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3話:盲の語りと異教の凶鬼
異教の凶鬼
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馬を借り、町を出たときには少し空は薄暗くなっていた。間もなく完全な夜が訪れる。空には禍々しい紅い月が落ちてきそうな程大きく浮かんでいる。
「ヨリ様、しっかり掴まっていてください!」
田中の隣をキョウが走るが、その走りは堂々としている。自分の前にヨリを乗せているというのに、田中よりも僅かに先へと走っていく。しかも手綱捌きは巧みで、道の悪さをものともしない。
ヨリばかりを注視していたが、キョウもまたとんでもない奴なのかもしれない。
よしな村の直ぐ近くまで来た。異変はもう、そこから始まっていた。
村へと続く道の途中で、血を流し倒れた村人を見つけ田中は馬を下りて駆け寄った。
「大丈夫か!」
抱き起こして仰向けにした女の目は虚ろで焦点が合わず、右の肩から左腰の辺りまで袈裟に大きく裂けている。獣が爪を立てて叩き下ろした、そんな傷だった。だが辛うじて息はある。口元から血の混じる泡を吐きながらも、女は縋るように最後の力を振り絞り田中へと何かを伝えようとした。
「子…………が……たすけ……」
「子供がいるのか? どこだ?」
「かれ、い……ど……いちば……おおき、な……いえ……」
一番大きな家の枯井戸の中。女はそれだけを伝えて力尽き、腕にずっしりと重みがかかる。田中は女を道の脇へと寄せ、短く手を合わせた。
「血の臭いがします。田中様、戦う準備をしておいてください」
険しい様子でキョウが言い、念のためにと馬をその場に残した。その後に続いた田中も直ぐに村へと到着し……あまりの惨状に声を失った。
何人が倒れているのだろう。子を守ろうとした母親ごと、家の者を守ろうとした男も、逃げようとした老人も、みな等しく倒れ伏し、死に絶えていた。
そしてそれは村のほぼ中央で、今まさに殺した女の腸を食らっていた。
身の丈は五尺を越える大きな塊のようなそれは、腕は大きく盛り上がり上腕は小山のよう。胸や腰回り、足などもゴツゴツと歪に膨らんでいるのに、頭だけが人間のもので小さく酷く不格好だ。白銀の目は黒目の部分が濁り、口は大きく裂けて中は真っ赤。そこから見える牙は大型の肉食獣のように鋭い。大きな手に見合う大きく鋭い爪がついており、血濡れている。
その異形を見た瞬間、田中は恐ろしさに足がすくみ動けなかった。戦場で、数百数千という敵軍を目の前にしてもこんな恐怖を感じた事はなかったのに。本能が拒絶するのだ、あれはいけないと。
女の腸を食らったそれが、ゆっくりとこちらを見る。そしてニンマリと、残酷な笑みを浮かべた。
動けない。呆然と立ち尽くす田中をめがけ、それはもの凄い速さで飛ぶように迫ってきた。巨体からは想像ができない速さ、四肢を使っての動きは獣のようだ。目を見開き、足が一歩下がったのが限界。大きな手が振り上げられ、今まさに振り下ろされようとしている。
死ぬのだと、覚悟というよりは悟った感じだった。受け入れる、受け入れないの問題ではない。どうしようも無い力差で打ちのめされる未来しか見えなかった。
が、その前に黒い影が差し、青白い閃きが異形へ向けて放たれる。下から上へと切り上げたキョウの刀が異形の腕を迎え撃って切り飛ばしたのだ。
『ぎゃぁぁぁぁぁ!!』
「田中様、下がって!」
その声にハッとして後ろに下がった田中の肩を、ヨリがポンと叩く。この状況で落ち着き払ったヨリの様子に、田中は自分が過剰に反応しているようで恥ずかしくなった。
明らかに落ち着いている彼らの方が異常だというのに。
「田中様、先ほどの女性が言っていた子供を探していただけませんか?」
「だが……」
「俺なら大丈夫です! お願いします!」
腕を失って暴れる異形が滅茶苦茶に体を振り回すのにも、キョウは対応して刀で弾き抑えている。
