ずっと、一緒に

ヤン

文字の大きさ
上 下
6 / 37
第二章

第四話 油利木くん

しおりを挟む
 ファルファッラでピアノを弾くようになってから、半月ほど過ぎた。だいぶ慣れてきたとはいえ、ドアのベルには反応してしまう。
 その日は、やや客足が鈍く、ノーゲストになる時すらあった。

吉隅よしずみくん。手を止めていいよ。またゲストが来たら、弾いて」
「はい」

 店長は、大きく伸びをすると、ワタルのそばを離れ、ウェイトレスらと談笑し始めた。ワタルは、椅子から立ち上がり体を少し動かした後、ピアノの影に置いていた、ペットボトルの水を一口飲んだ。

 はーっと息を吐いた時、ドアのベルが鳴った。急いで椅子に座ると、ドビュッシーの『月の光』を弾き始めた。

 ゲストを何気なく見ると、よく知っている人だった。
 宝生と、宝生の親友でもあるバイオリン科の中村教授。そして、もう一人。

油利木ゆりきくん……)

 ワタルは、急に鼓動が速くなったのを感じた。

 彼らは、注文を済ませた後、楽しそうに話し始めた。気になりながらも、演奏を続けていた。そこへ、店長がやってきて、「休憩どうぞ」と言った。

「今日は、先生たちと食事していいよ。特別だよ。今、あの席に食事持って行くから」
「いいんですか? ありがとうございます」

 笑顔で一礼した後、椅子から立ち上がり、宝生たちのテーブルに向かった。宝生は、ワタルに気が付くと軽く手を上げ、

「お疲れ様。いい演奏ですね。ちゃんと分をわきまえている感じで」
「はい。そのつもりです」

 ワタルが席に着くと、すぐに食事が運ばれてきた。

「吉隅くん。改めて紹介しましょうか。こちら、バイオリンの中村先生。前に一度会ってますね。それから、中村先生の門下生の……」

 宝生の視線が、中村からもう一人の方に移った。ワタルも、その人に視線を移動させ、

油利木ゆりき和寿かずとしくんですよね」

 言われて、彼は驚いたような表情でワタルを見て、

「え? オレを知ってるんだ?」
「入学式で、総代そうだいをやりましたよね。同期の学生はみんな、君のこと知ってると思いますけど」

 ワタルの言葉に、和寿は笑顔になり、

「オレ、有名人? やった」

 その嬉しそう様子を見て、ワタルは顔が赤くなるのを感じ、思わず視線を外してしまった。そうされて、和寿は、

「なんで俯いてるんだよ。オレ、気に障ること、言っちゃったかな?」
「違います」
「そっか。じゃあ、食事しなよ。時間、決まってるんだろう」

 促されて食べ始めるが、あわてて口に運んでいるせいか、味がよくわからない。

「君さ、すごくきれいな音で弾くんだね。なんかさ、癒される。先生たちも、そう思いませんか?」

 和寿が言うと、宝生は深く頷く。

「そうでしょう。だってね、この人は、僕の愛弟子ですから。僕は、そう思ってるんです」

 愛弟子。

 ワタルは、その言葉を聞き、驚いて食べ物を引っ掛けてむせてしまった。それを見た和寿が、ワタルの背中を叩きながら、「落ち着けー。落ち着けー」と、呪文のように言う。そのおかげか、少しすると落ち着いてきた。

「ありがとうございます。もう、大丈夫です」
「良かった」

 和寿が、ほっとしたように息を吐くのを、つい見つめてしまった。と、和寿が、ワタルの顔を覗き込むようにしてきて、

「あのさ、吉隅くん。オレの伴奏、やってくれないかな。君と合わせてみたいんだけど」
「伴奏ですか?」

 和寿から、いきなり思いがけないことを言われて動揺しながらも、なんとか言葉を返した。

「そう。伴奏。どうかな?」

 ワタルが答えられずにいると、今まで黙っていた中村が、和寿の肩を叩き、

「油利木くん。君、伴奏やってくれてる人がいるんじゃなかったっけ? 高校の時からやってくれてるって言ってたよね。しかも、その子と付き合ってるんだろう。彼女、どうするつもり? 伴奏断った後、絶対気まずいよね」

 中村の言葉の何かに反応して、胸がドキッとした。何に反応したのだろう、と考えていると、和寿が頭を掻く。

「それ言われると……。じゃあ、今日、ちょっと合わせるのはどうかな? 今日だけ」

 ワタルの目をとらえながら訊く。ワタルは、ためらいながら、

「今日だけなら。あの。ぼくが油利木くんの伴奏をすることで揉めるんだったら、やりたくないんです。だから、今日だけ」
「わかったよ。じゃ、仕事終わるの待ってるから」

 和寿は嬉しそうだったが、宝生は、微妙な顔をしているように見えた。ワタルは心配になり、

「宝生先生。先生は、反対ですか?」
「いえ、別に。君の人生ですからね。君の好きにするといいですよ」

 愛弟子と言いながら、突き放すようなことを言う。やはり、理解するのが難しい人だ、と、ワタルは思った。
しおりを挟む

処理中です...