世界よ優しく微笑んで

えくれあ

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ep.019 先代の侯爵様

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 侯爵様のお父様は、庭園に着いても、そのまま私の手をぐいぐいと引っ張って先に進んでいく。
 やっぱり、私よりずっとお詳しい、私の案内なんてきっと不要なのだ。

「あの……」
「ん?なんだい?」
「えっと、その……先代の侯爵様、なんですよね?」
「ああ、そうだよ」
「前の侯爵様のことは、何とお呼びするのが正しいのでしょうか?」

 正直今の侯爵様を、侯爵様と呼ぶのが正しいのかもちゃんとした確証があったわけではないけれど。
 他の皆さんは旦那様、と呼んでいらっしゃるし、その方が正しいのかも、と思ったりもした。
 ただ、侯爵様も他の方達も特に何も言わないので、間違ってはいないのかも、と呼び続けているにすぎなかったりする。
 けれど、さすがに先代の方に対してどういった呼称が適切なのか、私には全く知識がなかった。

「うーん、そうだね……先代として呼ばれるのも悪くはないんだが……」

 なぜか、侯爵様のお父様はうーん、と考え込んでいる。
 どう呼ぶのが正しいか、なんてご本人に聞いてしまったから、呆れられてしまったのだろうか。

「おじ様、なんてどうだろう?」
「はい?」

 貴族の世界に全く詳しくない私でも、これだけはわかる。
 これは別に、先代の侯爵様かどうかなんて、関係ない呼び方だ。

「君には、そう呼ばれたいと思ってね。ダメだろうか?」
「いえ、そんなことは……」
「それはよかった。では、私はジークのように、リディアと呼んでも?」
「は、はい」

 私が頷くと、侯爵様のお父様……もとい、おじ様は、満足そうに笑った。
 そして、おじ様は、どんどんと私が足を踏み入れたことのない場所に進んでいく。
 やっぱり、案内は不要なようだ。
 というか、こんな場所もあったのか、と私がきょろきょろしてしまう。

「ジークはこっちには連れて来なかったみたいだね」
「はい」

 どんどんと知らない場所へ進んでいく。
 そうして見えてきたのは……

「温室……?」
「ああ、随分と久しぶりだ」

 ここがおじ様の目的地だったみたいだ。
 おじ様は扉を開けて中へ入っていく。
 私も手を引かれたままなので、そのまま一緒に中に入ることになった。

「こんなところが……」

 残念ながら、温室は誰も手入れしていなさそうだ。
 庭園と違って少し荒れている。
 それでも、自然の力なのか、咲いているお花もある。
 過去には誰かがきちんと手入れをしながら、大切にお花を育てていたのかもしれない。

「ここは、私の妻、アーシェが花を育てていた温室なんだ」

 おじ様の奥様、つまり侯爵様のお母様……
 以前絵で見せていただいた、優しそうなお姿が浮かぶ。

「ではここにあるお花は……」
「昔、妻が育てていたものだね。今は誰も手入れしていないようだが、それでもいくつかは咲いているようだ」

 そういうと、おじ様は扉を閉めた。
 同時に扉がパチッと少し光りを放った気がする。
 おそらくこれは、おじ様によって魔法で鍵をかけられたみたいだ。
 そう思いながら扉を見ていると、今度は温室全体がおじ様の魔力で覆われるのを感じた。
 今度は何だろう、と私の視線は自然と上を向く。

「ジークの言う通り、なかなか勘がよさそうだ」
「え?」
「心配しなくていい、温室に鍵をかけたのと、防音の魔法を使っただけだよ。これでここには誰も来られないし、私たちの会話は誰にも聞こえない。まあ、ジークには破られてしまうかもしれないが、おそらくジークはそんなことしないだろう」