が、しばらくすると切り飛ばしたはずの腕の断面がボコボコと膨れ、血を散らしながら再び生えてくる。落ち着いた異形は明らかにキョウを敵と認識し、間合いを取って睨み付けた。
「……厄介だ」
「今も人を大量に食らったばかりで、力が余っているのでしょう。キョウ、もう少し色々飛ばしてやれば限界がきます」
「はい、ヨリ様」
……確かにこの場では自分が一番足手まといなんだろう。田中はそう判断し、辺りを見回す。そして直ぐに、一番大きな家を見つけてこっそりと動き、その家へ向かって走った。
おそらく村長の家なのだろうそこの裏には、二つ井戸があった。最初に覗き込んだ新し目の井戸には並々と水がたたえられている。
田中はもう一つ、離れた場所にある古い井戸を覗き込んだ。
まだほんの少し水は残っているが、ほぼ枯れている。そしてそこには、確かに何か影が動いていた。
「おーい! 大丈夫か!!」
田中の声に影は動き、見上げる。まだ幼い少年が、釣瓶《つるべ》を抱えて震えていた。
「俺は、祥の都の田中という者だ! 道中、君の母親に会って君を頼まれた!」
「……おっかぁ」
小さな声が井戸に反響して田中にも聞こえる。どうやら意識などはちゃんとしているようだ。
「引き上げる! 釣瓶をしっかり握っているんだぞ!」
少年が頷いて釣瓶をしっかりと握るのを確認し、田中は太い縄を引いた。
幸い滑車や柱、梁はしっかりしている。子供一人を引き上げるのはやはり水を汲むように楽ではないが、案外軽くもある。あの少年自体があまり重くないのだろう。
そうしてしばらく縄を引いて少年をたぐり寄せてようやく、田中は中の少年を助け出す事ができた。
予想通り、痩せた七つくらいの男の子だった。だが、案外いい顔をしている。少年らしい大きな目には涙が溜まり、それでも泣かないようにと必死に堪えている。
「もう大丈夫だ、俺と一緒に安全な場所まで行こう」
とりあえずあの化け物から離れた場所に行かなければ。
田中は辺りを見回し、家の裏側を通って森へと一度逃げ、街道筋まで出ようと思っていた。そこで一度待ってもらい、キョウ達に合流する。
慎重に、物音を立てないように、呼吸さえも落として進む。広い場所ではキョウが戦っているのだろう激しい音も聞こえるが、そちらはあえて見ないようにした。見たらきっと動けなくなる。
が、少年はその音に怯えて足を止め、そして見てしまう。自分の母を、そして多くの村人を殺したあの化け物を。
「う、あ……うあぁぁぁぁぁ!!」
「っ!」
悲鳴を上げる少年を責められはしない。それだけの惨状だ。だが、今はあまりに間が悪い。
グリンとこちらを向いた魔物の、不気味に光る両眼が田中と少年を見つけニタリと笑う。そして一直線にこちらへと向かってきた。
「待て!」
キョウが魔物を追って走るが簡単ではない。どうにか追いついて刀を振るうが、魔物はそれを寸でで避け、振り向きながら横薙ぎに爪を振るった。
攻撃直後、一番隙のあるキョウはそれでも盾にするよう腕を戻すが、両腕を魔物の爪が切り飛ばす。刀ごと腕を飛ばされたキョウにはもう、どうしようもないだろう。大きな魔物の爪が振り上げられ、そのまま叩きつけるように下ろされるのを田中は絶望の目で見た。
胸から大きく裂かれたキョウが倒れていく。その光景に、少年は悲鳴を上げて気を失った。
魔物はニタリと笑い、改めて田中と少年を見る。そして、恐怖を煽るようにゆっくりと近づいてくる。腹を括るしかない。田中は刀を抜いて腹の底に力を込めた。
魔物は腕を真っ直ぐに振り下ろす。迎え撃つように田中は刀で受けたが、あまりの重みにギチギチと鳴る。支える腕が震え、耐える足下もジリジリと押し込まれていく。当然、振り払う力はない。
腕が限界を迎える寸前、魔物の頭めがけて小石が飛んできて当たった。こめかみの辺りに当たったそれに視線を向けた魔物の前に、ヨリが白銀の目をしっかりと開けたまま立っていた。
「ヨリ、逃げろ!」
「……貴方の為に、語りましょう」
