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第22話(2) シド・アイボット
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バタバタと、北棟の廊下を駆けて行くフィリアの足音が響いていた。
後ろから迫り来る追っ手の気配に、意地でも逃げなくてはと全力を出した。
すれ違う女中が一人、また一人と驚いて振り返る。その度にさようならと心の中で呟く。
さようなら、みんな、さようなら、お父様、お母様、ミーナ……。
赤絨毯の廊下を一心不乱に走った。真っ直ぐに行けば外へ通じる通用口があるから、そこを出て中庭を突っ切ろう。
突き当たりには地下へ通じる階段が見えている。いつも行くのが楽しみで仕方がなかった書庫への階段。もう二度とあそこへ行くこともない。今日こそシドに会いに行くのだから……!
そんな決意を胸に刻んだせいだろうか、また後ろの方からあの声が聞こえてきた。
「お嬢様……! お嬢様……!」
あの階段を見たせいで耳がどうかしてしまったのだ。心が揺らいでしまいそうだが、幻聴などに惑わされている場合ではない。
フィリアはさらに加速した。しかし。
「お嬢様……!」
幻聴が大きくなってきた。いるはずがないのに、捕まってはいけないのに、ずっと聞きたかった宵闇のような声がどんどん近づいてくる。
気になりすぎてちらっと振り返ると、遠くから燕尾服を着た黒髪の男が追いかけてきていた。
フィリアは立ち止まって目を凝らし、それがシドだと分かった途端、あまりの驚天動地に過呼吸で引付けを起こしそうになった。髪は乱れ、ドレスもグシャグシャになり、裸足で足は冷たく、目からはボロボロとわけが分からないほど涙が溢れて、整っていた化粧があっという間にクシャクシャになってしまった。
「はぁ……はぁ、はぁ……なんぁ……はぁああ、なんっでっはぁっあ……はああ、うぁあ、はぁ、ぁああああ……!」
混乱するフィリアの元にシドも息咳切らせて到着する。こちらも全力で走って来たのか膝に両手をついてしばらく息ができないほどだった。艶めく黒髪は乱れ、上着やネクタイは歪んでいる。
必死で追いかけてきてくれたのだ。
「はぁ……はぁ……お嬢様、お久しぶり、で、ございます……はぁ……はぁ……」
「なっ……なんで……っ、シド……シド……!」
未だ混乱の続くフィリアは、喜ぶことも忘れて会いたかった人の顔をこれでもかと観察した。夢ではないのだろうか。本物だろうか。ネズミモチではないのだろうか。
「どうして、どうしてここにいるの。城から出て行ったと聞いたわ」
「ええ、約定を解除され、退職した途端に部外者になったので城に居続けることができなくなりました。しかし話せば長くなりますが、貴女に会いたくて帰って来てしまったのです」
その意味を完全には咀嚼できずフィリアは半泣きのままキョトンとした。そこに深い意味はあるのだろうか。素直に喜んでいいのだろうか。
詳しく聞かなくてはと来た道に目を遣り、他に追っ手がないことを確かめると、シドの手を取って人目に付かない地下階段へかけこみ、踊り場まで下りた。
明るさが半減してしまったけれど、シドの顔はそれなりにちゃんと見える。
「どういうこと? ちゃんと教えて」
懇願するように小声で問うと、シドは苦笑して見たこともないほど柔和に微笑みかけてくれた。鷹のような鋭さは微塵もない。どこか晴れ晴れとしていて、少し会わない間に見違えるほど自信を持ったように見えた。
「お嬢様、運命というのは、現在の自分が動くかどうかで決まる――その意味がやっと実感できたような気がします。私は先日、城を出た後、騎士団学校へ再入学致しました」
「騎士団学校へ……! 夢を諦めなかったのね」
「ええ、諦め切れませんでした。騎士にならなくては貴女にまた会えないですし、まだ、お返事をしていませんでしたからね」
「……!」
ドキッと、胸が高鳴る。
「お返事……お返事をくれるの……?」
期待の眼差しで見上げたフィリアをシドは驚くほど愛おしそうに見つめてくれた。
優しく下げられた眦も、緩く弧を描く唇も、こんなにあからさまな表情を見たのは初めてだ。
夢を見ているようだった。
陶然としたフィリアにシドが手を差し伸べてくれる。今日は手袋なんかしていない、まっさらで大きなかっちりとした素肌の手だ。シドがやけに嬉しそうに微笑しているから、夢見心地のまま釣られて手を乗せたら、しっかりと両手で優しく握ってくれた。
それだけで全身にボッと火がついて熱を帯びてしまう。
「お嬢様、貴女に初めてお会いしたのは今から四年以上前のことでした。庭園の東屋で佇んでおられたのを見たあの日から、貴女は私の運命の女性になってしまわれたのです。それ以来、貴女を想わなかった日は一日たりとてなく、釣り合う男になる為に騎士になろうとさえ思いました。まるで子供の考えるような愚かしいことですが、そうしなければ貴女に気持ちを伝えることさえできない――それが悔しかったのです」