 聞かれてはいけないお話がある、ということだろうか。

「異世界から来た話を庭ですると、さすがに誰かに聞かれてしまうかもしれないからね」

 念には念を、だよ、とおじ様はウインクして見せる。
 つまり、これからおじ様がお話するのは、私が他の世界から来たことに関係するお話……

「そう硬くならないでほしいな」
「あ……」

 無意識に力が入ってしまっていたようだ。

「さっきの話の続き、みたいなものだよ」
「え……?」
「本人たちがいると、言いづらいのではないかと思ってね」
「それって……」
「ジークやブリジットの事を気にして、嫌だと言えないのではないかと思ってね。もしどうしても嫌なら、私が代わりにそれとなく断ってあげよう」
「いえ、嫌だとかそういうのではなくて……」
「では、何が気になっているのかな?」

 おじ様が私を連れて来てくださった理由は、私があの場では自分の意見を言えないと心配してくださったからだったのか。
 こういうところ、侯爵様のお父様だなぁと思う。
 侯爵様同様、すごくいろいろと気にかけてくださって、とってもお優しい。

「あの、おじ様にこんなことをお聞きするの、違うかもしれないんですけれど……」

 そう言うと、おじ様がなんだかとってもにこにこして嬉しそうな顔になった。

「ああ、すまない。予想以上にいいな、と思ってね、その、おじ様と呼ばれるのが」
「へ?」
「おっと、話を邪魔してしまったね」

 そう言うと、おじ様は私の両手を取った。

「違っていてもかまわない、言ってごらん、リディア」

 おじ様の言葉は、私を安心させるようにすごく優しい。

「どうして、侯爵様は私にここまでしてくださるのでしょう?」
「どうして、か。確かに私はジークではないから、その質問は難しいね……」

 うーん、困った、なんて言っているのだけれど、なぜだろう、あんまり困っていらっしゃるようには見えない気がする。

「私がここに来たのは、ジークから手紙を貰ったからなんだ。それは、ブリジットも同じでね」
「お手紙、ですか……?」
「うん、その手紙にはリディアのことがたくさん書いてあったよ」
「えっ!?私の、こと……?」
「うん、リディアがどこから来て、どういう経緯でここにいることになって、何が好きで、普段どういう子で、そういうことを事細かく書いてあった。普段あまり他人に興味を示さない子だったからね、なかなか珍しいし、興味深かったよ」

 いったい何が書かれていたのかはわからないけれど、なんだかすごく恥ずかしい……

「あ、他の人に読まれて秘密が漏れてしまう心配はないから安心するといいよ。ジークがちゃんと魔法をかけてあったから」

 つい、俯いてしまった私に、おじ様はそんな言葉をかけてくる。
 決してそんな心配をしていたわけではないのだけれど。
 でも、さすが侯爵様というか、そんなところまでちゃんと気にしてくださっていたようだ。

「その手紙を読んで私はこう思った。きっとジークはリディアが泣かなくて済むように、いつも笑っていられるようにするために、一生懸命なんだろうって」
「どうして、私なんかのために……」
「理由は、もしかしたらジークもちゃんとわかってないかもしれないね」
「え?」
「リディアはジークが泣いている方がいい?笑っている方がいい?」
「それはもちろん笑っている方がいいです!」
「どうして?」
「え?えっと……」

 だって、笑っている方がいいに決まっている!と思ったけど、これって理由になっているだろうか。
 正直、あんまり泣いてる姿は想像つかないけれど、侯爵様が泣いていたら絶対嫌だと思う、ずっとずっと笑っていてほしい。

「ね?リディアもちゃんと説明できないだろう?そんなものだよ」
「じゃあ、私が泣いちゃって、侯爵様も嫌な思いをしちゃったから、それで……?」
「うーん……ちょっと違う方向に行っちゃった気がするなぁ」

 おじ様はすごく困った顔をしている。
 でも、何が違っているのか、私にはよくわからない。

「リディアは、ジークが泣いたら、嫌な思いをするの?気分が悪い?」
「そ、そんなことはないです!!」

 泣き止んでもらいたい、笑って欲しいとはきっと思うだろう。
 確かに泣いてるのは嫌だけど、私がさっき言った嫌な思い、はもっと違う、迷惑で見たくない、みたいなそんな意味だった。
 でも、そういう意味での嫌な思いは絶対ない。

「難しく考えないで。ただ、リディアが笑っていられる方が、ジークにとっていいこと、それだけなんだよ」

 侯爵様は私に笑っていてほしい、と思ってくださっている。
 私が笑っていることが、侯爵様にとっていいことで、侯爵様はそのために私に戸籍を作ろうとしてくれた。
 なんだか、さっきまでとは違って、すとんと自分の中に落ちてくる気がした。
 なんで、どうして、はもしかしたら侯爵様にもわかっていないのかもしれない。
 でも、侯爵様がそうしたいと、そう思ってくださったそのお気持ちは、とても嬉しいしありがたいものだ。

「とはいえ、リディアに無理強いをするつもりはない。ブリジットの娘が嫌なら、私の娘になってもいいし、それも嫌なら他の方法を考えればいい。この世界で君の戸籍を用意する方法は1つではないからね」

 侯爵様も言っていた、別の方法。
 お二人とも簡単そうに言っているけれど、それは本当にあるのだろうか、ものすごく大変な思いをさせたりしないのだろうか。

「ただ、私の希望を言えば、ブリジットを選んでくれたら嬉しい」
「どうして、ですか……?」
「私の娘でもかまわないが、私はもう隠居した身だからね。今さら養子を迎えるなんて、おかしいと思われる可能性もある」
「そうなんですか?」
「ああ。それでもジークが私にも手紙を送ってきたのは、おそらくブリジットに断られる可能性を考えての保険だろう」
「保険……?」

 つまり、侯爵様は断られる可能性の方が高い、と思っていたのだろうか。
 先ほどの感じだと、そんな風には思えなかったけれど。
 私に会うのも楽しみにしてくださっていたようだし、娘が欲しいとずっと思っていらっしゃったわけではないのだろうか。

「パトリック君は今まで何度か養子縁組を考えたらしいんだが、ブリジットが頷かなかったそうだ。ブリジットも子どもは欲しかったようなんだが、いざ迎えようとすると、亡くなった子が浮かんで悲しくなり、どうしても迎えることができなかったらしくてね」
「そうだったんですか……」

 現実は、私の想像とはだいぶ違っていたようだ。
 ということは、私を養子に迎えるのも嫌なのではないだろうか……

「そんなブリジットが、はじめて瞳を輝かせて自分の娘に迎えたい、と言ったのが君だった」

 私は、その言葉にただただ驚いて、言葉が出なかった。

「タイミングもあるだろう。あれから随分年月が過ぎて、ようやくブリジットも受け入れられるようになってきたのかもしれない。だが、ジークが事細かに書いた君のことを読んで、君の母親には自分がなりたい、と思ったそうだ」

 いったい、侯爵様はどんなことをお書きになって、ブリジット様はその中のどんな部分を見てそう思ってくださったのだろう……

「だから私には諦めてくれと喚いてね、それはそれは大変だったよ」

 大変だった、なんて言っているけれど、おじ様はとても優しい瞳をしていらっしゃる。
 きっと、ずっと妹であるブリジット様を心配していらっしゃったのだろう。

「それに、君にとっても、ブリジットの方がいいだろう。私の娘になった場合、残念ながら母親はすでに亡くなってしまっているからね。知らない世界だからこそ、同性の親に頼れる環境の方がいいはずだ。ジークもそう思ってブリジットに打診したんだろうし」

 本当にすごくすごく考えてもらったのだ、とあらためて思った。
 おじ様のおかげで、パズルのピースを1つずつ埋めていくみたいに、私の知らなかった部分がどんどんクリアになっていく。

「向こうの世界にも大切なご両親がいただろうから、複雑かもしれないが……せっかくこんな遠い世界まで来たんだ。新しい世界で、新しい両親と、新しい人生を歩むのも悪くないだろう?」

 ふっと、両親の顔が浮かんだ。
 魔力がとっても強くて、魔法や剣術を教えてくれる時はちょっときびしくて、でも上手くできたらすごく褒めてくれたお父様。
 由緒ある魔術師の家に生まれたのに魔力が強くなく、ちょっとおっちょこちょいだったけど、いつでも優しく笑いかけてくれたお母様。