無茶だ、こんなものを相手に語りなど効果があるものか。語り部の語りは魔物の飢えを癒やすと言うが、そんなものが通用する相手ではない。
ドシン、ドシンと音をさせて魔物がヨリへと近づいていく。ヨリはその魔物から目を逸らさない。額に僅かに脂汗を浮かべながら、それでも彼は口を開いた。
「とある村に、勤労な男がおりました。彼は雨の日も風の日もせっせと働く事で有名でしたが、嫁さんには恵まれませんでした。そこで村長はこの男に嫁さんを世話してやりました。この嫁さん、とても美しい娘でした」
魔物はピクリと動きを止める。そしてジッと、ヨリを見た。
「男は嫁さんと二人で幸せに暮らしておりましたが、嫁さんがあまりに美しいので周囲でも噂になり、やがてそれは都の殿様の耳にも入ってしまったのです。
殿様はどうしても嫁さんが見たくてこっそりと見に行き、見たらどうしても欲しくなり、とうとう無理矢理嫁さんを自分の所に連れて行ってしまったのです」
途端、魔物の顔に怒りが浮かんだ。ヨリへと向かい突き倒し、細い肩を縫い止めるように地面に押しつけ牙を近づける。ヨリの口から苦痛の声が漏れ、表情もまた辛そうに歪む。が、白銀の目はまったく逸らさず魔物を見据える。そして更に口を開いた。
「男は嘆き悲しみ仕事も手が付かず、とうとう寝込んでしまいました。するとある日、男の枕元に仏様が立ってこう告げます。
『山向こうの尼寺に行きなさい』と。
男は気力を振り絞り、仏様の言葉に従い山向こうにある尼寺へと向かったのです。
峠を越えてやっとのこと辿り着くと、そこには自分と同じように痩せて寝込んだ嫁さんがいるではありませんか。尼僧に聞くと殿様に無理矢理連れてこられた嫁さんは食事も食べずに毎日泣き暮らし、どうにもならなくなった殿様がここに連れてきたのだと言う。
男が枕元で嫁さんに声を掛けると、嫁さんは目を覚まし男を見てにっこりと微笑みました」
魔物の動きがまた止まる。押さえつける力も心持ち緩んだように見えた。それでも尚、ヨリは言葉を紡ぐ。たった一人、この魔物の為だけに。
「男は嫁さんを担いで峠を行きます。ですが、それを知った殿様が取り戻そうと追いかけます。男は必死に逃げますが、殿様に追いつかれそうになって叫びました。
『仏様、助けてくんろ!!』
すると、今まで月が見える程に晴れていた空が雲に覆われ、ゴロゴロと音を立てます。そして突然光ると、それは真っ直ぐに殿様へと落ちてきて、殿様はドサリと倒れました。
男はそのまま嫁さんを連れて逃げる事が出来ました。
その後、男は新天地で嫁さんと幸せに暮らしながら、あの日夢枕に立った仏様を真似て一つの木像を作り、それを大切にお祀りしたそうです」
ヨリの声が終わり、しばし沈黙が訪れる。その後少しして、魔物は呻きながら両手で自分の顔を覆ってヨリの上からどけた。
『ウ……ガァ…………ウガァァァ!』
「!」
また暴れるのだろうか。田中は刀を構えたが、魔物は背を向けて明後日の方向へと走っていく。
追いかけなければ。思い鈍い足を動かそうとした、その時だった。
影が魔物を追って獣のように地を駆け、その背中を踏み台に高い空へと身を躍らせる。紅い月に重なる黒い人影、それが魔物の脳天めかげて刀を突き立てた。
脳天から串刺しにされた魔物が地に崩れる。魔物の肩に足を置いて刀を突き立てていた人物の背を、田中は信じられないものを見る目で見ていた。それは決して、あるはずの無い光景だったからだ。
冷徹に魔物を見下ろす男はまるで別人だ。その両腕には腕がちゃんと付いている。やがて男の足下で呻きを上げながら魔物が塵のように消え、転がる物を拾い上げるまで、男はただ睨み下ろしていた。
「……キョウ、なのか?」
田中が声をかけると、男は振り向く。紅い月と同じ紅い瞳がこちらを向き、大きく裂けた胸の傷はそのままで。
何が起ったのかが分からない。が、真っ先に考えたのはキョウが魔物になったという事だった。
だが、キョウはとても悲しそうな笑みを浮かべて刀を収め、倒れたままのヨリへと近づき大切そうに腕に抱いた。
「キョウ、お前……」
一体、なんなんだ?
