48 / 92
第三節「杯の魔女、あるいは神敵【魔王】の帰還」
SCENE-047 かつての幸福
しおりを挟むイシュナフ宮の奥宮が〝竜の巣〟であることを正しく理解している伊月が、よりにもよって〔影の皇〕を持つドラクレアが最も気にかけている自身の影から這い出してくるものを警戒する理由はなかった。
代わりのきかない唯一無二の存在として守られることを受け入れてしまえば、伊月にとってドラクレアほど都合がよく、信用のおけるガーディアンはいない。
真王ヘルの覚えもめでたい竜公の後継者。
夜会に名を連ねる災厄級の魔法使い。
伊月にだけは忠実で、献身的に振る舞うあまり、愛を乞うことさえできない不器用な吸血鬼。
キリエの上に寝そべって、なんの警戒心もなく微睡んでいた伊月は、背中に覆い被さってきた人肌の温もりと流れ落ちてきた長い黒髪に、ふと目を瞬かせた。
(ヴラド?)
伊月にとって最も見慣れたドラクレアの分霊は銀色の髪をしているが。まるでヴラディスラウス・ドラクレア本霊のような顔でイシュナフ宮に詰めているヴラドの髪は、光の加減で黒にも見える暗色だ。
けれど、ヴラドの髪はこれほど長くない。
それに、伊月から求めたわけでもないのに、ヴラドが自分から近付いてくるようなことをするとも思えない。
同じ分霊相手だろうと悋気を起こすキリエの気性が、おそらくドラクレア本霊のそれを最も色濃く反映していることに薄々察しのついている伊月が、内心首を傾げながら顔を上げると。そこには思いがけない顔があった。
「えっ……黒姫奈?」
八坂伊月として生まれる前。
黒姫奈として死ぬまで毎日のよう、鏡の向こうに見ていた女の顔が。
感情など持ち合わせていないかのよう凪いだ面持ちでこてりと首を傾げた女が、おもむろに顔を近付けてくる。
その唇が伊月の目元へふに、と触れて。
キリエのものとは明らかに違うはずなのに。その感触を、伊月はよく知っているような気がした。
「ドラクレアなの?」
キリエはドラクレアの分霊なのだから、さもありなん。
正体を言い当てられて擬態や隠形を維持できなくなった妖魔よろしく、黒姫奈の皮を被ったドラクレアは、その魔力に慣れきった伊月でさえ思わず息を呑むほどの魔力を、どっと溢れさせた。
〔影の皇〕を持つ吸血鬼の魔力が、部屋の中を塗り潰したよう暗くする。
魔力が帯びた影に物理的な視界を遮られたとしても、ドラクレアに〝牙〟を捧げられた伊月にとって、ドラクレアの魔力は自分自身の魔力と大差がない。
どんなに濃密だろうと、その魔力が伊月に害を及ぼすことはなく。体の外に出た余剰魔力へ意識を行き渡らせるようにすれば、伊月を拒むということを知らないドラクレアの魔力の分だけ術理的な視覚が拡張されて。伊月はむしろ、それまでよりも周囲の状況がよく視えるようになった。
黒姫奈の皮を被ったドラクレア。
その一挙手一投足が、二個一対の双眸で見るよりもはっきりと、つぶさに感じられる。
その気になれば、黒姫奈が零す吐息の深ささえ把握できてしまうほどだった。
「ねぇ。まさかそれ、ドラクレアの本霊が入ってるの?」
むぎゅっ、と背中側からのしかかるように抱きしめられて。元々下敷きにしていたキリエと黒姫奈の皮を被ったドラクレアの間に挟まれた伊月が、もぞもぞ身じろいで後ろを振り返ろうとすると。カウチの上にすっかり寝転んでいたキリエが起き上がり、自分の上に乗り上げていた女二人をカウチの上に落としてそれを手伝った。
黒姫奈の皮を被ったドラクレアが、今度は正面から伊月のことを抱きしめてくる。
「もう……」
言葉はないが、ドラクレアとの術理的な繋がりから伝わってくる感情は雄弁だった。
どんな形であれ伊月から求められ、受け入れられたことが嬉しくて、幸せで堪らないのだと。
広げたばかりのパスから伝わってくる澄んだ感情に、伊月の方までふわふわと気持ちが浮ついてくる。
伊月からもぎゅっ、と抱き締め返した体は人並みに温かかった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
6
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる