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十月二十六日(水)京子さんの記憶②
しおりを挟むしばらく間を置いて、京子は一つ咳払いをした。
「フクちゃんは小さい頃から病弱で、外で遊ぶこともほとんどなかったそうなんです。何かと動きも鈍くて、寝込んでばかりだから家の手伝いもできないし、まあ、あまり家族からも良い目で見られていなかったようなんです。それでも、すぐ上のお姉さん、私の祖母カヨは面倒をよく見たらしいんですね。フクちゃんが元気な時は小川や花畑に連れて行ったり、子牛が生まれれば見に行ったり。入院している時も妹にお土産を持っていったり、映画の話をしてやったりとか色々」
藤石が、また店員を呼んでコーヒーを三つ注文した。
それに対して京子は会釈をしつつ、さらに続ける。
「そのうち戦争の色が濃くなってきて、時代的に余裕がなくなるというんでしょうか。その時でおそらく二十歳過ぎでしょう。大人ですから、自分のことでいっぱいになりますよね。結婚もして、子供も生まれて、だんだんカヨはフクちゃんにかまっていられなくなったんです」
コーヒーが並べられると京子は話を中断し、店員にありがとうございますと頭を下げた。
「その頃に、フクちゃんは肺病に罹ったそうなんですよ。結核ですね。当時は不治の病と言われて……。運命を悟ったフクちゃんは、姉……私の祖母カヨに相談しました。自分の想い人を」
「それが――僕の……」
白井がつぶやくと、京子はうなずきながら苦しそうにを見つめきた。
「そうです……白井家の長男だった麻人さんのことを祖母に打ち明けたそうなんです。祖母は驚いたそうですよ。年齢も少し離れていたようですし。ただ、当時……おそらく麻人さんは戦地にいたんじゃないかな……。詳しくは聞けてないんですけど」
京子の嘆息に、白井も小さく頷き返した。
「僕も詳しく聞いたわけではないんですが、白井の……僕の伯母の話では、大伯父の麻人は新聞社だか出版社だかで働いてたそうなんです。だから、もしかしたら従軍記者とか……そういった可能性もありますね」
いずれにしても、ここは想像の域を出ることができない。藤石にまた怒られる気がして、白井は京子に話の続きを促した。
京子がわずかにうなだれる。
「フクちゃんは治療のために療養所に入って……何とか命は助かったものの、回復までには時間がかかり、自由に外には出られなかったそうです。結果的に、もう麻人さんとは会えずじまいで……」
白井は胸が締め付けられた。
ちょうど隣の席に賑やかな若い男女の客が座った。
けれど、こちらを気にして急に声を潜め出した。
京子が、やたら長い間を置く。
もしや――核心に近づいているのか。
「そして、その療養所の中でフクちゃんは歌を詠んでいたらしいのです。歌のことなんていつ学んだか祖母も知らなかったみたいですけどね、きっと麻人さんから教わったんじゃないかって言ってました。なにしろ、頭の良い人だったみたいですし」
「……」
「歌は日に日に増えて、書き溜めたものも何十枚とかになったそうなんです。祖母はフクちゃんを見舞ったときにそれを見つけて、その一途さに心を打たれたらしく」
京子はなぜか藤石を見た。
「書き溜めた歌を祖母が預かったのです。きっと届けてあげるからと」
「つまり、歌集の持ち主が変わった――ということですね」
藤石が、まるでゲームを楽しむかのように笑った。
京子も、持っていたハンカチを握りしめて言った。
「祖母は麻人さんの居場所を探したらしいんです。でも、わからなかった。家が近かったとはいっても、さすがに隣近所の近さではありませんし……周囲の人間に聞こうにも、兵隊に取られた人も疎開した人もいたし……あの当時じゃなかったら違った結果になっていたんでしょうね」
そして、戦争が終わって――京子は続けた。
「終戦直後にフクちゃんは退院しました。肺病も奇跡的に回復し、外の世界に戻ってきたのですが、あまりにも様子が変わっていた。家族の幾人かは戦死していたようですし。ただ姉のカヨ、私の祖母は無事だった」
声のトーンが落ちた。
「フクちゃんは麻人さんのことを聞き出そうとした。しかし祖母は答えられなかった。ただ一言、歌のお手紙は届けたと言ってしまったそうなのです」
京子の声が涙に染まる。
「実際には届いているはずないです。居場所がわからないのだから当然です。でも、その言葉をフクちゃんは信じてしまったのです。そして、麻人さんからの返事を待つ日々が始まったのです。時代は豊かになり、徐々にフクちゃんも健康な身体になっていきました。当時としては後家かもしれないけれど、年齢は三十代ですから、結婚だってできたはずなのです。それを、麻人さんを想うがために、捨ててしまった」