田中の疑問を察しているように笑ったキョウが、知っている声と口調で言葉を発した。
「俺は魔物ではありませんが、生きてもいません。もうとっくの昔に死んでいるんです」
理解ができない。が、確かに今目の前にいるのは知っている男だ。表情も、声音も。
「幽霊と魔物の間というのでしょうか。あっ、人に向かって危害を加えようとは思っていませんので安心してください! と言っても、信じてはもらえないと思いますが」
寂しそうに俯くキョウの様子は、しょぼくれた柴犬のようだ。もうここに、獰猛な獣のような空気はない。
田中は恐る恐る近づいて、ヨリを見た。少し苦しそうに汗を流しているが、ちゃんと生きている。押さえ込まれていた肩を見ると紫色になっていた。
「傷の手当てと休息が必要だ。とりあえず、寺に戻るぞ」
「え?」
凄く驚いた顔のキョウが田中を見る。紅い瞳が人懐っこい犬のような丸さで見つめるのだ。思わず力が抜けた。
「……後で説明してもらう。とりあえず着物を着替えろ。それではごまかしがきかない」
「あっ、はい! しばしお待ち下さい!」
ヨリを田中へと預け、キョウは無人の人家へと駆け込んでいく。その様子からも毒が抜けた。それに、考えた所で答えなど分からないだろう。体も痛い、腹も空いた、疲れた。とにかく早く休める場所に行きたいのだ。
戻ってきたキョウがヨリを抱え、田中は保護した少年を抱え、女の倒れていた辺りに繋いでおいた馬に乗る。そうして帰路につくのだった。
「ヨリ様、しっかり掴まっていてください!」
田中の隣をキョウが走るが、その走りは堂々としている。自分の前にヨリを乗せているというのに、田中よりも僅かに先へと走っていく。しかも手綱捌きは巧みで、道の悪さをものともしない。
ヨリばかりを注視していたが、キョウもまたとんでもない奴なのかもしれない。
よしな村の直ぐ近くまで来た。異変はもう、そこから始まっていた。
村へと続く道の途中で、血を流し倒れた村人を見つけ田中は馬を下りて駆け寄った。
「大丈夫か!」
抱き起こして仰向けにした女の目は虚ろで焦点が合わず、右の肩から左腰の辺りまで袈裟に大きく裂けている。獣が爪を立てて叩き下ろした、そんな傷だった。だが辛うじて息はある。口元から血の混じる泡を吐きながらも、女は縋るように最後の力を振り絞り田中へと何かを伝えようとした。
「子…………が……たすけ……」
「子供がいるのか? どこだ?」
「かれ、い……ど……いちば……おおき、な……いえ……」
一番大きな家の枯井戸の中。女はそれだけを伝えて力尽き、腕にずっしりと重みがかかる。田中は女を道の脇へと寄せ、短く手を合わせた。
「血の臭いがします。田中様、戦う準備をしておいてください」
険しい様子でキョウが言い、念のためにと馬をその場に残した。その後に続いた田中も直ぐに村へと到着し……あまりの惨状に声を失った。
何人が倒れているのだろう。子を守ろうとした母親ごと、家の者を守ろうとした男も、逃げようとした老人も、みな等しく倒れ伏し、死に絶えていた。
そしてそれは村のほぼ中央で、今まさに殺した女の腸を食らっていた。
身の丈は五尺を越える大きな塊のようなそれは、腕は大きく盛り上がり上腕は小山のよう。胸や腰回り、足などもゴツゴツと歪に膨らんでいるのに、頭だけが人間のもので小さく酷く不格好だ。白銀の目は黒目の部分が濁り、口は大きく裂けて中は真っ赤。そこから見える牙は大型の肉食獣のように鋭い。大きな手に見合う大きく鋭い爪がついており、血濡れている。
その異形を見た瞬間、田中は恐ろしさに足がすくみ動けなかった。戦場で、数百数千という敵軍を目の前にしてもこんな恐怖を感じた事はなかったのに。本能が拒絶するのだ、あれはいけないと。
女の腸を食らったそれが、ゆっくりとこちらを見る。そしてニンマリと、残酷な笑みを浮かべた。
動けない。呆然と立ち尽くす田中をめがけ、それはもの凄い速さで飛ぶように迫ってきた。巨体からは想像ができない速さ、四肢を使っての動きは獣のようだ。目を見開き、足が一歩下がったのが限界。大きな手が振り上げられ、今まさに振り下ろされようとしている。
死ぬのだと、覚悟というよりは悟った感じだった。受け入れる、受け入れないの問題ではない。どうしようも無い力差で打ちのめされる未来しか見えなかった。
が、その前に黒い影が差し、青白い閃きが異形へ向けて放たれる。下から上へと切り上げたキョウの刀が異形の腕を迎え撃って切り飛ばしたのだ。
『ぎゃぁぁぁぁぁ!!』
「田中様、下がって!」
その声にハッとして後ろに下がった田中の肩を、ヨリがポンと叩く。この状況で落ち着き払ったヨリの様子に、田中は自分が過剰に反応しているようで恥ずかしくなった。
明らかに落ち着いている彼らの方が異常だというのに。
「田中様、先ほどの女性が言っていた子供を探していただけませんか?」
「だが……」
「俺なら大丈夫です! お願いします!」
腕を失って暴れる異形が滅茶苦茶に体を振り回すのにも、キョウは対応して刀で弾き抑えている。
が、しばらくすると切り飛ばしたはずの腕の断面がボコボコと膨れ、血を散らしながら再び生えてくる。落ち着いた異形は明らかにキョウを敵と認識し、間合いを取って睨み付けた。
「……厄介だ」
「今も人を大量に食らったばかりで、力が余っているのでしょう。キョウ、もう少し色々飛ばしてやれば限界がきます」
「はい、ヨリ様」
……確かにこの場では自分が一番足手まといなんだろう。田中はそう判断し、辺りを見回す。そして直ぐに、一番大きな家を見つけてこっそりと動き、その家へ向かって走った。
おそらく村長の家なのだろうそこの裏には、二つ井戸があった。最初に覗き込んだ新し目の井戸には並々と水がたたえられている。
田中はもう一つ、離れた場所にある古い井戸を覗き込んだ。
まだほんの少し水は残っているが、ほぼ枯れている。そしてそこには、確かに何か影が動いていた。
「おーい! 大丈夫か!!」
田中の声に影は動き、見上げる。まだ幼い少年が、釣瓶《つるべ》を抱えて震えていた。
「俺は、祥の都の田中という者だ! 道中、君の母親に会って君を頼まれた!」
「……おっかぁ」
小さな声が井戸に反響して田中にも聞こえる。どうやら意識などはちゃんとしているようだ。
「引き上げる! 釣瓶をしっかり握っているんだぞ!」
少年が頷いて釣瓶をしっかりと握るのを確認し、田中は太い縄を引いた。
幸い滑車や柱、梁はしっかりしている。子供一人を引き上げるのはやはり水を汲むように楽ではないが、案外軽くもある。あの少年自体があまり重くないのだろう。
そうしてしばらく縄を引いて少年をたぐり寄せてようやく、田中は中の少年を助け出す事ができた。
予想通り、痩せた七つくらいの男の子だった。だが、案外いい顔をしている。少年らしい大きな目には涙が溜まり、それでも泣かないようにと必死に堪えている。
「もう大丈夫だ、俺と一緒に安全な場所まで行こう」
とりあえずあの化け物から離れた場所に行かなければ。
田中は辺りを見回し、家の裏側を通って森へと一度逃げ、街道筋まで出ようと思っていた。そこで一度待ってもらい、キョウ達に合流する。
慎重に、物音を立てないように、呼吸さえも落として進む。広い場所ではキョウが戦っているのだろう激しい音も聞こえるが、そちらはあえて見ないようにした。見たらきっと動けなくなる。