真っ直ぐに、正直に語られた真実を、フィリアは受け止めるだけで精一杯だった。胸が一杯で声を出すのもやっとだ。
「本当……それは本当なの……」
「ええ。私は貴女に選ばれたい」
「……! 選んでるわ。とっくに」
「それは良かった」
シドはにこりと微笑むと、握り続けていたフィリアの手を持ち上げて優しく口付けてくれた。これまでいろんな男性にそれをされたけれど、この時ほど心震えたことはない。
「お嬢様、私が騎士になるまであと半年お待ち下さい」
「半年……? 半年で騎士になれるの?」
「学校側と交渉の末、未修了分の期間だけで卒業できることになりました。お嬢様が婚約者として誰を選ばれるかに関係なく、私が騎士となれた暁には、オリーズ候は私の父に男爵位を叙勲するともお約束して下さいました」
「男爵位を……? お父様が……?」
「ええ。つまり、オリーズ候のおかげでアイボット家はかつて所有していた領地を返還されることになったのです。半年後、私は男爵の息子と言う立場になります。お嬢様が私を選んでくださるなら、そこへお連れしても良いとオリーズ候から了解も得ています」
「まぁ……まぁ……」
聞いているうちにまたポロポロと涙が溢れてきた。さっきからもうどうにもならないくらい顔がメチャクチャだ。
「私と共に来てくださいますか」
「もちろん……もちろんよ……」
「これからは田舎屋敷での暮らしになります。オリーズ領の後を継げるかどうかはまだ分かりませんし、使用人の数は何十倍も減り、お嬢様は生活のために新しいことを覚えていく必要があるでしょう。それでも、私を選んでくださいますか」
「もちろん……、他に選択肢なんかないわ。貴方しか考えられないの!」
即答したフィリアを見てシドは微笑み、もう一度手の甲へキスしてくれた。桃色の頬に溢れた涙を拭って微笑したその顔は先ほどより更に深く愛おしげな色を湛えていて。薄暗くてはっきりとは見えないけれど、目元が薄っすら光っているように見えた。
「では、お嬢様、広間へ戻りましょう。きっと皆さんがとても心配しておられますよ。戻って私をお披露目してください。この式が終わって半年経ったら――貴女を、必ず迎えに参りますから」
ああ――そうだった、とフィリアは思った。
庭園で出会った時から、分かっていたんだ。こうなるって。
「シド……待ってるわ。必ずよ!」
後ろから迫り来る追っ手の気配に、意地でも逃げなくてはと全力を出した。
すれ違う女中が一人、また一人と驚いて振り返る。その度にさようならと心の中で呟く。
さようなら、みんな、さようなら、お父様、お母様、ミーナ……。
赤絨毯の廊下を一心不乱に走った。真っ直ぐに行けば外へ通じる通用口があるから、そこを出て中庭を突っ切ろう。
突き当たりには地下へ通じる階段が見えている。いつも行くのが楽しみで仕方がなかった書庫への階段。もう二度とあそこへ行くこともない。今日こそシドに会いに行くのだから……!
そんな決意を胸に刻んだせいだろうか、また後ろの方からあの声が聞こえてきた。
「お嬢様……! お嬢様……!」
あの階段を見たせいで耳がどうかしてしまったのだ。心が揺らいでしまいそうだが、幻聴などに惑わされている場合ではない。
フィリアはさらに加速した。しかし。
「お嬢様……!」
幻聴が大きくなってきた。いるはずがないのに、捕まってはいけないのに、ずっと聞きたかった宵闇のような声がどんどん近づいてくる。
気になりすぎてちらっと振り返ると、遠くから燕尾服を着た黒髪の男が追いかけてきていた。
フィリアは立ち止まって目を凝らし、それがシドだと分かった途端、あまりの驚天動地に過呼吸で引付けを起こしそうになった。髪は乱れ、ドレスもグシャグシャになり、裸足で足は冷たく、目からはボロボロとわけが分からないほど涙が溢れて、整っていた化粧があっという間にクシャクシャになってしまった。
「はぁ……はぁ、はぁ……なんぁ……はぁああ、なんっでっはぁっあ……はああ、うぁあ、はぁ、ぁああああ……!」
混乱するフィリアの元にシドも息咳切らせて到着する。こちらも全力で走って来たのか膝に両手をついてしばらく息ができないほどだった。艶めく黒髪は乱れ、上着やネクタイは歪んでいる。
必死で追いかけてきてくれたのだ。
「はぁ……はぁ……お嬢様、お久しぶり、で、ございます……はぁ……はぁ……」
「なっ……なんで……っ、シド……シド……!」
未だ混乱の続くフィリアは、喜ぶことも忘れて会いたかった人の顔をこれでもかと観察した。夢ではないのだろうか。本物だろうか。ネズミモチではないのだろうか。
「どうして、どうしてここにいるの。城から出て行ったと聞いたわ」
