に褒美をくれないなら、にとってはなんの意味もない……」

 屍姦趣味の嫌疑をかけられたことがそんなにショックだったのか、伊月の微妙な反応にも構わず言い募ってくるキリエを黙らせるのに、伊月は「はいはい」と、おしゃべりな口へぞんざいにくちづけた。

「っ……」

 色気も情緒もない、物理的に口を塞ぐためのキスに大袈裟なくらい体を震えさせたキリエが動かなくなったことに満足して。伊月はまたキリエのことを背もたれにするよう、黒姫奈の皮を被ったドラクレアの方へと向き直る。

「とにかく、私はもういらないから、その体が欲しいならあげる」
「うん」

 こちらはキリエと対照的に、感情の起伏らしいものをほとんど窺わせない。

 長く生きたメトセラらしいと言ってしまえばそれまでの話だが。それでも、伊月のことを大切に思ってあいしているには違いない。

 ほんのりと微笑んだかのように見えた黒姫奈ドラクレアがお礼のようにふわりと触れさせてくる唇を、伊月は自分でも意外なほど、なんの感慨もなく受け止めた。


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