が、少年はその音に怯えて足を止め、そして見てしまう。自分の母を、そして多くの村人を殺したあの化け物を。
「う、あ……うあぁぁぁぁぁ!!」
「っ!」
悲鳴を上げる少年を責められはしない。それだけの惨状だ。だが、今はあまりに間が悪い。
グリンとこちらを向いた魔物の、不気味に光る両眼が田中と少年を見つけニタリと笑う。そして一直線にこちらへと向かってきた。
「待て!」
キョウが魔物を追って走るが簡単ではない。どうにか追いついて刀を振るうが、魔物はそれを寸でで避け、振り向きながら横薙ぎに爪を振るった。
攻撃直後、一番隙のあるキョウはそれでも盾にするよう腕を戻すが、両腕を魔物の爪が切り飛ばす。刀ごと腕を飛ばされたキョウにはもう、どうしようもないだろう。大きな魔物の爪が振り上げられ、そのまま叩きつけるように下ろされるのを田中は絶望の目で見た。
胸から大きく裂かれたキョウが倒れていく。その光景に、少年は悲鳴を上げて気を失った。
魔物はニタリと笑い、改めて田中と少年を見る。そして、恐怖を煽るようにゆっくりと近づいてくる。腹を括るしかない。田中は刀を抜いて腹の底に力を込めた。
魔物は腕を真っ直ぐに振り下ろす。迎え撃つように田中は刀で受けたが、あまりの重みにギチギチと鳴る。支える腕が震え、耐える足下もジリジリと押し込まれていく。当然、振り払う力はない。
腕が限界を迎える寸前、魔物の頭めがけて小石が飛んできて当たった。こめかみの辺りに当たったそれに視線を向けた魔物の前に、ヨリが白銀の目をしっかりと開けたまま立っていた。
「ヨリ、逃げろ!」
「……貴方の為に、語りましょう」
無茶だ、こんなものを相手に語りなど効果があるものか。語り部の語りは魔物の飢えを癒やすと言うが、そんなものが通用する相手ではない。
ドシン、ドシンと音をさせて魔物がヨリへと近づいていく。ヨリはその魔物から目を逸らさない。額に僅かに脂汗を浮かべながら、それでも彼は口を開いた。
「とある村に、勤労な男がおりました。彼は雨の日も風の日もせっせと働く事で有名でしたが、嫁さんには恵まれませんでした。そこで村長はこの男に嫁さんを世話してやりました。この嫁さん、とても美しい娘でした」
魔物はピクリと動きを止める。そしてジッと、ヨリを見た。
「男は嫁さんと二人で幸せに暮らしておりましたが、嫁さんがあまりに美しいので周囲でも噂になり、やがてそれは都の殿様の耳にも入ってしまったのです。
殿様はどうしても嫁さんが見たくてこっそりと見に行き、見たらどうしても欲しくなり、とうとう無理矢理嫁さんを自分の所に連れて行ってしまったのです」
途端、魔物の顔に怒りが浮かんだ。ヨリへと向かい突き倒し、細い肩を縫い止めるように地面に押しつけ牙を近づける。ヨリの口から苦痛の声が漏れ、表情もまた辛そうに歪む。が、白銀の目はまったく逸らさず魔物を見据える。そして更に口を開いた。
「男は嘆き悲しみ仕事も手が付かず、とうとう寝込んでしまいました。するとある日、男の枕元に仏様が立ってこう告げます。
『山向こうの尼寺に行きなさい』と。
男は気力を振り絞り、仏様の言葉に従い山向こうにある尼寺へと向かったのです。
峠を越えてやっとのこと辿り着くと、そこには自分と同じように痩せて寝込んだ嫁さんがいるではありませんか。尼僧に聞くと殿様に無理矢理連れてこられた嫁さんは食事も食べずに毎日泣き暮らし、どうにもならなくなった殿様がここに連れてきたのだと言う。
男が枕元で嫁さんに声を掛けると、嫁さんは目を覚まし男を見てにっこりと微笑みました」
魔物の動きがまた止まる。押さえつける力も心持ち緩んだように見えた。それでも尚、ヨリは言葉を紡ぐ。たった一人、この魔物の為だけに。