京子が、少し感情的になってきた。
無理もない、白井はそう思った。
それどころか、故人の遺志にとらわれた年月は白井の比ではない。
藤石が肘をつき一点を見ている。話は聞いているだろうが、何を考えているのかわからない。白井は不安を覚えながらも、京子に話の続きを促した。
京子はコーヒーを口に含むと、ふうと息を吐いた。
「私が祖母に話を聞かされた時は、それだけしか教えてくれませんでした。何しろ、私はまだ中学生で恋だの愛だのよくわからなかったし、それに戦争とか結核とか怖かったことの方がよく覚えています。ただ、今こうして麻人くんと関わることで、色々とわかってきたんです」
白井は、手をつけていないコーヒーカップの黒い闇をひたすら見つめていた。藤石が気にするような素振りを見せたが、結局は無言で自分のコーヒーを飲んだ。
京子が口を開いた。
「この後の話ですが」
強そうな眉をしかめて、言葉を選ぼうとしている。
「しばらくして、みんな亡くなっていきます――」
「……」
「それで、麻人くんの柳田のお祖父さんが亡くなった時、白井家の方々も来たそうです。これは、当時若かったうちの母親も覚えていたみたい」
「え……僕の、白井の祖父母が葬儀に参列したんですか?」
「昔は近所だったそうですからね。考えてみれば年齢は近いし、子供のうちなら一緒に遊んでいてもおかしくないでしょう。ともあれ、白井さんたちが来て、昔話にでもなったんじゃないかと思います。そこで、白井麻人さんがすでに亡くなったことも、きちんと報告されて……」
「なるほどね。ただ、京子さんのお祖母さんは、【白井麻人】があの墓地に埋葬されていることだけは伏せたんだな。フクさんに知られてしまうから」
藤石は合点がいったようなことを言ったが、その表情はどこか険しかった。
とても後味の悪い話だ。
結局、誰も救われていないのだから。
「あとは、もう後日談です」
京子が空を見つめる。
「当然に、麻人さんが亡くなったことをフクちゃんには言えず、祖母は悩んだ末に秘密にしておくようにと私に伝えました。結局、歌集の在り処がわかりません。届けられたという言葉が本当なら……」
京子は白井を苦しそうに見つめた。
「フクちゃんの歌は、白井さんちにあるはずですよね?」
その眼差しに、白井は思わず下を向いた。
「でも、確か僕の大伯父の居場所はわからなかったんですよね?しかも死んでいたんですから届けようがないですよね」
まるで責任を押し付けるように、白井は反論した。重苦しい空気に押し潰されそうだ。
京子は弱々しく笑った。
「麻人くんの言うとおりです。だから、私も伊藤の家のどこかに残っていると思って探しました。でも、結局は見つからず仕舞いです」
二人は互いに深いため息をつき、頭を抱え、テーブルに突っ伏した。
すると、京子がゆっくりと肩を震わせ、笑い出した。その顔はどこか晴れ晴れとしている。
「ああ、でも。少しはスッキリしたかな」
京子は思いっきり伸びをした。
「麻人くん、どうもありがとう。私も三十年前の祖母の言葉の意味がやっとわかりました。まさか、明治生まれの麻人さんの子孫と会えるなんて思いませんでしたから」
その顔に、白井もどこか安心した。
「あの、京子さん……ありがとうございます。僕も何か胸のつっかえが取れました。フクさんは僕の大伯父を想って歌を詠んだ。それが届いたと信じ続け、再会を待つ間に、その……認知症にかかってしまったんですね。すごく寂しいですけれど」
そうだ――解決じゃないか。
京子の祖母が、孫に伝えてくれておいたことに、白井は感謝した。
フクは麻人を想っていた。歌を詠んで、麻人に贈ろうとしていた。
しかし、フクは結核を患い療養所へ入った。
その妹から歌集を預かった京子の祖母は、想い人の麻人を探したが見つけられず終戦。
そして、カヨとフクの姉妹が知らぬ間に麻人は死亡。
歌集はカヨが言うには『届けられた』らしいが、依然として行方不明。
フクはすべてを忘れて今は施設で暮らしている――。
「ちょっと待てって」
突然、藤石が鋭い声を上げた。
頬杖をついて二人を見つめる顔は、不機嫌極まりなかった。
「あのさ、俺は最初から無関係だし、そっちがそれで良いなら良いけども、それなら、俺をこんな場所に呼ぶなって話だ」
藤石は、テーブルの端に置かれた一筆箋を顎で指し示しながら言った。
「気になってしょうがないね。どうしてそいつを……フクばあさんの歌を、四十も年が離れた白井美津子が持っているんだ?今までの話は、単なるあらすじだろうよ」
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