「元の世界の父と母は、嫌ではないでしょうか?私だけこの世界で新しい両親と幸せになって、怒ったりしないでしょうか……?」
「私はあまり親らしいことをしてこなかったけれど、それでも親というものは、子どもの幸せを願っているものだ」
「私のお父様とお母様も……?」
「ああ、もちろん。だからきっと、この世界でリディアが幸せに暮らせるなら、お二人とも喜んでくれるはずだよ」
「ありがとう、ございます……」

 ここには居ない父と母が、笑ってくれたような気がした。
 私はここで、幸せになっていいんだよって、言ってもらえたような気がした。

「私、お受けしたいです……っ!!その、ブリジット様とパトリック様の娘になりたいです!」
「あー、うん。それは2人ともとても喜ぶだろうけど、その呼び方はものすごく落ち込みそうだなぁ……」

 何か、ダメだっただろうか。
 こういう呼び方って失礼になるのだろうか。
 そう考えてふと思い出した、侯爵様がエルロード家は子爵家だと言っていたことを。

「子爵様、とお呼びしないとダメでしょうか」
「それはきっと、もっと落ち込むだろうからやめてあげてもらえるかな?」

 よくわからないけれど、私はとりあえず頷いた。

「呼び名はブリジットたちとあらためて考えよう」
「はい」
「話がまとまったところで、1つお願いをしてもいいかい?」
「なんでしょう?」

 おじ様が私にお願いだなんて、驚きだ。
 私ができるような事で、何かお役に立てるようなことがあるだろうか。

「少しだけ、抱きしめさせてくれないだろうか」
「えっ?」
「ジークに事前に聞いてはいたんだがね。君は本当にアーシェにそっくりだ。容姿は何一つ似たところがないはずなのに、本当によく似ている」
「あ……」

 そういえばそうだった。
 侯爵様も、そんな話をしていた。
 魂が似ていると……

「アーシェを愛した私だからわかる、似てるんじゃない、その魂は同じだ。君は間違いなく、アーシェの生まれ変わりだろう」

 おじ様にしかわからない、何かがあるのかもしれない。
 私は何も知らないから、それを肯定することも否定することもできないけれど。
 確実に言えることは、それでも残念ながら私はおじ様の奥様のアーシェ様ではないということ。

「わかっている、それでも君はアーシェではない、全くの別人だと。ただ、少しだけ、アーシェの代わりとして抱きしめさせてほしい」

 とても切実な願いだった。
 もし私の目の前に、魂がお父様やお母様と同じだとわかる人が現れたら……
 きっと私も、それが別人だとわかっていても飛びつきたくなるはずだ。
 おじ様の気持ちは、すごくよくわかる。

「私でよければ、どうぞ」
「ありがとう……」

 そう言うと、おじ様は痛いくらいきつくきつく私を抱きしめた。

「すまなかったアーシェ、私は肝心な時にいつも君の傍にいられなかった……っ」

 泣いていらっしゃるのかもしれない。
 私は、おじ様にも、泣いてほしくないと思った。

「最期の時まで、傍にいられなくて、本当にすまない……」

 確か侯爵様が爵位を継がれたのは、お母様を亡くされてすぐだったはず。
 それから、確かおじ様は領地に引きこもったって……
 耐えられなかったのかもしれない、奥様を亡くしたこと以上に、最期の瞬間にお傍にいられなかったことが。

「おじ様の奥様は、幸せですね」
「何を……」
「こんなにたくさんおじ様に愛されて、生まれ変わっても魂を見つけてもらえて」

 今もきつくきつく抱きしめられている。
 きっとそれだけ強く、おじ様が奥様を想っていたのだろう。

「ありがとう……リディア」

 どれくらいの時間、ただ無言でじっと抱きしめられ続けていただろう。
 おじ様が、奥様ではなく、私の名前を呼んだ。
 その瞬間ふっと抱きしめられていた腕の力が抜けた。

「戻ろうか」

 そう言って手を差し出してくれたおじ様は、もう私の中に奥様を見てはいなかった。
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