「ええ、約定を解除され、退職した途端に部外者になったので城に居続けることができなくなりました。しかし話せば長くなりますが、貴女に会いたくて帰って来てしまったのです」
その意味を完全には咀嚼できずフィリアは半泣きのままキョトンとした。そこに深い意味はあるのだろうか。素直に喜んでいいのだろうか。
詳しく聞かなくてはと来た道に目を遣り、他に追っ手がないことを確かめると、シドの手を取って人目に付かない地下階段へかけこみ、踊り場まで下りた。
明るさが半減してしまったけれど、シドの顔はそれなりにちゃんと見える。
「どういうこと? ちゃんと教えて」
懇願するように小声で問うと、シドは苦笑して見たこともないほど柔和に微笑みかけてくれた。鷹のような鋭さは微塵もない。どこか晴れ晴れとしていて、少し会わない間に見違えるほど自信を持ったように見えた。
「お嬢様、運命というのは、現在の自分が動くかどうかで決まる――その意味がやっと実感できたような気がします。私は先日、城を出た後、騎士団学校へ再入学致しました」
「騎士団学校へ……! 夢を諦めなかったのね」
「ええ、諦め切れませんでした。騎士にならなくては貴女にまた会えないですし、まだ、お返事をしていませんでしたからね」
「……!」
ドキッと、胸が高鳴る。
「お返事……お返事をくれるの……?」
期待の眼差しで見上げたフィリアをシドは驚くほど愛おしそうに見つめてくれた。
優しく下げられた眦も、緩く弧を描く唇も、こんなにあからさまな表情を見たのは初めてだ。
夢を見ているようだった。
陶然としたフィリアにシドが手を差し伸べてくれる。今日は手袋なんかしていない、まっさらで大きなかっちりとした素肌の手だ。シドがやけに嬉しそうに微笑しているから、夢見心地のまま釣られて手を乗せたら、しっかりと両手で優しく握ってくれた。
それだけで全身にボッと火がついて熱を帯びてしまう。
「お嬢様、貴女に初めてお会いしたのは今から四年以上前のことでした。庭園の東屋で佇んでおられたのを見たあの日から、貴女は私の運命の女性になってしまわれたのです。それ以来、貴女を想わなかった日は一日たりとてなく、釣り合う男になる為に騎士になろうとさえ思いました。まるで子供の考えるような愚かしいことですが、そうしなければ貴女に気持ちを伝えることさえできない――それが悔しかったのです」
真っ直ぐに、正直に語られた真実を、フィリアは受け止めるだけで精一杯だった。胸が一杯で声を出すのもやっとだ。
「本当……それは本当なの……」
「ええ。私は貴女に選ばれたい」
「……! 選んでるわ。とっくに」
「それは良かった」
シドはにこりと微笑むと、握り続けていたフィリアの手を持ち上げて優しく口付けてくれた。これまでいろんな男性にそれをされたけれど、この時ほど心震えたことはない。
「お嬢様、私が騎士になるまであと半年お待ち下さい」
「半年……? 半年で騎士になれるの?」
「学校側と交渉の末、未修了分の期間だけで卒業できることになりました。お嬢様が婚約者として誰を選ばれるかに関係なく、私が騎士となれた暁には、オリーズ候は私の父に男爵位を叙勲するともお約束して下さいました」
「男爵位を……? お父様が……?」
「ええ。つまり、オリーズ候のおかげでアイボット家はかつて所有していた領地を返還されることになったのです。半年後、私は男爵の息子と言う立場になります。お嬢様が私を選んでくださるなら、そこへお連れしても良いとオリーズ候から了解も得ています」
「まぁ……まぁ……」
聞いているうちにまたポロポロと涙が溢れてきた。さっきからもうどうにもならないくらい顔がメチャクチャだ。
「私と共に来てくださいますか」
「もちろん……もちろんよ……」
「これからは田舎屋敷での暮らしになります。オリーズ領の後を継げるかどうかはまだ分かりませんし、使用人の数は何十倍も減り、お嬢様は生活のために新しいことを覚えていく必要があるでしょう。それでも、私を選んでくださいますか」
「もちろん……、他に選択肢なんかないわ。貴方しか考えられないの!」
即答したフィリアを見てシドは微笑み、もう一度手の甲へキスしてくれた。桃色の頬に溢れた涙を拭って微笑したその顔は先ほどより更に深く愛おしげな色を湛えていて。薄暗くてはっきりとは見えないけれど、目元が薄っすら光っているように見えた。
「では、お嬢様、広間へ戻りましょう。きっと皆さんがとても心配しておられますよ。戻って私をお披露目してください。この式が終わって半年経ったら――貴女を、必ず迎えに参りますから」
ああ――そうだった、とフィリアは思った。
庭園で出会った時から、分かっていたんだ。こうなるって。
「シド……待ってるわ。必ずよ!」
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