「男は嫁さんを担いで峠を行きます。ですが、それを知った殿様が取り戻そうと追いかけます。男は必死に逃げますが、殿様に追いつかれそうになって叫びました。
『仏様、助けてくんろ!!』
すると、今まで月が見える程に晴れていた空が雲に覆われ、ゴロゴロと音を立てます。そして突然光ると、それは真っ直ぐに殿様へと落ちてきて、殿様はドサリと倒れました。
男はそのまま嫁さんを連れて逃げる事が出来ました。
その後、男は新天地で嫁さんと幸せに暮らしながら、あの日夢枕に立った仏様を真似て一つの木像を作り、それを大切にお祀りしたそうです」
ヨリの声が終わり、しばし沈黙が訪れる。その後少しして、魔物は呻きながら両手で自分の顔を覆ってヨリの上からどけた。
『ウ……ガァ…………ウガァァァ!』
「!」
また暴れるのだろうか。田中は刀を構えたが、魔物は背を向けて明後日の方向へと走っていく。
追いかけなければ。思い鈍い足を動かそうとした、その時だった。
影が魔物を追って獣のように地を駆け、その背中を踏み台に高い空へと身を躍らせる。紅い月に重なる黒い人影、それが魔物の脳天めかげて刀を突き立てた。
脳天から串刺しにされた魔物が地に崩れる。魔物の肩に足を置いて刀を突き立てていた人物の背を、田中は信じられないものを見る目で見ていた。それは決して、あるはずの無い光景だったからだ。
冷徹に魔物を見下ろす男はまるで別人だ。その両腕には腕がちゃんと付いている。やがて男の足下で呻きを上げながら魔物が塵のように消え、転がる物を拾い上げるまで、男はただ睨み下ろしていた。
「……キョウ、なのか?」
田中が声をかけると、男は振り向く。紅い月と同じ紅い瞳がこちらを向き、大きく裂けた胸の傷はそのままで。
何が起ったのかが分からない。が、真っ先に考えたのはキョウが魔物になったという事だった。
だが、キョウはとても悲しそうな笑みを浮かべて刀を収め、倒れたままのヨリへと近づき大切そうに腕に抱いた。
「キョウ、お前……」
一体、なんなんだ?
田中の疑問を察しているように笑ったキョウが、知っている声と口調で言葉を発した。
「俺は魔物ではありませんが、生きてもいません。もうとっくの昔に死んでいるんです」
理解ができない。が、確かに今目の前にいるのは知っている男だ。表情も、声音も。
「幽霊と魔物の間というのでしょうか。あっ、人に向かって危害を加えようとは思っていませんので安心してください! と言っても、信じてはもらえないと思いますが」
寂しそうに俯くキョウの様子は、しょぼくれた柴犬のようだ。もうここに、獰猛な獣のような空気はない。
田中は恐る恐る近づいて、ヨリを見た。少し苦しそうに汗を流しているが、ちゃんと生きている。押さえ込まれていた肩を見ると紫色になっていた。
「傷の手当てと休息が必要だ。とりあえず、寺に戻るぞ」
「え?」
凄く驚いた顔のキョウが田中を見る。紅い瞳が人懐っこい犬のような丸さで見つめるのだ。思わず力が抜けた。
「……後で説明してもらう。とりあえず着物を着替えろ。それではごまかしがきかない」
「あっ、はい! しばしお待ち下さい!」
ヨリを田中へと預け、キョウは無人の人家へと駆け込んでいく。その様子からも毒が抜けた。それに、考えた所で答えなど分からないだろう。体も痛い、腹も空いた、疲れた。とにかく早く休める場所に行きたいのだ。
戻ってきたキョウがヨリを抱え、田中は保護した少年を抱え、女の倒れていた辺りに繋いでおいた馬に乗る。そうして帰路につくのだった。
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